Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧            ☆ うえのせんそう 上野戦争         浮世絵事典  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『武江年表』慶応四年五月十五日記事 斎藤月岑著   〝(五月)十五日、雨天、暁より官軍東叡山に向はれ、山内に籠り居りし彰義隊と号せし脱走浪士と戦闘    あり、谷中辺を始めとして大砲を放され、又三枚橋通へ押寄せ、双方より大砲を発して戦ひに成り、夜    に至山門其の外に火を放つが故、惜しむべし、さしも甍を並べて壮麗たる根本堂、多宝塔、輪蔵、鐘楼    常行堂、法華堂、文殊楼(山内)御本坊、寺中は本覚院、凌雲院、寒松院、凉泉院、覚王院、顕明院、    明教院等、倶に舞馬の阨に罹り、片時の間に烏有となれり。清水堂山王社時の鐘、慈眼堂、大仏堂、忍    岡稲荷社等は残る。右戦争夜半に及び、浪士大半滅び、又は逃亡して一挙に鎮まれり(寒松院は浪人、    其の外焼死人多くう、其の数を知らずとぞ)。本尊瑠璃光仏は退せられたり。瑠璃殿并びに吉祥寺の勅    額、寛永寺の御宸翰、さま/\の宝器仏具等多く焼け失せたる由なり。此の兵燹、大谷山下の等の町家    寺院に及ぼし、三枚橋、北は瀬川屋敷、五条天神官、元二王門前御家来屋敷、啓運寺、車坂町、浅草寺    町の辺町屋寺院、御徒士屋敷、南は黒門町、大門町、常楽院、仲町お数寄屋町、西は谷中善光寺坂、三    坂寺の辺に至る迄、町家寺院悉く焼却せり(此の辺の輩、財を運ぶに暇なく、漸く命を全うして逃ぐる    のみなり。その翌日、山内のさま街の騒劇おもひやるべし。所所通行止り、江戸中の商家も大方なりは    ひを休みたるもの多し〟      筆禍「本能寺合戦之図」 画工 歌川芳盛      「太平記石山合戦」 画工 歌川国輝      「信長公延曆寺焼打之図」 画工 歌川芳虎      「春永本能寺合戦」 画工 英斎       内容 発売禁止       理由 時事の絵画化     ◯『筆禍史』p172「江戸上野戦争の絵草紙」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝江戸に在りし徳川方の残党中には、大政の返上を喜ばざる不平の徒多かりしが、其徒相結んで彰義隊と    号して官軍に抗し、明治元年五月十四日、江戸上野東叡山に於て、双方の激戦ありし事は、人々の皆知    る所なるが、当時は未だ新聞紙の発達せざりし時なれば、その戦況は例の絵草紙にて見るより外なかり    しなり、然るに当時新政府には、未だ出版條例新聞條例等の制定なきも、幕府残党の手に成れる官軍不    利の戦報あらん事を恐れて、総て戦況の報道を厳禁したりしがため、絵草紙も亦上野彰義隊戦争の図と    して出版すること能はざりしかば、已むことえお得ず、姑息の手段によりて出版し、図は上野に於ける    両軍の奮戦なれども、其題号は古き歴史絵らしく      本能寺合戦之図   (歌川芳盛画) 太平記石山合戦(歌川国輝画)      信長公延曆寺焼打之図(歌川芳虎画) 春永本能寺合戦(歌川国宗(ママ)画)    など徳川幕府時代の旧式によりて題号せる三枚続の大絵なり、江戸市内の各絵草紙屋より此類を十数種    出版せしが、本能寺合戦といふも、其実は上野黒門前の激戦にして、人物も彰義隊と官軍の服装なれば、    紛うべくもなき禁制画なるを以て、是等の絵草紙は悉く発売を禁ぜられたりといふ〟   〈「春永本能寺合戦」の画工を歌川国宗とするが、英斎の誤記である〉
    「春永本能寺合戦」英斎画 木屋米次郎板 明治元年刊 (早稲田大学図書館蔵)
    「本能寺合戦之図」さくら坊芳盛筆 具足屋嘉兵衛板 明治二年刊 (野田市立図書館蔵)      〈彰義隊と官軍の服装。時事の絵画化であることは明白だ。幕藩体制がきちんと機能していた時代であれば、当然摘発を受    け処罰される。しかし新政府側がこれを実際に発禁処分にしたかどうかは、よく分からない。ただ、この記事で注目すべ    きは、時事や世相の変化に関心を抱く人々に対して、それらの情報を流そうというメディアが在野から生まれ出ようとし    ている点である。常に時世の動きに敏感で、それを生業の種としてきた浮世絵界が、これを見逃すことはなかった。この    機運がいずれ絵入新聞の誕生に繋がっていく。もっとも時事問題を題材とする「大新聞」ではなく、巷間の話題を取り扱    う「小新聞」の方に向かっていった。明治八年(1875)、本邦絵入新聞の鼻祖とされる『平仮名絵入新聞』(翌年『東京    絵入新聞』と改称)が、高畠藍泉と落合芳幾によって創刊された。戯作者の流れを汲む藍泉と浮世絵師の芳幾、戯作と浮    世絵、これは黄表紙・合巻の草双紙から続く同じ組み合わせである。「落合芳幾、月岡芳年氏等艶麗の筆を揮ひ、時人を    して絵入新聞記事は挿画の説明なりと諷せらるゝに至るまで、絵画に全力を尽せり」「啻に挿画に力を尽せしのみならず    雑報の書き方にも亦苦心をなし。前田香雪氏流麗の筆を揮ひ、其創意に係る雑報の続物を草してより世評頗る好かりしか    ば(云々)」と。これは朝倉無声の『本邦新聞史』(明治四十四年刊・1911)の記事である。情報伝達や論説よりも、珍    聞奇談の方が得意分野なのであった。2014/11/25 追加〉