Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ つるや きえもん 鶴屋 喜右衛門浮世絵事典
 ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 鶴に蔦こたつの上に二三さつ「柳多留25-30」寛政6【川柳】     〈黄表紙は初春を飾る風物詩。鶴屋板と蔦屋板の新刊がこたつに上に二三冊〉   2 鶴屋から娘鶉へ飛んで行き 「柳多留107-12」文政12【川柳】注「芝居小屋へ」     〈「鶉」は芝居小屋の一階桟敷席。鶴屋板の役者似顔を見て娘たちはたまらず芝居へ〉   3 巡り合ふ春を鶴屋で蔵で待ち(文化年間【江戸名物】)      注「曽我の錦絵を摺置き春狂言の時を待つて売出すとの義かと思はる」   4 母親は夜の鶴屋へ迷ひ来る(文化年間【江戸名物】)      注「母親が自分の娘の婀娜(あで)やかな姿絵を草紙屋に見に行くと云ふ嬉しい様は悲しい様な句である」   5 道中は早し鶴屋で八文字(文政年間【江戸名物】)      注「花魁道中の錦絵が直に一枚絵となつて店頭に飾られること」     〈八文字は遊女の歩き方をいう〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯『著作堂雑記』259/275(曲亭馬琴・天保四年(1833)記)   〝仙鶴堂は通油町絵草紙問屋鶴屋喜右衛門と云、姓小林氏、大酒淫情常に満たり、天保四年癸巳十二月十    日卒倒して身まかる、明午春正月十八日葬式をいとなむ、手向に詠て遣したり、      しるやいかに苔の下なる冬ごもり ひがしの松に春をまたして〟    〈この鶴屋喜右衛門は次条の喜右衛門の先代か〉    ☆ 天保五年(1834)    △『近世物之本江戸作者部類』p160(曲亭馬琴著・天保五年成立)   (「赤本作者部」)   〝仙鶴堂    通油町なる書賈鶴屋喜右衛門【小林氏、前の喜右衛門近房の長子なり】の堂号なり。文化十五年【四月    改元文政】の春、千本桜の合卷冊子に仙鶴堂作とあるは、馬琴が代作したる也。文化十二三年の比、画    工豊国が淨瑠璃本なる千本桜の趣を、当年江戸俳優の肖面に画きしを、鶴屋が印行したれども、只一九    が序あるのみにて、読べき処の些もなければ、絶て売れざりければ、仙鶴堂則馬琴に乞ふて、その画に    文を添まく欲りせり。馬琴已ことを得ず、千本桜の趣をその画に合し畧述して、僅に責を塞ぎたれども、    こは本意にあらざりければ、仙鶴堂の代作にして只その序文にのみ自分の名号を見(アラハ)しけり。かく    て板をはぎ合して、書画具足の合卷冊子にして、戊寅(本HP注、文化十五年)の春再刷発行しけるに、    こたびはいたく世に称ひて売たること数千に及びしといふ。当時豊国が画きたる合卷の臭草紙多く時好    に称ふをもて、作者と肩を比(ナラブ)るを、なほ飽ぬ心地して、いでや吾画をのみもて売らせて、その効    をあらはさんとて、文なき絵草紙を書賈等に薦めて、遂に印発したれども、只画のみにて文なき冊子は、    婦幼もすさめざりければ、豊国これを恥たりけん、又さる絵草紙を画かざりけり。彼の畊書堂【唐丸が    堂号】といひ仙鶴堂といひ、よしや別人の代作也とも、書賈にして草紙の作あるもの、享保中京師なる    八文字屋自笑瑞笑を除くの外、その儔(タグヒ)あらざるものなり。【自笑も端笑より下子孫の又自笑と称    するものは別人の代作也】この仙鶴堂は、その三四歳の頃より己れ相識るもの也。性として酷(イタ)く酒    を嗜みたる故にや、天保四年癸巳の冬十二月十日未牌、暴疾にて身故(ミマカ)りけり。【卒中なるべし】    享年四十六歳也。折から歳暮の事なれば、当夕みそかに寺へ送りて、葬式は明春正月下旬にこそなど    聞えし折、著作堂主人(本HP注、馬琴)が読みて手向けたりといふ歌      しるやいかに苔の下なる冬ごもりしるしの松に春をまたして    是より三十七年已前、寛政九年五月六日、畊書堂蔦唐丸の没したる折、著作堂の悼みの歌あり、そは      思ひきやけふはむなしき薬玉も枕のあとに殘るものとは    要なきことなれ共、筆の序にしるすのみ〟    ☆ 天保七年(1836)  ◯『江戸名物詩』初編 方外道人著 天保七年刊(国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)   〝鶴屋錦絵  通油町    役者の似顔を国貞の筆  狂言写し出し三都に響く    近来別に流行の画有り  田舎源氏数編の図〟    〈柳亭種彦作・歌川国貞画『偐紫田舎源氏』の初編は文政12年(1829)刊。天保13年(1842)、作者種彦死亡のため、同年     刊の三十八編をもって未完のまま終了〉  ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝草双紙    絵双紙のはてはめでたし幾千世をいはふ鶴屋を板元にして    古ふみの種よりめぐむ草双紙いだすも鶴屋蔦屋なりけり〟    〈黄表紙・合巻の版元〉  ☆ 天保十三年(1842)    ◯『著作堂雑記』259/275(曲亭馬琴・天保十三年(1834)八月七日記)   〝天保十三年寅六月、合巻絵草子田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行え被召出、田舎源氏作者種彦へ作    料何程宛遣し候哉を、吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板不残差出すべしと被仰付候、鶴屋は    近来渡世向弥不如意に成候故、田舎源氏三十九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請出し    則ち町奉行へ差出し候処、先づ上置候様被仰渡候て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なるべ    しと云風聞きこえ候、否や遺忘に備へん為に伝聞の侭記之、聞僻めたる事有べし。(後略)【壬寅八月    七日記之、路代筆〔頭注〕路は翁の亡児琴嶺の婦】〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記)   ◇国貞、豊国襲名 p419   〝(四月)此頃歌川豊国弟子五渡亭国貞、二代目豊国と成、此時沢村訥升、沢村宗十郎訥子と改名致し、    梅の由兵衛を相勤ル也。右看板を国貞、豊国と改名致し、始而是を書也、浮世絵師ニて哥舞妓役者の似    顔絵・女絵の名人也、名ハ文左衛門、本所五ッ目渡舟持也、故ニ五渡亭といふ也、亀戸天神前に住ス也。     草双紙田舎源氏、鶴喜板本ニて種彦作、国貞画ニて大評判ニて、三十八篇迄出しが、此度絶板ニなる    也、正本仕立も同く絶板也、右絶板故ニ鶴屋喜右衛門ハ潰れる也〟    ☆ 弘化三年(1846)  ◯「古今流行名人鏡」(番付 雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝名誉名品    絵暦 アフラ丁 仙隺堂隺屋/地本 ハクロ丁 永寿堂西村〟  ☆ 嘉永二年(1849)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p543(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849))   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝十月      田舎源氏草双紙一件     文政十二年正月、油町鶴屋喜右衛門板ニ而諺(偐)紫田舎源氏といへる表題ニて、柳亭種彦作、哥川国    貞の画ニて出板致し候処、男女の人情を書し本ニて、女子供のもて遊びニて枕草紙の笑本同様ニて、大    きに流行致し、天保十二年ニハ三十八篇迄出板致し、益々大評判ニて売れ出し候処ニ、天保十三年寅春    ニ至リ、御改正ニ而高金之品物売買之義差留ニ付、右田舎源氏も笑い本同様ニて、殊ニ表紙も立派成彩    色摺故ニ絶板被仰付候ニ付、鶴喜ニて金箱ニ致し置候田舎源氏の板けづられ候ニ付、通油町鶴喜、身代    退転(二字欠)候、然る処夫より六年過、弘化四年未暮、少々御趣意も相ゆるミ候ニ付、田舎源氏(一    字欠「表?」)題替ニて相願ひ、其ゆかり雛(鄙)の面影と云表題ニて改刻印出候得共、鶴喜ハ微禄ニて    出板自力ニ不及、依之神田鍛冶町(一字欠)丁目太田屋佐吉の両名ニて、雛の面影初篇・二篇と出し、    是田舎源氏三十九篇目故ニ、三十九じやもの花じやものといへる事を口へ書入、又々評判ニて、翌申    〈嘉永元年〉暮ニハ三篇・四篇を出し、作者は一筆菴英泉、画ハ豊国なり、当酉年〈嘉永二年〉春五篇    も出し候処ニ、板木ハ両人ニて分持分居り候処ニ、鶴喜ハ不如意故ニ右板を質物ニ入候ニ付、一向ニ間    ニ合申さず候ニ付、当秋太田や一人ニ而又々外題を改、足利衣(絹)手染の紫と云題号ニ直し、鶴喜の株    を丸で引取、雛の面影六篇と致配り候ニ付、十日鶴喜(文字数不明欠)致し、太田やへ押懸り大騒動ニ及    びて喧嘩致し候得共、表向ニ不相成、六篇目ハ両方ニて別々に二通り出ル也、太田屋ハ足利衣手染の紫、    作者一筆菴、鶴屋は其ゆかり雛の面影、作者仙果、右草紙ニ、仙果ハ師匠種彦が書残置候写本故ニ此方    が源氏の続なりと書出し、一筆菴ハ此方が源氏の後篇なりと書出し、是定斎屋の争ひの如くなれば、      本来が諺(偐)紫で有ながら        あれが諺だの是が本だの      田舎から取続きたる米櫃を        とんだゆかりの難に太田や〟    〈『偐紫田舎源氏』(初編~三十八編・柳亭種彦作・歌川国貞(三代豊国)画・文政十二年(1829)~天保十三年(1842)     刊)。『其由縁鄙俤』(初編~六編・一筆庵可候(英泉)作・一陽斎豊国(三代)画・弘化四年(1847)~嘉永三年     (1850)刊。英泉は嘉永元年没)。『足利絹手染紫』(六編(『其由縁鄙俤』五編の改題続編)笠亭仙果作・三代歌川     豊国画・嘉永三年刊)。天保改革の余波で『偐紫田舎源氏』が絶版になり家運傾く鶴屋喜右衛門と新興の太田屋佐吉     (神田鍛冶町二丁目)とが、それぞれ英泉と仙果を立てて、柳亭種彦亡き後の後継争いを演じたのである。絵師はと     もに三代豊国が担当したのであるが、仙果は戯作専門であるからともあれ、英泉は自ら絵師である、はたしてどんな     思いでこの合巻を書いていたのであろうか。おそらく『偐紫田舎源氏』では、国貞(三代豊国)画のはたす役割があ     まりにも大きかったので、読者は無論のこと板元にも豊国以外の起用など思いも及ばなかったのだろう。英泉自身も     あるいはそれを認めていたのであるまいか。定斎屋(ジョウサイヤ)〉は行商の薬売り。鶴屋と太田屋の後継争いを薬屋の     本家争になぞらえたのである〉  ◯『徳川幕府時代書籍考』牧野善兵衛編述 東京書籍商組合事務所 大正元年十一月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇天保十三年(1842)   〝六月、田舎源氏を出いだせる【書林組合にあらず、地本問屋組合中の出板】鶴屋喜右衛門、町奉行に召    喚せられ、右板木取上げられ、且所払の刑に処せらる、作者柳亭種彦【小十人組小普請、本名高屋彦四    郎】は調中、翌七月病死せり〟  ◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝鶴屋の絵草紙 150/162     巡り合ふ春を鶴屋の藏で待ち(文化)    曽我の錦絵を摺り置き春狂言を待って売り出すの義かと思はる     道中は早し鶴屋で八文字 (文政)     母親は夜の鶴屋へ迷ひ来る(文化)    甲は花魁道中の錦絵が直に一枚絵となつて店頭に飾られること    乙は母親が自分の娘の婀娜(あで)やかな姿絵を草紙屋に見にいくと云ふ嬉しい様な悲しい句である〟