Top 浮世絵文献資料館 浮世絵師総覧
☆ うきよえ 欧米のコレクション 浮世絵事典
◯『日本版画史』ウォルデマール・フォン・ザイドリッツ著 蘇武緑郎訳 向陵社 大正五年(1916)刊
(原本『Geschichte des japanischen Farbenholzschnitts』Woldemar von Seidlitz 1897年(明治30)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
※半角( )は本HPの補注。西暦の漢数字は算用数字に直し和暦を補った。また送り仮名を適宜補った
「けれ共」「能きる」「恁した」「所が」「許り」は「けれども」「できる」「こうした」「ところが」「ばかり」と直した
〈半角( )の人名表記は永井荷風の「欧米人の浮世絵研究」大正三年稿(『江戸芸術論』所収)を参照した。なお「欧米
人の浮世絵研究」は、1910年の再刊本『A History of Japanese Colour-Prints(日本彩色板画史)』の総論を訳述した
もの〉
(明治初期の西欧における浮世絵コレクションの状況について)(92/171コマ)
〝欧州に在る最も注目すべき蒐集品に就いて、参考の為めに少し述べて置かうと想ふ。当時シュボルド氏
(Siebold)は八百幅の軸物を携へて帰朝した。是等の将来品は今でもレードン(ライデン国立民族学博物
館)に保存されてゐる筈た。サア・ラザーホールド・アルコック(Sir Rutherford Alcock)氏は、1862年
(文久2)の倫敦(ロンドン)博覧会に際しその蒐集した版画を展覧に供し頗る好評を博した。次にジヨンライ
トン(John Leighton)氏は1863年(文久3)の五月、市の公会堂に於いて日本版画に就いて大講演会をやつ
た。けれどもこの講演は版画全体に渉つたものではなかつた。講演は主として十九世紀の版画に就いて
であつたのだ。
〈シーボルト:長崎の出島のオランダ商館医。オールコック:英国の初代駐日総領事。ジョン・ライトン:画家〉
1882年(明治15)には、ブレスラウ大学の教授ギールケ氏(Gierke)は伯林(ベルリン)の美術工芸博物館に於
いて約二百点ばかりの日本画を展覧に供した。其の後是等の絵画は普魯土(プロイセン)政府に買上げられて
終わつた。当時普魯土政府は伯林版画室といふ特別の一室を設け、故人の色摺版画を熱心に蒐集してゐ
た際なのでギールケ氏の所有品を買上げたのであつた。ギールケ教授は1880(明治13)年の頃から、日本
版画史を書く積りで材料を蒐集してゐたが、惜しいかな業(ぎょう)半(なかば)にして死んで終ひ、遂に
其の目的を達することができなかつた。
〈ギールケ(生没 1847-1886)「1882年の10月から12月にかけて、お雇い外国人として東京で解剖学を教えていた」とい
う(「ベルリン工芸博物館と日本」池田祐子著 立命館言語文化研究 31巻4号)
1882年(明治15)に到り、大英博物館では三千磅(ポンド)の大金を投じて、凡そ二千幅ばかりの日本や支
那の絵画及びウィリアム・アンダーソン(William Anderson)博士の所有に係る版画を買入れた。以前ア
ンダーソン氏は東京医学専門学校の教授であつた関係から多数の日本版画を蒐集し、所有してゐたので
あつた。其の他個人で日本版画を蒐集して巴里へ持つてきた人々の中で。ゴンス(Gonse)・ビン(Bing)・
ヴェヴェ(Vever)・ギロー(Gillot)・マンヂー(Manzy)・ルール(Rouart)・ガリマー(Galimart)・ユエフ
リン・コモン(Camondo)伯等最も有名であつた。
〈アンダーソン:1873年(明治6年)海軍省の招きで来日し、医師として海軍病院に勤務するかたわら日本の美術品を精
力的に収集して、1880年(明治13年)イギリスに帰国。明治20年『日本の絵画芸術』を出版(日本語版は明治19年刊)
本HP Topの「その他(明治以降の浮世絵記事)」参照。永井荷風はユエフリンの所を「Koechlin コクラン」としている〉
(展覧会および美術館)(93/171コマ)
回顧的な日本美術展覧会は既に1883年(明治16)に発起され、1890年(明治23)に到り日本版画展覧会とい
ふ一種特別な展覧会が開かれた。1893年(明治26)の始めにはデウラン・ルーエル室(Gallery Durand-Ru
el)に於いて広重の作ばかりを集めた風景画の展覧会があつた。ルーブル博物館内に於ける東洋の部に
は僅かではあるが版画が陳列されてゐる。そして The Musée guimet(ギメ東洋美術館)や the Biblioth
ique Nationale(フランス国立図書館) (the Duret Collection of illust-rated books デュレ・絵本
コレクション) と称して展覧に供せられてゐる。(注) 他に凡そ拾五人ばかりの会員からなつてゐる日
本協会(Société des Japonisants)といふ倶楽部があつて毎月巴里で会合してゐる。次いで1909年(明治
42)の二月に到り個人の蒐集した日本版画の第一回展覧会があつた。其の後同所で版画以外の日本美術
品展覧会の開催されたこともあつた。
(注)永井荷風は「ギメ及び巴里図書館にもまた日本の絵本類あり。巴里図書館の日本絵本類は Duret の担当して蒐集
せしものなり」とする
1888年(明治21)にはボーリングトン(Burlington)美術倶楽部に於いて、(注) 個人的に蒐集した日本版
画の中ではエッヂヤー・ウィルソン(Edgar・Wilson)氏の所有品は殊に逸品であつた。けれども最も大き
な蒐集品はボストン美術博物館の所有に係るものであつた。今其の大略を示せば、屏風が凡そ二百枚、
絵画が四千幅、版画が一万余種に渉つてゐる。是等多数の美術品はみな日本政府の美術調査員として十
二年間日本に滞在してゐたエルネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest・Francisco・Fenollosa)氏の
将来品である。この外にフェノロサ氏自身の所有に係るものも大部あつた。一個人の所有としてはチカ
ゴ市のチヤールス・モールス(Charles J.Morse)氏及びフレッド・ゴーキン(Fred.W.Gookin)氏、ニュー
ヨーク市のジョーヂ・ヴァンダービルト(George W.Vanderbilt)氏などは有名なものである。ニューヨ
ーク市のフランシス・ラースロブ(Francis Lathrop)氏などは清長の版画だけでも百七十種をもつてゐ
る。ビゲロー(Bigelow)博士はボストンで北斎の作品展覧会を開いたが非常に豊富なものであつた。
(注)永井荷風は「~於いて、浮世絵板物展覧会の挙ありしより同好会の団体組織せられぬ」とする
独逸に在る日本の版画では伯林のコエッビング(Koepping)氏及びリーベルマン(Liebermann)氏、ムニッ
ヒのスタトラー(Stadler)氏、フランクホルト・アム・マインのストラウス・ネグパウル(Straus・Negba
ur)夫人・グライフスワルドのエーケル(Jaeke)氏・ライプチッヒのモスリー(Moslé)氏、ヅユッセルド
ルフのオェデル(Oeder)氏・フライブルグのグロッセ(Grosse)氏などは最も有名なものである。博物館
内にある日本版画室は前に述べた通りであるが、其の後伯林美術工芸博物館は漸時拡張されて国宝の中
央保蔵所たる観を呈してきた。ハムブルグの美術工芸博物館にも沢山の日本版画があつた。其の他ドレ
スデンでも日本版画の陳列室を設け、大いに版画の蒐集に務めてゐたのであつた。
〈以上、ザイトリッツの『日本版画史』の訳。以下は、永井荷風がこれに続けて付言したもの〉
◯「欧米人の浮世絵研究」(永井荷風著 大正三年稿『江戸芸術論』(岩波文庫本)所収 p113)
※全角(~)は原文のもの。半角(~)は本稿の補記
〝仏人テイザンの『日本美術史』序論中左の一節は興味あるが故に併(あは)せ訳して左に録す。
「欧洲人は維新以前にあつては僅に和蘭(オランダ)及葡萄牙(ポルトガル)人が長崎出島にてその土
地の職人に製造せしめたる輸出向の陶器漆器を見るの外ほか日本の美術については全く知る所なかり
しなり。その時代の輸出陶器は大抵支那製の模造にして意匠模様の如きも多年慣用せられたる最も形
式的のものなりしが故に深く珍重する所とならざりき。されど漆器のみはこれに反して夙(つと)に
欧洲人を驚かせし事は1600年代のマザラン宮殿宝什目録に徴するもまた明かなり。やや降(くだ)つ
て路易(ルイ)十五世及十六世の治世に至るや日本漆器の流行甚(はなはだ)盛(さかん)となりぬ。
今日こんにち巴里ルウヴル美術館に陳列せらるる王妃マリイ・アントワネットの所蔵品を看みれば当
時日本漆器の尊ばれたる事遥(はるか)に陶器に優りし事を知るに足るべし。然れども欧洲人はなほ
いまだ光琳の蒔絵、春信の錦絵、整珉(せいみん)の銅器、後藤の目貫(めぬき)等については全く
知る所なかりしが、維新の戦禍に際してこれらの古美術品一時に流出するやゴンクウル、ブュルチー、
ゴンス、ギメエ、バルブットオの如き仏国の好事家こうずか狂奔してこれが蒐集と鑑賞とに従事した
り云々(うんぬん)」 大正三年稿〟