◯『我衣』〔燕石〕①165(加藤曳尾庵著・文政八年以前成立)
(「比丘尼」に関する記事)
〝宝永の頃、鶴と云名高き比丘尼あり、同宿より小鶴とて又一人出す、然るに、宿は神田にて、同店の裏よ
り出火ありけり、勿論、宝永の頃は、附火の御吟味つよき折節なれば、自火、附火の御吟味ありけるに、
出処怪敷ゆへ、自火とも申がたく、六ヶ敷なりける、同店者共不残召出され、御吟味ありけるに、一人、
彼鶴と申比丘尼、朝くわへぎせるして厠へ行たる由申上る、彼鶴を召して、右くわへぎせる致せしと申者
と対決に及ぶ、鶴申ひらき成がたくして、比附の科にをち、火罪になりたり〟
◯『馬琴日記』第二巻 p401(天保二年七月廿五日記)
〝本所伊藤主膳殿【寄合五千石】下屋敷にて、鶴を射候事、当時及露顕ニ付、久しく御詮議、当月十八日
落着。主膳殿は本多(ママ)伊藤修理太夫ぇ御預、嫡子采女殿は改易、二男造酒允は追放、その外家来数人、
或は追放、或はおし込ニ成ル。(中略)【三千石以上改易は、天明中藤枝外記伊織以来此度又有之】〟