Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
☆ うきよえ 浮世絵の新板価格浮世絵事典
   ☆ 元禄年間(1688~1703)    ◯『江戸真砂六十帖広本』〔燕石〕④97(和泉屋某著・宝暦(1751~1764)頃)   〝元禄年中、勘三郎座にて、親団十郎荒岡に成て、切に鍾馗大臣と成て大当り、其鍾馗を西之内四ッに切    て、板行して出す、読売の者、鍾馗大臣団十郎と、呼かけ売ける、我も七八歳の頃、珍敷五文宛に買け    る、夫より段々外の役者絵はやりて出ぬ〟    〈市川団十郎の役者絵、一枚5文〉    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   〝浮世絵類考云    京伝按、江戸真砂六十帖云、元禄八九年の頃、元祖団十郎鍾馗に扮す、其容を画き刻て街に売、価銭五    文、是より役者一枚絵と称するもの、数種を刻す云々、以上略す〟    ☆ 宝暦年間(1751~1763)   ◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年成立) 〝歌舞伎役者写真の事、宝暦始の頃、画工鳥山石燕なる者、白木の麁末なる長サ弐尺四五寸、幅八九寸の    額に、女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛たり、諸人珍    敷事に沙汰に及し也、是江戸にて似顔画の濫觴成べし、其頃迄は、一枚絵とて、役者を一人を、糊入紙    を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記す    のみにて、顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり、近頃は、右体の一枚絵は更になし、浮世草紙迄も    似面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にする也、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、    角力取迄も似顔絵にしてうることゝなれり〟    〈錦絵以前の役者絵の記事。役者似顔絵は鳥山石燕が浅草寺に奉納した額の肉筆絵から始まるという。板画の役者絵の     方はまだ似顔がなく、しかも糊入紙を三ッ切にした三四遍摺とあるから、紅摺絵である。それが一枚四文であった。     なお、この中村喜代三郎は初代で安永六年(1777)没。浮世草紙とは草双紙(黄表紙・合巻)か〉    ◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②276(山東京山著・弘化三年(1845)序)   〝此頃(天明期)は、今の如く絵店にて、錦絵の団扇は稀には売もありけれど、はし/\には絵みせさへ    なければ、うちわを物に入れて背負ひ、竹に通したるをもかたげ「ほんしうちわ、ならうちわ、さらさ    うちはや、ほぐうちは」とよびて売りありく、おほかたは、若しゆ、二さいなどなり、にしきゑのうち    わ一本十六文なり、其粗末なりしをしるべし〟    〈錦絵の団扇一本16文〉    ☆ 寛政七年(1795)       ◯『江戸町触集成』第十巻 p45 触書番号10266(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)   (寛政七年(1795)九月晦日付)   〝錦絵之分、先年より追々高情(ママ)ニ相成、直段相増候間、錦絵壱枚廿銭已上之品摺立有之分、其外所持    之分画数銘々書出置、其数限売払、此上売直段壱枚十六文十八文已上之品致無用候様、相心得候様可申    付候右之通申談候間、右両様共御承知之上、猶又御心付御取計ひ、廿銭已上有来画数御組合限為御書出、    其品限売払候段御聞届可被成候〟    〈一枚の売値20文以上の錦絵は在庫限り、今後は一枚16文から18文までとし、それ以上は無用だと、町奉行の強制命令     である〉    ☆ 文化二年(1805)    ◯『荏土自慢名産杖(エド ジマン メイサン ズエ)』(黄表紙・山東京伝作・歌川豊国画・文化二年序)   〝二八十六文でやくしやゑ二まい 二九の十八文でさうしが二さつ 四五の廿なら大にしき一まい〟    〈役者絵二枚が16文、草双紙(黄表紙)二冊が18文、大錦一枚が20文〉    ☆ 天保二年(1831)    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   ◇役者絵 ⑥61   〝役者の一枚絵、天明比迄は西之内紙三つ切、今は二つ切也、三つ切の時分は、新板の絵は一枚八文、古    板の絵は一枚六文、又は糊入紙三つ切にて、一枚二文三文と売たるもの也、今の二つ切は、一枚価何程    なるや予不知〟    〈役者絵、天明頃迄、西之内三つ切の新板が8文、古板が6文。糊入紙三つ切が2~3文〉     ◇草双紙 ⑥61   〝草双紙、天明年中迄は、新作の本一冊八文にて、五枚宛綴たるもの、是を上下もの又三冊もの迚統き物    にして、尤祇は白漉の返し紙なり、表紙黄色の紙にて仕立たる物也、是を正月元日より、一枚草双紙と    て売来る、求め、子供への年玉物にしたる物也、今の草ぞうしは、何かこと/\敷致、害事も細かに長    々と書て、さま/\込入たる故、子供の慰にはならず、大人の持あつかふものなり、価も一冊一匁又一    匁五分などゝ有れば、子供の詠めものにならず、根本の訳をうしなひし事、此類近比は余多有りける〟    〈草双紙、この時代は所謂黄表紙、新作一冊8文という。三冊ものだと24文ということになる。「今の草ぞうし」とは天     保二年の自序があるから、文政頃の合巻と見てよいであろう。これが一冊一匁から一匁五分。仮に当時の相場、一両6     5匁、一両6500文で換算すると、一匁は100文にする相当。六冊ものだと600文~900文位か〉     ◇団扇 ⑥162   〝夏団扇売、寛政中頃迄は本渋うちは、奈良団扇、さらさうちは、反古団扇迚(トテ)、細篠竹に通に売来る    ものなるが、近頃来らざるや、四月上句より六月中売歩行たるもの、役者絵の新板ものなら一本十六文、    其外一通りの絵なら十二文十四文位、其頃迄は、今有る所の一本四十八文三十六文など売はなし〟    〈団扇の直段、寛政頃まで、役者絵の新板もの一本16文、その他の絵柄のものは12~14文。文政末から天保初年の当時     は一本36~48文位の小売値であったようだ〉    ☆ 天保三年(1832)    ◯『馬琴書翰集成』天保三年(1832)正月廿日    ◇篠斎宛、七月朔付書翰(二巻・書翰番号-38)②165   〝俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。この肖面の追善にしき画、旧冬大晦日    より早春、以外流行いたし、処々ニて追々出板、正月夷講前迄ニ八十番余出板いたし、毎日二三万づゝ    うれ捌ケ、凡惣板ニて三十六万枚うれ候。みな武家のおく向よりとりニ参り、如此ニ流行のよし、山口    屋藤兵衛のはなしニ御座候。前未聞の事ニ御座候。このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六    等、一向うれず候よし。ヶ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候板元ハ、末に至り、    二万三万づゝうれ遣り候ニ付、多く(門+坐)ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大    問屋にてハ、ヶ様之にしき絵ハほり不申、うけうりいたし候共、末ニ至り、いづれも二三百づゝ残り候    を、反故同様に田舎得意へうり候よしニ御座候。かゝる錦絵をめでたがる婦人ニ御座候。これニて、合    巻類ハほねを折るは無益といふ処を、御賢察可被下候。正月二日より白小袖ニて、腰に葬草(シキミのルビ)    をさし候亡者のにしき画、いまハしきものゝかくまでにうれ申とハ、実に意外之事ニて、呆れ候事ニ御    座候。ヶ様之事を聞候ニ付ても、弥合巻ハかく気がなくなり候也〟       〝右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日比までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし〟     ◇桂窓宛、七月朔付書翰(第二巻・書翰番号-40)②172    〝当早春、「俳優三津五郎・菊之丞追善のにしき画」、大流行いたし、八十余番出板いたし、凡三十五六    万枚うれ候ニ付、並合巻・道中双六などハ、それにおされ候て、例より捌ケあしく、小まへの板元ハ本    残り、困り候よし。死人の錦絵、正月二日比より同廿    日比迄、三四十枚もうれ候とは、意外之事ニ御座候。多くハ右役者白むくニて、えりに数珠をかけ、腰    にしきミ抔さし候、いまハしき図之処、早春かくのごとくうれ候事、世上の婦女子の浮気なる事、是に    て御さつし可被成候〟    〈記事は同年七月朔日のもの。正月二日頃から正月二十日頃にかけて、坂東三津五郎と瀬川菊之丞の死絵が婦女子、特     に武家の奥向きを中心に36万枚も売れたというのであるが、その余波が、購買層を同じくする合巻や道中双六に及ん     だという、馬琴の見立てである。この記事は直接死絵の価格ではないが、ベストセラーがどれほどの量なのか、参考     までにあげておいた。毎日2~3万枚ずつ捌け、一ヶ月足らずで36万枚売れたという。後出の『近世風俗史』によれば、     天保改革以前の役者絵は一枚約24文位のようだから、合計で8640000(八百六十四万)文となる。これを当時の銭相     場1両6500文で換算すると、1330両にも及ぶ。ブームの乗り遅れて、二、三万枚もの売れ残りを抱えた板元もあった     ようだが、こうした際物、時流に乗れば莫大な利益をもたらしたのである。もっとも馬琴によれば、鶴屋・泉市・西     村といった伝統のある地本問屋では、死絵の受け売りはしても出版はしなかったと言う。儲かるなら何でも手がける     というわけでもないらしい。大手の地本問屋にとって死絵は超えてはならぬもの、逆にいうと、死絵を出版しないこ     とが大問屋の証となっていたのかもしれない。坂東三津五郎は天保二年十二月二十七日没、享年五十七才。瀬川菊之     丞は天保三年一月六日没、享年三十一才。二人の死絵は国貞・国安・国芳等が画いている。馬琴が見たものは、白無     垢、襟に数珠、腰に樒を差した図柄というが、誰の死絵であろうか。ここでは一勇斎国芳と国安の死絵をあげておく〉
   一勇斎国芳画「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」  歌川国安画「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」      (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)       (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)    ☆ 天保九年(1838)    ◯『馬琴書翰集成』⑤24 天保九年六月二十八日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-6)   〝閏四月中、市村芝居ニていたし候、「八犬伝狂言錦画」もかひ取置候。是亦今便ニ差出し候。近来、紙こ    との外高料のよしニて、錦画の価いたく登り候。「八犬伝」残り弐枚の分ハ、おろし直段壱枚三分づゝ、    又芝居ニていたし候錦画ハ、おろし直廿四文づゝに御座候〟    〈「閏四月中、市村座芝居」とは「歳戌里見八熱海」。これに取材した「八犬伝狂言錦画」の卸値が二十四文。一方     「八犬伝」(国芳画「曲亭翁精著八犬士随一」)の方は一枚三分の卸値。この三分は金三分ではなく、大坂通用の     三分であろうか。すると、一分は一匁の十分の一で十文とされているから、三分は三十文に相当する。天保九年(1     838)七月朔日、小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-8)書翰よると、「八犬伝狂言錦画」の小売値は三十二文、「曲     亭翁精著八犬士随一」の方は四十八文で売り出されている。不審なのは、馬琴が「曲亭翁精著八犬士随一」の卸値     になぜ「文」ではなく「三分」を使用したかである。なお「八犬伝狂言錦画」は国貞画のものが確認できる〉
   五渡亭国貞画「歳戌里見八熱海」(早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索)  ◯『馬琴書翰集成』⑤36 天保九年(1838)七月一日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-8)   〝「八犬士錦画」、西村やニて、先年より追々ニ出板の残り弐枚【毛野大角】当三月出板いたし候間、早    速買取置候。是ニて、八枚不残揃ひ候也。(中略)錦画の紙イヨマサ、甚高料のよしニて、価前々とハ    一倍に成り、西与のハ壱枚おろし直三分づゝ、小うり店ニてハ四十八文づゝニうり候よし。役者画ハ、    おろし直壱枚廿四文づゝ、小うり店ニては三十二文づゝにうり候へども、よくうれ候よし〟    〈「八犬士錦画」とは一勇斎国芳画・西村屋与八板『曲亭翁精著八犬士随一』。最後の二枚は「犬阪毛野胤智」と「犬     村大角礼儀」。これを48文の小売値で販売していた。なおこの八枚組の出版時期を整理すると、以下のようになる。     天保七年三月刊 四枚 「犬飼現八信道」と「犬塚信乃戌孝」の「芳流閣屋根上の場」                「犬江親兵衛仁」「犬田小文吾悌順」     天保八年六月刊 二枚 「犬川荘助義任」と「犬山道節忠与」の「円塚山の対決」     天保九年三月刊 二枚 「犬阪毛野胤智」「犬村大角礼儀」〉
   一勇斎国芳画「曲亭翁精著八犬士随一」(館山市立博物館蔵・八犬伝デジタル美術館)          〈またここでいう「役者画」とは、閏四月から市村座で興行していた「八犬伝狂言」の「錦画」で、国貞画の「歳戌里     見八熱海」などをいうのであろう。これの小売り直が32文〉
      五渡亭国貞画「歳戌里見八熱海」(早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索)    ☆ 天保十一年(1840)     ◯『馬琴書翰集成』⑤191 天保十一年(1840)六月六日付 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-54)   〝「八犬伝芳流閣之大錦絵」三枚続、此節芝泉市ニて新板売出し、高料ニハ候へども能うれ候由、去乍色    板数返ニて、摺多出来兼候由聞伝候間、板元ハ遠方ニ付、近処伝馬丁絵草紙屋ニてかい取候。(中略)    代銭ハ壱枚三十八文宛、三枚ニて百十八(ママ)文ニ御座候。(中略)此度のは国芳作乍、至極評判宜敷由    ニ候へども、何分衰眼ニて見へわかず候〟    〈国芳画・三枚続「八犬伝芳流閣之大錦絵」は、一枚38文の三枚で118文という、単価と合計の計算が合わないが、と     りあえず一枚38文と見なす。「曲亭翁精著八犬士随一」が一枚48文で、飛び抜けて高く別格だが、普通の役者絵の     32文よりは高価である〉      ◯『馬琴書翰集成』⑤228 天保十一年(1840)十月二十一日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-69)   〝「弓張月の錦絵」、三枚続キニて、素人之蔵板に御座候。画工ハ北鵞ニて、為朝大蛇を退治致候処ニ御    座候。色ざし廿ぺんほどの由ニて、美を尽し候。「八犬伝之錦絵」流行故之事ニ可有之候。先頃、引受    人より三枚百文ニてかい取せ候へども、老眼ニハ何かわからず、無面目に御座候〟    〈素人蔵板とは地本問屋仲間以外の制作という意味であろうか。引受人とはその販売担当か。馬琴作『鎮西弓張月』に     題材をとった武者絵、二十遍摺、三枚続きの北鵞の錦絵が100文。一枚33文の見当である〉    ☆ 天保改革以前(~1841)    ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」④307   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝『田舎源氏』等、その他ともに合巻一紙二冊入、価銭大略百二十四文。毎冊各二十枚なり。二冊入の表    囊にも五、六編摺りの画を用ひたり一枚画すなはち錦絵、あるひは江戸絵と云ふ物、伊予正(イヨマサ)と云    ひ、紙半枚摺りなり。美人等十三五編摺の物一枚、価三十二銭ばかり。役者肖像等、わづかに粗なるも    の、一枚二十四銭なり〟    〈「田舎源氏」とあるから、天保年間の値段と考えてよいのであろう。二冊からなる合巻の値段が124文。錦絵の美人     画が32文、役者似顔絵が24文〉    ☆ 天保十三年(1842)    ◯『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-3)⑥21(殿村篠斎宛、四月一日付書翰)   〝大錦絵抔も、廿文より高直之品売間敷旨、被仰出候間、三十弐文売の大錦絵を、多く摺込候板元ハ損を    厭ハず、十九文宛ニおろし候を小売ニて廿文宛ニ売候よし聞え候〟    〈物価の統制が錦絵にも及んでいたようで、これまで32文であった小売値を20文に値下げせよとの通達が、四月以前に     あったようだ。卸値が19文だから、13文の利益がわずか1文に激減した。しかもこの値下げ圧力はなお加速し、約七     ヶ月後の十一月の町触では一枚16文以上は不可とされる〉    ◯「絵双紙団扇改方之儀并一枚絵彩色直段当相調申上候書付」十一月   (町年寄・館市右衛門の伺書『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」)   〝当時絵柄ニ寄、彩色拾篇余摺立、直段之儀も一枚ニ付貳拾四文位売捌候由〟    〈前出、錦絵の小売値を20文せよとの圧力もあまり徹底しなかったようで、24文位で流通していたようだ〉    ◯『江戸町触集成』第十四巻p257(触書番号13807)十一月三十日付   〝天保十三寅年十一月晦日                           組々世話掛 名主共    当六月壱枚摺絵其外合巻絵双紙之類取締方、絵草紙掛名主共え被仰渡候処、右商売人之内心得違之もの    も有之哉、懸り名主共不改請売出、其外彩色手ヲ込高直之品有之段相聞、以之外之義ニ付、已後彩色并    直段等左之通被仰付候    一 壱枚絵之義ハ已来彩色七八編摺を限、売直段壱枚拾六文已上之品可為無用    一 右壱枚絵三枚続より余慶ニ継合売出候儀、難相成候      右之趣相心得、此外都て当六月中被仰渡通堅相守、絵双紙屋共新板絵類は勿論、合巻絵双紙之類都て草    稿ニて、懸り名主月番之者え申出改印を請、出板之刻突合差出売買可致旨、名主支配々不洩様申付、月    行事持場所は最寄名主より心付、勿論以後新規右渡世相始候者えも、其節々前条之趣申含、心得違無之    様可申付候     附、団扇屋共仕入候絵柄之儀も同断、下絵を以右絵双紙懸り名主共え差出、可改請旨可申付候    右之通北御奉行所御差図を以申渡之、此上心得違之者有之候ハヽ急度可仰付候条、其筋商売人共え不洩    様具ニ可申含候      寅十一月           絵双紙掛 名主    〈六月の通達にも拘わらず、懸り名主の改(アラタメ)(検閲)を受けず、しかも手の込んだ色摺にして高値で出版する心得     違いがいるので、具体的に規制しようというのである。摺り数は七八遍まで、小売値は一枚16文以上無用。寛政七年     にも似たような通達があったが、摺り数に言及はなかったし、小売値も16文18文以上無用と2文ほど緩やかであった。     参考までに天保十三年当時、一枚絵はどれくらの値段であったかというと、前出、館市右衛門の伺書にもあるように、     摺り十遍余りの一枚絵が24文くらいであった。それを8文下げて16文にせよというのである。今回の規制はそれにと     どまらず、さらに一枚絵は三枚続までという制限が加わった。規制は団扇絵にも同様に及んだ〉      ◯『藤岡屋日記 第二巻』p302(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)十一月記)   〝十一月 町触    絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。    但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限    り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人    抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事〟    〈彩色は七八遍摺以内、値段は一枚16文。これは寛政の改革時の16~18文以内に倣ったもの〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p314(藤岡屋由蔵・天保十四年(1843)記)   〝天保十四卯年春    本郷二丁目古賀屋板元にて、神田明神祭礼の画を出して、よく売れて損をせし事    是は祭礼之図三枚に紅をたんと遣いて極彩色に致し、能売候得共、前々と違ひ高直に売事ならず、一枚    十六文宛にては少々損参り候に付、能売候程たんと損が参り候に付、     古賀やめが祭りを出して声とあげ      きやりのやふななきごへがする〟    〈昨年十一月の通達で一枚16文以上無用とされたのだが、色数を制限しないとコスト的には相当厳しいようである〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)(弘化元年)記)   (「源頼光土蜘蛛の画」記事、天保十四年八月、歌川国芳の三枚続き大評判になる。それに続いて)   〝又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵双    紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見せ    売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続百    文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也〟    〈これは一勇斎国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」に続いて出版された貞秀の土蜘蛛の記事。小売り値を見ると、店頭に     つるした絵(改めを経た化け物なし〉は36文で一枚12文、しかし密売品(化け物入り)の方は100文で一枚33文、約     三倍の値段で隠し売りしていた。貞秀画は国芳のものより小形でこの値段。前年、天保十三年のお触れでは「彩色七     八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用」であるから、如何に高価であるかがわかる。逮捕された板元久太郎およ     び画工・貞秀は共に手鎖二十日、過料三貫(3000)文。2011/04/12・訂正〉     〝其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘蛛    のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也〟    〈今度は「頼光土蜘蛛」の春画版である。一組三匁とは銭換算するとどれくらいなのであろうか。天保十三年の公定相     場、金1両=銀60匁=銭6500文、これで換算すると、三匁は325文。2011/04/12・訂正〉    ☆ 弘化四年(1747)    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二」「市中取締之部 二」p24   (町奉行配下隠密廻りの弘化四年(1847)五月十三日付「市中風聞書」)    〝趣意弁別致し兼候絵を板行し、右之内頼光四天王之絵、又ハ天上地獄之絵其外品々不分之絵柄など差出、    人々之目ニ留り、是ハ何に当り可申抔判断を為附候様ニ致シ成、奇を好候人情ニ付、新絵出候度、毎争    而買求、彼是雑説いたし候ニ付、絶板売止申付候後ハ、猶々難得品之様ニ相心得、探索いたし相調、残    り少ニ相成候所ニ至候而ハ、纔三枚ツヾキ之絵二朱一分位ニも素人同士売買致し候由ニ相聞、右ハ何と    なく御政事向、御役人ぇ比喩いたし候事ニも相聞、以之外不宜筋ニ而(云々)」    〈「頼光四天王之絵」は天保十四年(1843)の一勇斎国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」、「天上地獄之絵」は天保十五     年(弘化元年・1844)歌川貞重の「教訓三界図絵」。(本HP貞重の項参照)この史料は隠密廻りがこれら判じ物の     取引値段を報告したもの。絶板・発禁になると、今度は希少価値が付いて、三枚続を一分二朱で買い求める者も出て     くるというのである。一分二朱は八分の三両、これを天保改革での公定銭相場・金1両=6500文で換算すると、2436     文に相当する。こうなると判じ物も立派な投機の対象といって差し支えあるまい。手入れがあったと噂するだけでも     売値はあげられるのである〉    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1748)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p245(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)     ◇三月刊、英泉戯作・国芳画「誠忠義士伝」p246   〝当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、    団扇問屋にて、海老屋林之助板元ニて、作者一筆庵英泉、画師国芳ニて、誠忠義士伝と号、義士四十七    人之外ニ判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が蜜柑を配り候処迄、出入都合五十一枚    続、去未年七月十四日より売出し、当申ノ三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り摺込也、五十一番    ニて紙数四十万八千枚売れるなり、是近来の大当り大評判なり。           誠忠で小金のつるを堀江町              ぎし/\つめる福はうちハや〟
   「誠忠義士伝」 一筆葊誌・一勇斎国芳画(江戸東京博物館)      〈五十一枚組の「誠忠義士伝」が八千セット(合計すると四十万八千枚)。上記貞秀画「富士の裾野巻狩之図」三枚組     72文で計算すると、一枚当たり24文が408000枚であるから、総計で9792000文。これを前項同様、1両=6500文の相     場で換算すると1506両になる。因みに次項の国芳画「亀奇妙々」三枚続60文を参考に一枚20文とすると、8160000文     で1255両となる。いずれにせよ前年の七月からこの年の三月まで、約八ヶ月でこれだけの売り上げである〉         ◇四月刊、国芳画「亀奇妙々」p246    〝当申四月出板、南油町野村屋徳兵衛板元にて、亀々妙々亀の遊びとて、亀子を役者の似顔に致す候処、    三枚続六十文売にて、凡千通り三千枚程摺込配り候処、百五十通り、四百五十枚計売、跡は一向売れず、    残り候故無是非佐柄木町の天徳寺屋へなげしとなり。       是ハ近年所々造菊大評判ニて、番附も能売れ候ニ付、去年は所々にて板元多くなり、番付一向売       れず、残らず天徳寺ニ致せしとの咄を聞と、右亀之子の板元も天徳寺へ葬りしならん。          工夫して徳兵衛取らふと思ひしに                亀々妙々に売れず損兵衛〟
   「亀奇妙々」 一勇斎国芳画(ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)      〈三枚続60文、一枚20文。前項の「誠忠義士伝」は四十万八千枚、こちらは三千枚摺り込んだものの実際に売れたのは     四百五十枚。当たるとはずれるとでは雲泥の差である〉      ◇九月刊、貞秀画「富士の裾野巻狩之図」p245   〝三枚続ニて七十二文に売出し候処、大当り大評判なり〟     〈一枚あたり24文である。全文は本HP歌川貞秀の項参照〉     〝右牧狩之絵、最初五千枚通り摺込候処、益々評判宜敷故ニ、又/\三千枚通り摺込、都合八千枚通りて、    二万四千枚摺込候処、余りニ大評判故ニ、上より御察度ハ無之候得共、改名主村田佐兵衛、取計を以、十    一月十日ニ右板木をけづらせけり〟    〈三枚続きが8000組、合計576000文。当時の公定相場1両=6500文で計算してみると約89両に相当する。     九月二十四日売り出し、板木を削ったのが十一月十日。約二ヶ月足らずであった〉
   「富士の裾野巻狩之図」 玉蘭斎貞秀画(早稲田大学・古典籍総合データベース)    ☆ 嘉永三年(1850)      ◯『藤岡屋日記 第四巻』p134(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇「【きたいなめい医】難病療治」国芳画    〝(六月十一日之配り、通三丁目遠州屋彦兵衛板元、一勇斎国芳画「【きたいなめい医】難病療治」記事)    右絵、最初遠州屋彦兵衛願済にて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候に付直下げ二    〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下げ候、然る処に重板出来致して、売出しは百枚に付卸直一    〆文、又は二朱也〟。    〈遠州屋彦兵衛の卸値は百枚2300文(一枚23文)、売れるにつれて卸値が下がり、一枚20文から一枚12文になる。一方     重板のほうの卸値は百枚1000文(一枚10文)か、または百枚に二朱(2朱は1/8両で、天保改革の公定では約812文、     嘉永二年末で718~736文という記事もあるから(『事々録』未刊随筆〕⑥386)、一枚約7~8文である。小売りの方     は分からない〉    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p175(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇落雷場所附   〝八月十七日之配り    本郷金助町板木屋太吉板元ニて、為直画、落雷伊予政壱枚綴出ル。袋ニ、名倉の門口へ雷の怪我人を戸    板ニ乗せ、黒雲がにない込候処、肩ニ落雷場所附、入口の札ニ、骨接泥鏝療治所、応需為通(ママ)画、墨    ・丹・藍の三扁摺ニて、五十文也、尤無印也〟    〈為直画の「落雷場所附」。火事や地震時にその被害状況を報道する「かわら版」の一種。三色摺で50文は高価である〉    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇三人賊の錦絵    〝二月廿五日     昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也                            浅草地内雷神門内左り角      錦絵板元                         とんだりや羽根助        今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ    て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門    より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。       三賊で唯取様に思ひしが         飛んだりやでも羽根がもげ助     右羽根助ハ板摺の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。                        浅草並木町                            湊屋小兵衛                        長谷川町新道                           住吉屋政五郎                        日本橋品川町                                魚屋金治郎     右三人、三月廿日手鎖也〟    〈嘉永五年十一月「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右衛門・市川小団次」「月・児     来也・市川団十郎」「花・鬼神於松・板東しうか」が出版されている。板木を没収されたこの「三幅対」は、改めを     経ない非合法出版をも請け負うと言われる板摺(摺師)とんだりや羽根助が名目上の板元になって、江戸では禁じら     れていた金摺りの豪華版を作り、小売り値四匁五分(当時の銭相場がどれくらいか分からないが、今機械的に1両=     60匁=4000文で、計算してみると、三百文になる)で売り出した。天保十三年十一月の御触書では「彩色七八扁摺限     り、値段一枚十六文以上之品無用」とあるから、この三枚続き三百文(一枚百文)は飛び抜けて高価である。ところ     が評判を得て売れた。すると早速、改めの懸かり名主がそれを咎め(察斗)て板木を取り上げてしまった。さらに、     板摺・とんだりや羽根助なるものの陰に隠れていた実の板元の名が割れて、湊屋小兵衛・住吉屋政五郎・魚屋金治郎     が手鎖に処せられた。当時の江戸の板元は、利益率も高いが検挙されるリスクも高い商品の場合、密かに板摺に資金     を提供して、板元の役割をさせたのではないか。ところで、どれほど売れたのであろうか。二十五日売り出し、二十     八日の板木没収まで実質三日の販売。参考までにみると、この年の国芳画「浮世又平名画奇特」は「七月十八日配り     候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六百枚宛摺出し、益々大売なれば」とある。     この「三幅対」も同様に千六百枚とすると、一日だけで銭十六万文、これを金換算すると、実に四十両である。二日     で八十両にもなる。板木を取り上げられるまで、どれだけ売り抜けられるかそれに勝負をかけているのだろう〉      〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値の     四匁五分は440文に相当する。一枚あたり146文になる。1600枚では233600文=37両となる。参考までに「【見立】三     幅対」をあげておく。2010/3/16追記〉
   「見立三幅対」 豊国画(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)     〝 東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東    都会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。     右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大    評判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名    主立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが         皆幽霊できへて行けり     右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟    〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6500文で換算すると約217文)、中品一枚が一匁     五分(約163文)、並一枚一匁(約108文)とこれもかなり高価。        「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳。     「同合之宿」も未詳。     「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か。     「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か。     「同十二支」は一勇斎国芳画「東都名所見立十二ケ月」か。     「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か。     「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か。     「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か。     以上はすべて嘉永五年の刊行〉          〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値、     極上品の二匁は195文、中品の一匁五分は147文、並の一匁は98文。「東海道五十三」は嘉永五年の刊年から、三代目     豊国のものと見た。2010/3/16追記〉
   「東海道五十三次お内 藤川駅」「佐々木藤三郎」 豊国画(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)
   「木曾街道六十九次」「下諏訪 八重垣姫」 一勇斎国芳画(同上)
   「東都名所見立十二ケ月之内極月 両国 大星由良之助」 一勇斎国芳画(同上)
   「江戸名所図会 九・真乳山 三浦屋揚巻」 豊国画(同上)
   「見振十二おもひ月」 一勇斎国芳狂画(同上)
   「東都高名会席尽 藤屋」 豊国・広重画(同上)    ☆ 万延文久年間(1860~1863)    ◯「江戸時代の軟文学」(塚原渋柿園著・雑誌『あふひ』第四号・明治四十三年八月)   〝(読本を揃へて買うなどの事は、到底企てゝも及ばぬ事である)然るに『草双紙』方は然(さ)うで無い。    僕の母親が読物が好きで、中にも京山の作の『女房形気』『大晦日曙草紙』を愛して大抵その全部を揃    へて居たやうだが、好くは記憶(おぼえ)ぬが、一部の価が上下二冊で、其の頃の銭三百文か四百文位    ゐで有つた様にも聞いて居た。けれども僕が十四五の時、すなわち万延文久の頃に於いては『時代鏡』    の何篇かゞ上下二冊で金一朱(銭六百文程)した。其頃の一朱は僕等小禄の武士に至つては少なから    ざる金である。けれども金一朱は一朱であるから、尾上之助が何(ど)う為(なつ)たとか、由縁之丞が恁    (か)うしたとか云ふので、やはり買つて見た〟    〈上掲記事は鈴木重三著『絵本と浮世絵』p364「江戸後期の絵入版本」から引用したものです〉     ☆ 慶応年間(1865-68)  ◯「私の幼かりし頃」淡島寒月著(『錦絵』第二号 大正六年五月)   (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p390)   〝私なぞが錦絵でよく買ったのは、やはり役者絵であった、権十郎(九代目団十郎)、田之助、彦三郞な    どを盛んに集めた。そしてその錦絵は三枚読き大抵一朱で、一枚絵天保銭で二枚位、よほど上等な奉書    紙ででも使ったのでなければ二朱なんていうのはなかった〟    〈梵雲庵淡島寒月は安政6年(1859)生まれ、幼い頃というと慶応年間(1965-7)にあたる。天保銭は額面100文だから、一枚絵は     200文である。三枚続1朱は、当時の銭相場は不安定なので換算しずらいが、ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、慶応     三年は1両=16朱=8164~8432文の間、この平均を取って1両=8313文とすると、1朱は520文となる〉  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『藤岡屋日記 第十五巻』p505(藤岡屋由蔵・慶応四年(1868)記)   ◇戊辰戦争絵   〝辰ノ三月、爰ニ面白咄有之    此節官軍下向大騒ぎ立退ニて、市中絵双紙屋共大銭もふけ、色々の絵出版致し候事、凡三十万余出候ニ    付、三月廿八日御手入有之。      右品荒増之分     子供遊び 子取ろ/\  あわ手道化六歌仙〟
   「幼童遊び子をとろ子をとろ」 広重三代戯筆(東京大学総合研究博物館「ニュースの誕生」展)
   「幼童遊び子をとろ子をとろ」二枚組・右図 左図(東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)
   「道化六歌仙」二枚組・右図 左図 署名なし(東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)      〈二図ともに戊辰戦争に取材した諷刺画である。慶応四年二月に出版された「幼童遊び子をとろ子をとろ」は、子供たち     の着物の意匠から、右図が薩摩を先頭とする官軍側を、左図が会津・桑名等の幕府側を表しているとされる。また遊び     を後ろで見ている姉さんが皇女和宮で背負っているは田安亀之助、また官軍側最後尾の長松どんは長州で背負っている     のが明治天皇と目されている。「子をとろ」は現代でいう「花いちもんめ」であるが、それで戊辰戦争を擬えたのであ     る。同年三月刊の「道化六歌仙」の方はそれぞれ長州・薩州・勅使・和宮・輪王寺宮・田安を擬えたとされる。図の上     「善」の面を付けたものが持つ扇に「清正、黒ぬり、七五三」等の文字が配されているが、何を暗示するのかよく分か     らない。ところで「道化六歌仙」の右図には興味深い書き入れがある。「慶応戊辰四月三日購賈貳伯拾陸孔」とある。     「道化六歌仙人」を216文で購入したというのだ。これは随分高い。これを書き込んだ所蔵者は四月三日に入手してい     るのだが、その前の三月廿八日に町奉行の手入れがあったためであろう。評判と入手困難とで高騰したものと考えられ     る。ではもとの小売り値段はどれくらいだったのであろうか。     『藤岡屋日記 第十四巻』慶応三年の記録に「蕎麦屋も段々直上ゲ之上ニ、五拾文ニ相成候ニ付 十六が三十二になり     片付かず五十に成てまだこもり也」(p458)とある。天保の頃16文だった蕎麦がこの時期には50文にも値上がりし     たというのである。この天保の頃16文は一枚絵も同じ。天保十三年十一月晦日の通達には「売直段壱枚拾六文已上之品     可為無用」、つまり一枚16文以下にせよとある。一枚絵とそばを同列に論じられるかどうか心許ないが、今仮に準じて     みると、この頃は一枚絵も50文位ということになる。それが30万余の出回ったというのである。上記二図で30万という     ことでなく、戊辰戦争絵のような時世を題材とする一枚絵の総数をいうのであろうが、それにしても大量である。この     二図でいえば、発売が二月と三月、手入れが三月末、わずか一、二ヶ月である。さて売り上げを見積もってみよう。50     文が30万部で1500万文。これを明治二年(とはいえ翌年のこと)新政府が定めた1両=10貫文=10000文を、これまた     便宜上当てはめると、ちょうど1500両になる。30万という数にどれほどの信憑性があるか確かめるすべもないが、それ     にしても莫大な売り上げである。まして二枚組100文の売り物を官憲の手入れの後216文も出して求める人もいるのであ     る。摺り溜めていたものを隠し持っていて売るものにとってはボロ儲けである。時世を題材とするものは板木没収・過     料・江戸払い・財産没収などの危険と隣り合わせであるが、当たればこれだけの利得をもたらすのである。諷刺画は金     のなる木であった〉    〈上掲「慶応年間」の項、淡島寒月の「私の幼かりし頃」によると、当時の役者絵は一枚が天保銭(額面100文)2枚、     即ち200文というから、上記「幼童遊び」の一枚絵50文位という想定は修正する必要がある。2020/03/24〉  ☆ 明治七年(1874)     ◯「東京日々新聞 開版大錦」(『東京日々新聞』錦絵版)開版予告)   (一恵斎芳幾画・具足屋(福田)嘉兵衛)   〝定価 一葉ニ付 壹銭六厘〟  ☆ 明治十年(1877)  ◯「八重酸漿浪花の夢(板東彦三郎死絵)」(月岡芳年画・船津忠次郎版)    二枚続〝価四銭〟  ◯「(板東彦三郎死絵)」(梅堂国政画・具足屋(福田熊次郎)版)   〝二銭〟  ☆ 明治十一年(1878)    ◯『鳥追阿松海上新話』前編(三巻三冊27丁・久保田彦作著・陽洲周延画・大倉孫兵衛板)   (下冊巻末)〝価金十二銭五厘〟   〈明治四年以降、新1円=新100銭=旧1両と定められる〉  ◯「名誉八行之内」(大蘇芳年画・森本順三郎版)   「大日本名将鑑」(芳年画・船津忠次郎版)   「見立多以盡」 (大蘇芳年画・井上茂兵衛版)   〝定価二銭五厘〟    ◯「鹿児嶋明暗録」(大蘇芳年画・船津忠次郎版)   〝定一銭五厘〟

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