☆ 文化十年(1813)
◯『骨董集』岩瀬醒(山東京伝)著・文化十年成〔大成Ⅰ〕⑮408
※半角(かな)は原文の振り仮名。全角( )は本HPの補記
〝浮世袋再考
昔はすべて当世様(たうせいやう)をさして「浮世(うきよ)」といひしなるべし。これも古きことにや。
能の狂言のきんじむこといふに、舅のいへる言(ことば)に「やい、くわじや(冠者)、婿どのはうきよ
人(じん)じやによつて、云々(しか/\)」といふことあり。これ当世人(とうせいじん)といふが如し。
岩佐氏を浮世又兵衛といひしも、当世様(とうせいやう)の人物を画きたるゆゑならん〟
〈狂言「きんじむこ(近仕聟?)」は未詳〉
◯『浮世絵の誕生と終焉』(1)加藤好夫著(本HP・Top「著述・浮世絵の誕生と終焉」所収)
(一 浮世絵と浮世絵師の誕生 D「浮世」の意味)
〝文化七年(1810)『燕石雑志』飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著 随筆・江戸
「菱川が画はみなこの頃の時勢粧(ルビいまやうすがた)なり」
「時勢粧」は「ジセイノヨソオイ」とも読みますが、これは浮世絵の漢語的表現。馬琴によれば、菱川師
宣の絵はみな当世の諸相を移した浮世絵だというのです。
文化十一年(1814)『骨董集』山東京伝著・考証随筆・江戸
「昔はすべて当世様をさして浮世といひしなるべし」(文化11年(1814)刊)
これも馬琴と同様、山東京伝も「浮世」とは当世様と同じで現代風の意味だとします。
文政九年(1826)『柳亭記』柳亭種彦著・随筆・江戸
「浮世といふに二ツあり。一ツは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一ツは浮世は
今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり」
種彦によれば「うきよ」には二つの意味がり、一つは「憂世」、つまり辛く切ない世、あるいは空しくは
かない世という意味の「憂世」と、もう一つは「今様」、これは京伝のいう「当世様」と同様で現代風、当
代の流行の最先端といった趣きのある言葉です。
「浮世」という言葉には、「当世」つまり現代という意味と、例えば「浮世小紋」や「浮世模様」のよう
に「現在流行の」とか「現在評判の」といった意味あいとがあったようです。つまり「浮世絵」とは、現在
もっとも流行しているもの、あるいは現在とりわけ評判高いもの、それらに注目して画いたものということ
になります。不易流行という言葉を使うと、不変を象徴する常緑の松や能などによっていつの世にも再生し
てくる故事古典の世界は、狩野や土佐の伝統的な流派の専任領域だと敬して遠巻きに眺めるばかり、注文さ
れれば画くこともありましょうが、はやり浮世絵師は尽きることなく変転する当世の流行を画くことに全力
を傾けるというのです。
では江戸時代、最先端の流行が絶えず生み出されるところはどこか。云うまでもなく、それは江戸の吉原・
深川のいわゆる遊里や、中村・市村・森田の歌舞伎の三芝居、ともに悪場所と呼ばれるところに他なりませ
ん。したがって、当世の流行を専ら追跡する浮世絵が、あるいは時には流行の先駆けさえする浮世絵が、遊
女や役者に注目するのは当然なのであります。
これについて明治期の坪内逍遥が大変興味深いことをいっています。
「わが徳川期の民間文芸は、かつて私が歌舞伎、浮世絵、小説の三角関係と特称した、外国には類例のない、
不思議な宿因に纏縛されつつ進化し来つたものである。或意味においては、この三角関係が三者の発達上
に有利であったともいえるが、わが文芸をして遊戯本位の低級なものたらしめたのは、主としてこれがた
めだ。というのは、この関係は、正当にいうと、更に狭斜という一網を加えて、四角関係と見るべきもの
で、随ってわが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノグラフィーに
傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわけにはゆかない
宿命を有していた。つまり題材も、趣味も、情調も、連想も、理想も、感興も、主として狭斜か劇場かに
関係を持っていて、戯作(文学)と浮世絵(美術)とは、これを表現する手段、様式に外ならなかったの
である。前にいった如く、この四角関係は、或時代までは、互いに相(アイ)裨(タス)けてその発達を促成した
気味もあったが、後にはその纏脚式の長距離競走が因襲の累いを醸して、千篇一律の常套に堕し、化政度
以来幾千たびとなく反復して来た同じ着想、同じ趣向のパミューテーションも、維新間際となっては、も
う全く行き詰りとなってしまった〟(注)
(注)「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著『早稲田文学』大正十四年二月号(『明治文学回想集』上)
〈「狭斜」は色町。具体的には幕府公認の吉原(公娼)や深川など江戸市中に点在する岡場所(私娼)
バッフンネリー(buffoonery)は品のない道化(おどけ)パミューテーション(permutation)は並べ替え
の意味〉
坪内逍遥によれば、近世における戯作(文学)・浮世絵(美術)・歌舞伎(芝居)・狭斜(遊里)のそれ
ぞれは切っても切れない四角関係にあり、戯作や浮世絵は劇場や狭斜を表現する様式に他ならないというの
です。その中でも浮世絵は他の全ての領域と深い関係を持っています。役者似顔絵・死絵・芝居番付・劇場
絵等で芝居と繋がり、遊女絵で遊里と繋がり、草双紙(黄表紙・合巻)・読本・人情本・滑稽本・咄本の挿
絵担当で文学とも強い繋がりをもっています。浮世絵はまさに江戸から明治にかけて、実に二百年以上にも
亘って四角関係の一翼を担い続けました。菱川師宣にしても遊里・芝居は云うまでもありません、また井原
西鶴の浮世草子『好色一代男』の挿絵も担当していますから、文学との繋がりもありました。これまた菱川
師宣の元祖たる所以です。
さらに付け加えて「わが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノグラ
フィーに傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわけにはゆ
かない宿命を有していた」とも言及しています。それを証するかのように次のような記述も残されています。
貞享年間(1684-7)(『諸国此比好色覚帳』作者未詳)
「当世ぬれ絵かきの名人、お江戸のひしかわ、京の吉田半兵衛」
元禄八年(1695)(『好色とし男』作者未詳(二・一))
「菱川、吉田が浮世枕絵有程ひろげて、爰な男はかつかうよりもち物がちいさいの」
元禄十五年(1702)(『当世誹諧楊梅』調和・其角等の点)
「浮世絵もまづ巻頭は帯とかず」
菱川師宣も吉田半兵衛もともに当代きっての春画の名人として鳴り響いていたのでしょう。その彼らの画
くものを「浮世絵」と称したわけですから「浮世絵」という言葉の中には春画のイメージが最初から付きま
とっていたものと思われます。
これに関しては、頴原退蔵博士の「『うきよ』名義考」も、「浮世絵が単に美人画、若くは遊女役者の姿
絵を意味するだけでなく、屡々秘戯画の意として用ひられて居る」として、「浮世絵」が「春画」のイメー
ジと強く結びついていることを指摘しています。
頴原退蔵博士によれば、そもそも「浮世」という言葉自体には、「当世」「流行」といった本来の意味あ
いのほかに「色気」とか「享楽的」「好色的」とかいう意味あいが認められるし、あるいはもっと露骨に
「遊女」や「野郎」をさす言葉として使われている場合もあるといいます。
付け加えて云うと、元禄二年の「浮世絵人形」には「その下半身の服を取ると性器が現れる仕掛けがして
ある」ともありますから「浮世」という言葉には「猥ら」という意味合いさえ含まれているらしいのです。
「浮世」を冠した言葉と呼称「浮世絵」の時系列
いづれにせよ、菱川師宣の絵に上述のような多義的な意味合いをもつ「浮世」が結びついて「浮世絵」と
呼ぶことになったわけです。それとともに「浮世絵」出現の当初から「好色」「猥褻」といったイメージも
また運命として背負うことになりました。現代でも浮世絵というと、春画を連想する人が未だに多いのです
から、これはまだまだ引きずっているに違いありません。