Top「土蜘蛛」文献資料浮世絵文献資料館
 
浮世絵事典
    「源頼光公館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
    (以下四つの解釈の一覧が出ます)     『天保雑記』 「土蜘妖怪図解」      『浮世の有様』「一勇斎の錦画」・「浜御殿拝観の記」・ 左記「頭書 錦画の註釈」     ◯『天保雑記』p340(藤川整斎著・天保十四年(1843)記)   (『内閣文庫所藏史籍叢刊』汲古書院・1983年刊)      〝土蜘妖怪図解 錦絵聞書    一 四天王居所畳故、富士の裾にて青く、世界半分黒暗故、種々の妖怪出る。絵の大意、上が闇き故に      下は真青で居ると云意なり    一 土蜘額の梅鉢、筒井伊賀守。巣が矢筈にして富士の形にて矢部駿河守なり。顔に賽の目有り、      真中一、眼二、鼻山にて三、両口脇四と六、額五也    一 頼光公、夜着に葵の唐花、水に巻れて世界を知らぬ躰故眠る形也    一 鼻紙台、兎、林播磨守、金山より之石、澤潟公より献上し、下の紙は美濃紙にて水野美濃守、下の      梨子地桔梗丸は太田公を梨地にしたるなり    一 黒き牡丹は劉訓が故事にて、牛の異名を黒牡丹と云とや    一 沢潟が季武定紋なり    一 綱の三ッ星に一の字は真中より割六文銭の形なり。模様の亀甲は水に這と云理なり    一 金時、黒地にしつほふは金の字の似合なり。着物の模様桜の花に蕨手、桜炭の小口切を水に巻れて      有なり    一 碁盤横に有て盤の目を見れば横邪なり。又十里四方引替地、考も無仕事故、碁に地取なし、黒大き      く其上二十ニ白十七なり    一 貞光源氏車定紋なれど、着物の車水車に間似合なり、此人十里四方引替を、碁向助云いたし候得共      聞入なし、仍て一人脇に寄、茶を呑、世界の有様を考える処、化物悉く見ゆる    一 四天王四人共中年に見へ候得共、不残白髪なり。能く御覧之事             化物    一 轆轤首【娘/子供なり】    一 同骸骨    一 鬼瓦が泥鏝を捧るハ【塗屋/植】    一 生海鼠    一 雀  【躍の類なり】    一 同骸骨    一 九ッの骸骨の馬印ハ【苦界ニて/女郎屋也】    一 福禄寿 三ッ目【株主、地主/金貸】    一 亀に棒ハ【鼈甲屋/鼈屋】    一 河太郎 【姣者ニ芝居者】    一 木魚ハ 【講中なり】    一 蟹 【検門ニて這といふ儀なり】    一 貂狼の形ハ【龍野侯/芝居者】    一 西瓜   【初物なり】    一 同刷牙ハ 【寺の幡、質屋/小呉服】    一 鯰の蓮の花持し【池の端取払なり】    一 馬上の大将ハ 【眼徳と云しヲカツ引故指の采配持、模様茶台は此者常に浄瑠璃を好て、指の采配ハ      多くの人の思ひなり。一ニ奥州医師某と云】    一 筆を持ハ  【奥御右筆組頭大沢弥三郎、道顔のほち/\ハ皺のくひ出来形、藤の丸は大沢定紋なり】    一 幟の上茶釜ハ【水茶屋也】    一 馬ハ 【高金不相成三十両留りなり】    一 口を明たるハ【鳶 上の釼に町内にて】    一 桃灯ハ【四ッ手駕籠なり】    一 釼は 【成田山】    一 蓮の葉を冠ハ【子をろをし/寺大黒】    一 眼の丸きハ【成田屋、下ニ具足少々見ゆる】    一 坊主頭、鰻の頭巻ハ【杓子を持ハ宿屋の子故、長の字杓子ニ付候ハ飯盛売女、中山智泉院】    一 魚ハ 【料理茶屋】    一 緋衣 【払子ハ中山法花寺、大達磨大鴟鵂当時相不成】    一 歯のなきハ【おはなし売】 一 三ッ目ハ 【神子】 一 象  【南蔵院/増上寺】    一 上ヲ向口を明たるハ【金物】    一 蛸  【大凧なり】    一 青龍刀    一 蔦ハ 【棚倉侯なり】    一 貧僧の福耳ハ【御城坊主衆】    一 下達磨【御趣意掛 名主熊井利七郎】    一 服雀 【中野石翁、鳥溜をふくれて居る】    一 婆々    一 大天狗ハ【天狗長と云鳶、子天狗と合、諸々大小の金毘羅】    一 同しきハ【松平伯耆守殿】    一 蟇   【姥が池】    一 凹鼻児髪【印旛沼弁才天おみよの方/下駄屋天鵞絨のはな緒、雛】    一 閻魔ハ 【地獄】    一 官女の下ハ【土岐なり】    一 三途川婆々【手引】    一 女の首二つ【田部加賀守、女髪結結し人を結たる人見ゆる】    一 大将の貂    一 具足着 【牧野侯、鳥屋/尾上菊五郎】    一 丸のハ 【揚弓】    一 顔の逆ハ【陰陽師取払】    一 狐ハ  【稲荷】    一 蝸牛  【一名てゝ虫、見世物類】    一 幟ハ  【神屋上輪散、銭半分】    一 分銅  【天秤/銀座】    一 桃灯  【切見世、古金坐】    一 官女  【中田新太郎/吟味与力】    一 一ッ目 【祭礼并ニ天王/一ッ目の検校】     一 髪の丸ハ【唐物屋手に持し珊瑚樹】    一 猫の竹を持しハ【竹本浄瑠璃かたり并ニ男女芸者風】     ◯『浮世の有様』(著者不詳・天保十四年(1843)十月記)〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」〕   ◇「一勇斎の錦画」p851   〝江府に於て、一勇斎国芳といへる画人、前太平記にいへる処の源頼光が瘧を病臥し、土蜘蛛といへる賊    の忍び入りしこと有、こは文を異やうに書記せしものにして、真の蜘蛛には非れども、これをこと/\    しくいゝたてゝ専ら児女をなぐさねぬる昔物語となしぬ、其有様といへる頼光病臥して眠りし後へ、大    なる法師に化けし蜘蛛の糸を以て頼光を縛せんとせる趣なるを、乍目を覚し、膝丸の太刀にて、これに    手疵を負せぬ【この時よりして太刀の名をくも切丸と改む】彼の四天王と唱へぬる四人の外に藤原の保    昌等次の間にて、其物音を聞きつけ、直に寐処へ出来、血の跡をしたひ行て北野にて生捕しと云、其図    を画きぬるは昔より有ふれし図なり、然るに此度国芳が画しは、紙三枚の続にして、筋違に大なる富士    山を画き、其内に頼光長髪にてふとんに巻れうつむきて眠ふり、其前に兎の香炉あり、側らに太刀を掛    て有り、これは彼蜘蛛切なるべし、其前に大紋を着してこれを季武と記るす、素袍の紋をおもだかとす、    これ水野越前守なりとぞ、其次に綱と金時と碁を打て居る図なり、金時は白石にて綱先をなし、石配り    を見るに、綱が勝と見ゆ、綱は真田信濃守にて、金時は堀田相模守也と云、堀田は溜の間へふとん投げ    にて、御役御免となり、真田は歴然として御役を勤めぬるさまを見せしものなりと云、これに並びて車    の紋付し素袍を着し、茶碗を持て向を詠めぬるが、定光と記せり、これは土井大炊頭なりと云、頼光が    後に怪げなる蜘蛛を画き、眠(*ママ)の瞳を巴への形になし、右の手に富士山の絶頂を(手偏+必)み、    大に怒れる有様也、矢部駿河守が紋三つ巴なるゆへ、眼と富士山を(手偏+必)めるとにて、それと知    らしめしものなりと云、頼光の着せしふとんの模やうに青海浪を画く、この心は水野に巻かれて目が見    へずといへる心也と云、蜘蛛の外に種々様々の化け物あり、こは何れも水野が為に産を破られ命を失ひ    し者共のおん念なりと云こと也、先高入道の晒頭の馬印を建て、人の指を以て作れる采配を以て多の夭    怪を指揮する有り、これ一方の大将と見ゆ。【種々さま/\の噂あれ共中野関翁なるべしと思はれる】    又達磨如きもの朱衣を着し、象に乗、蛸魚の馬印を持たせしあり、こは感応寺ならんと云こと也、其外    奥女中生洲料理屋鳥屋八百や呉服屋【呉服屋は織の乳をこと/\くに物さしの如く書て之を悟らしむ】    かいるは百姓なるべし、天窓の上にのぼり着て髪乱せしは女の髪なるべし、鼻高く画きしは芝居役者市    川団十郎なるべし、其外種々の化物あれ共悉くは解しがたし。四天王が側らに三つ引の紋斗を画けり、    これは間部下総守の紋なるゆへ、これを記せしものにして其欠けたるをしらせしものなるべし、其絵京    大坂へ二千枚づゝ登せしと云、絵を売れる店毎にこれを出す、江戸にても同様の事なりしが、始の程は    人も心付かざりしが、後には何れも心付、此絵を大に買はやらせ心々思ひ/\にこれを評し、はんじ物    の絵と称して種々さま/\の風説をなすにぞ、上にもやう/\と心付、板元を召捕吟味有りしに、其作    者といへるは麾下に有てこれをしらべぬる時は、大変に及びぬるやうすなるにぞ、板木并にこれまで仕    込有し絵をば悉く御取上にて焼捨となり、板元居町払にて手軽く相済しと云、京摂にてもこれを商へる    事厳しく御停止となる。予は早く心付しゆへにこれを求め置ぬ、其絵を見てこれを弁ふべし、開闢已来    幾度となく乱れぬる世もありぬれども、かゝることを板に彫刻し、上をはづかしめぬることなし、こは    たれがあやまちにてかゝることに至りぬるや、怪むべし恐るべし〟     ◇「浜御殿拝観の記」p854   〝前に記しぬる一勇斎が画きたる錦画の訳を或人の方へ申来りしとて、予に見せしかば、こゝに書記し置    ぬ、画と引合てこれを見るべし。    頼光は【将軍也、水野に巻れ余念なき姿のよし】    兎の置物【水戸侯也、此度の如き天下の大変なるに、小ひさくなりて何事をも得云はず、色にふけりて         本国に斗引込て居らるゝと云へる事也とぞ】    季武【水野越前守也、家の定紋沢潟を付けて、これを知らしむ、将軍の御側をはなれずして、我意を放       (恣?)にする有様也とぞ】    綱 【真田信濃守】公時【堀田相模守】【この両人御老中にて有ながら、何れも智恵なき愚人なるゆへ、       水野が為にて、下は申に及ばず、肝心なる将軍の御膝元の騒動すらをも知らず、水野が種々こび       へつらへるのみにて、碁盤面のことく、筋違いの事のみくづ/\いたして、其職分の勤められぬ       る人に非ずといへる程の愚人共也と云ことを書記せしもの也とぞ、又真田先をなしていれども石       配りにては同人が勝のやうすを見せぬ、これは真田は其儘御役を勤めぬれども、堀田は今度ふと       んなげにせられて溜の間詰となり、御役召上られしやうすを書顕せしもの也と云】    定光【土井大炊頭也、かゝる天下の有様なれども、水野が姦悪なる事をば夢にもしらずして、太平なる       心持にて、うか/\茶を飲え平気にて居ると云事也、愚人に非れば、小人にして家柄と云ひ御老       中の上席に居る身分にして、水野が姦悪を取挫く事克はず、紀州公其外諸侯の力を以て水野がし       くじれるやうになりて、太平に納るやうになりぬ、匹夫匹婦の為に馬鹿者と噂せらるゝも其理な       きにしもあらず】   (丸に三つ引きの紋)【是は間部下総守が紋なり、詰処に於て水野を取挫しかども、御役御免となりし様       を書記るせしもの也と云、将軍を始め四人の面体を生写しにせしもの也といへり、堀田は色赤く       恐ろしき人相にて、せ間にて赤鬼と異名せる人なりと云】    上黒くして下青く画しは【上の政道くらやみにして諸人困窮甚しく、下は一統に青くなると云事也とぞ】    土蜘蛛【美濃部筑前守、御側御用にて権勢強く大御所に仕へて、勢ひ振ひしが、薨御後直に仕くじりし       人也、富士山は矢部駿河守にて、美のべが引立にて立身せしと云、夫故富士山の頂を(手偏+必)       で引上しさまを画きしと云】    ろくろ首【歯なく口を明きて下に亀あり、江戸の咄しゝの師家喜蝶といへるもの也、御改革に付て厳敷       御咎蒙りしとなり】    鬼のこて持てるは【御改革にて江戸市中の鬼瓦取払にて悉丸瓦となりし故也】    木魚【念仏講を俗家にて勤る事を御停止となりし故也】    晒首馬印【菱垣十組問屋共】    山伏【悉天目が原へ引越被仰付し故也、したひに一目を画てこれをしらしむ】    鼻高親父【堺丁名主大塚屋といへる人】    指采配【米相場也】    大入道は【浅草道茶店親子共流罪と成る、あたまの上に子のしやり首あり】    馬は【博奕】    白織は【白木屋といへる呉服屋戸〆被仰付、此卯織類すべて呉服屋共なり】    猫 【竹本女太夫】    柏の紋付し鳥は【勝負鳥】    目玉上につきて口の上に有るは【さか口といへる所の楊弓矢なり】    天上眉有女は【大御所の御愛妾おみのゝ方と云、中山法華寺の隠し子にて中野関翁が養女也、越前の御           養子、川越の御養子、加賀の奥方等の御腹にて悪女なり】    てうちんは【弔なき御趣意なり】    天窓の上にて乱髪の女【これは女髪結なり、この者に突かれて虎の如くなるは内分にてかみを結ひしこ               とを訴人せし何虎とやらんいへる者なりとぞ】    闇(ママ)魔王は【地獄茶屋といへる処取払となりしゆへなり】    蝸牛は【角細工】    蛸は【凧御取あげとなりしゆへなり】   (顔の図あり)【この図は鳥目相場上げられしゆへなりとぞ】    幟 【二品切さき怖と幣とかきたるは二割下げと云事也、後藤の紋なり】    達磨の象に乗【海老蔵と云事也、其後にあるとらなどは、砂村の化物なるよし】    百まなと【可山といへるものなり】    蛙 【惣嫁のきゆう】    獅々義の化物坊主杓子を持うなぎを鉢巻なせしは【下谷極楽寺和尚飯盛お長といへる女になじみ生洲に                           て召捕られ、さらし物となりしなり】    西瓜は【水くわしやの化物】    幟 【かず多し、浅草前の茶店又ちりめんなどにて、乳をば何れも物さしの如くなして呉服屋の困れる       様を顕はせしなり】    河童【かつぱ頭長の人】    うちはを持て都鳥に乗りしは【中野関翁】    筆を持たるは【屋代太郎と云御祐筆水野がためにしくじらされて閉門をなす】    鼻なき女【大御所の御愛妾瘡毒にてはな落しなり、押込となる、髪はびろうと下た草りの鼻緒なり】    一眼にして頭上に鳥を頂き指三本なのは【当年より三ヶ年祭礼やめになりしゆへなりとぞ】    天上眉ある女【大御所を自由にせし中山法華寺の女にて、中野石翁の養女押込となりし人なりとぞ】〟     ◇「浜御殿拝観の記」〔頭書 錦画の註釈〕p854     頼光は親玉と見る、卜部季武は水野とみる、紋は沢潟、渡辺綱は真田と見る、たんご三つを合せて、     六文銭にかたとる、坂田金時を堀田と見る、紋は(◇の中に+)是をかたどる、定光を土井とみる、     土車をかたどる、頼光の夜具は青海浪のもやうは水野にまかれて居るとみる、ご盤に向きて筋違と云     事、土蜘の㒵(一字分模様あり)もやうは美濃辺筑前守とみる、蜘の巣の不二山の形是は矢部駿河守     のゆうれの(ママ)と見る、兎の置物は水戸様とみる、但し卯の御年ゆへ是は御趣意を少くなりて見て居     る故置物と見立る。碁打て両人は下の事を知らぬ故、只夢中になりて碁を打て居る、土井はよく知る     ゆへ、化物を見届て居る、頼光は一切の事を知らぬ故、うまくねぶりて居る、薄墨の画は上は真黒と     いふ事、蝋燭は中のあかひといふ事、下の青き画具は下は青く成居ると云事。     イ、所々家々におひて、念仏の寄せ集る事停止故、木魚の化もの     ロ、よき屋つくり普しん停止ゆへ鬼瓦左官の化物     ハ、高直の飼鳥停止     ニ、江戸中の山伏皆浅艸天門原へ引越町住に成る     ホ、晒首まとい草故十組問屋など     ヘ、白髪の鼻高きは堺丁名主大塚親父     ト、馬に乗て居る入道は浅草辺切店座頭あたまの上の事、首は親父一所に傍曬になりし化物     チ、蓮葉をかむりしは子のおろしや     リ、西瓜は八百屋化物     ヌ、なまずは印幡沼の主     ル、杓子以て居る坊主は下谷辺の和尚、飯盛女お栄に深く馴染、或時うなぎやにお長と二人居て酒を       呑ている所を召捕られし故あたまにうなぎを巻て居る     ヲ、金を以て居る惣髪は上の学者成島水野に叱られし故こゝに出す     ワ、茶釜の堀水茶や也     カ、かは太郎はよし丁湯島のかげま也     ヨ、称録或は向島中野関翁也、屋敷は隅田川故、都鳥に乗て居る、あまたにでんほ有     タ、鼻の黒く女は大御所の妾也、疾にて鼻落て押込になりし女也     レ、あたまに鳥の有は山王様の家根の鳥、天王様は今年より三年休ゆへ指を三本出して居る也     ソ、とら猫は猫と云女義太夫也、竹本右竹を吹ている     ツ、柏のもやうあるは鶏の㒵也、これは金銀をかけて鶏をけ合し御召捕     ネ、灯燈は野送お御趣意又富も止む     ナ、此女は大御所様の妾也、お弓の方と云、弓を以ている押込也     ラ、御幣はおどりのかたち、後藤也     ム、眼一つは本庄一つ目弁天と云女郎也     ウ、達磨は鼠山の坊主疱瘡の祈祷致候故也、天盃のみゝつくは疱瘡の印、達磨の目は市川海老蔵の目、       赤衣小象に乗る故、海老蔵と云なぞ也     ヰ、蛸は手の込し凧法度     ノ、南きんはかの砂村の化物     ヲ、あたまをくゝられて居るは、女髪結の法度也     ク、ゑんまは地ごくと云女郎也     ヤ、かいるは夜たかのぎゆうの化物     マ、分銅は銀座の化物    右の外皆因縁あれど、決て不知    此註解も或人の方へ、江戸より来りしと云、下に記しぬると大同小異あり、故に此処へ是を書添置ぬ〟    ◯『井関隆子日記』下巻(勉誠社・昭和56年刊)   (天保十四年(1843)十一月五日付)   〝かの御咎(みとがめ)有し司いちはやき政(まつり)事申されつる中に、錦(にしき)絵あるは団扇    (うちは)などにわざをぎ共の似顔書ことを厳(きび)しう制(せい)ありき。近きころ豊国、国貞、    今も国芳など其名聞(きこ)えたり。此似顔なりかはるわざの度(たび)ごとに書変(かふ)れば、筆    おく間もまれなりしを、止(とゞ)められつればいたう生業(なりはひ)にこうじためり、此春のころ    あやしき絵を南書出たる。されど其初は人こゝろ付ざりしが、ある人画書国芳に間(とひ)しに、是は    誰(た)そ、かれは何ぞと、絵解(ゑとき)聞しより次々いひつぎしかば、世の人珍らしみいみじく求    めてもて遊びぐさとなしぬ。此沙汰あまねかりしかば、此絵うる事を止められ、今は秘(ひめ)置て売    (うら)ざれば、求めがたしと聞(きゝ)しを、ある人のつてもて童(わらべ)どもの得てしを見るに、    稚児のもて遊びの文(ふみ)などにみゆる、源ノ頼光(みつ)朝臣の土蜘になやまされたる様(さま)、    はたかの四天王とか聞ゆる猛(たけ)きをのこどもの宿直(とのゐ)する様(さま)書て、其かしらの    上に土蜘はさる物にてえもいはぬ変化(へんぐゑ)どもいとあまたあらはれたるが、それが顔(かほ)    形ち世の常とかはりて百鬼夜行などいふ古き鬼(おに)共の様(さま)ならず、今様(やう)めきたる    筆づかひあやしともあやし。さるは近きころ罪せられたる公(おほやけ)人はさら也法師のたぐひわざ    をぎども、あるは町々を追(おは)れてたつぎにこうじたる男女(をんな)ら、大方かの司に恨みある    者ども数しらず書出たれど、判じ物とかいふらむやうにて、ふと打見るにはえも解(とけ)がたきなむ    多かる。かつ定光、金時などがともがら其面影かのいちはやき司はさら也、ほかも似たるがありとか。    はたそが着たる衣(きぬ)のあやなど、おふな/\其紋どもを、あらはにはあらで紛(まぎ)らはしつ    けなど、げにたゞならぬ絵の様也。此絵書いましめられぬなど聞えしが、よさまにいひのがれけむ許    (ゆる)されぬともきこゆ。其ころいみじうきびしかりしかば、わざをぎどもの顔こそかゝね、中/\    にいましめられたる人の有様(さま)をまねび出けむ、えもあるまじきわざながらあまねく世にゝくま    るゝ人なれば、今は憚(はゞか)りもなうをかしうなむ〟    〈先頃免職になったあの首班格の方は矢継ぎ早に政令を出しましたが、その中でも錦絵や団扇絵に役者似顔を禁じたの     厳しい仕打ちでした。最近では豊国、国貞、今は国芳などが役者似顔の名手、彼らは興行のたびに画き替えるので、     筆を置く間もないくらい忙しかったのですが、禁じられてからは仕事にも困ってしまったようです。それがこの春の     頃怪しい絵が出ました。しかし最初は誰も気にしなかったようです。ある人が画かきの国芳に尋ねたところ「これは     誰、あれは何」と絵解きしたそうで、これが噂となって次々に広がると、世上でも珍しく思って競って買い求め、も     てあそんだようです。それであちこちで評判になって、遂に絵の販売は禁じられ、今では隠し置いて売らないので、     入手しがたいとか。ある人のツテで子供たちが手に入れたものを見ますと、子ども向けの話にあるような、源頼光朝     臣が土蜘蛛に悩まされる様子や、その四天王とかいう勇ましい男たちが宿直する様子が画いてあって、その頭上には、     土蜘蛛はもちろん、何とも言いようもない化け物がたくさん画かれています、ところがその顔かたちが、古画にある     百鬼夜行の鬼などと違って、当世風に画かれているものですから、いよいよ怪しげな感じがします。実は、最近罰せ     られた役人はもちろん、僧侶や役者、あるいは町を追われて生活に窮した男女など、おそらくあの役人に恨みをもつ     人たちを沢山画いたらしいのですが、判じ物とかいうらしく、ちょっと見ただけではとても解きがたいものも多いよ     うです。一方、定光、金時などの顔つき、あの酷い役人は言うまでもなく、他にも似ているものがあるとか。また、     着ている衣裳の模様などに、それぞれに応じた紋様を目立たないように忍ばせるなど、実に風変わりな様子の絵でし     た。この絵かきが逮捕されたなどという噂も聞きましたが、うまい具合に言い逃れしたのでしょうか、許されたとも     聞きます。今は(役者似顔絵)を厳しく禁じているので、役者の似顔こそ画きませんが、それがかえって逮捕された     人の様子をよく伝えているともいいます。まったくもってあってはならないことですが、市中のすべてに憎まれた人     なので、(罷免された)今は遠慮もなく打ち興じています」     「かの御咎有し司」は天保十四年の閏九月老中を失脚した水野忠邦。「あやしき絵」は「源頼光公館土蜘作妖怪図」     「いましめられたる人」とは市川団十郎を指すのだろう。出版は天保十四年の春〉    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥145(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   (「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」天保十三年(ママ)の記事)   〝いとおかしきは国芳が書る、頼光病床に在て四天王の力士らの夜話する処、上に土蛛の化物顕れたる図、    俗に有ふれたる画也、夫を何者か怪説を云ひ出し、当時の事を諷しある物とて、此絵幸に売たり、此内    おかしと云るは、彼土蛛いかにも画工の筆めかぬ不調法なるが、却て怪くみゆ、是は本所表町、俗に小    産堀と所に提灯屋有り、初めは絵かく事を知らぬ者にて、凧を作りて猪熊入道とやら云て、髑髏の様な    る首をかき、淡墨と藍にて彩る、其辺の子供ら皆是を求めしが、国芳此をかたどりて書たりとみゆ〟    〈記者・喜多村信節は怪説が如何なるものか記していないが、「当時の事を諷しある物」と云う。おそらく、怪説・諷     刺内容の当否というより、そうした風評を呼ぶこと自体が、為政者には看過できない問題なのであろう。ところで、     喜多村信節はこの天保十四年刊とされる「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」をなぜ天保十三年の項目に記たのであろうか、     不審である〉    ◯『五月雨草紙』〔新燕石〕③59(喜多村香城著・慶応四年七月成立)   (「天保十四年(1843)」記事)   〝爰に世の中大評判は、浮世絵師国芳なるもの、頼光朝臣の不例の図は、子供遊の双紙にある土蜘蛛の妖    物になぞらへ、当世滅亡せし矢部駿州を始め、諸家の面々より、下々に至りては、株持、地主の損毛、    岡場所、茶屋、小屋、富興行の山師ども、いろ/\さまざまに化けたる姿、如何にも正しく四天王は碁    を囲居たる図なるが、此錦絵を誰か見付出したるか、気がつきたるや、厳敷買上げ、板木は滅却して仕    まいたる由、世に恐るべき人智の機妙にて、聊の絵虚事なりとも、事理を推て勘考する時は、遂に画書    の当人も心付ざる所迄に至なり〟    〈巷間に物議を醸し出すという予想のようなものが、国芳にはあったのかもしないが、こんな大騒ぎになるとは、思い     もよらぬことだったのではないか。「源頼光公館土蜘作妖怪図」は、もはや国芳の思惑を超えて、読まれはじめてい     ったと、栗本鋤雲は理解したのである〉    ◯『続泰平年表』p217(竹舎主人編・天保十四年十二月二十六日記事   〝戯絵に携候者共御咎一件、(堀江町二丁目弥助店)久太郎・重蔵・(貞秀事)兼次郎・(神田御台所町五    人組)長吉、右過料五貫文ツヽ、(室町三丁目絵双紙屋)桜井安兵衛(売徳代銭取上ヶ過料三貫文 右    は(歌川)国芳画、(源)頼光四天王之上ニ化物在之、絵ニ種々浮絵を書合候、彫刻絵商人共、売方宜    敷候二付、又候右之絵ニ似寄候中、錦絵仕置候ハヽ、可宜旨久太郎存付、最初四天王・土蜘計之下絵を    以、改を請相済候後(貞秀と)見考之申談、四天王之上土蜘を除き、種々妄説を付、化物ニ仕替、改を    不請摺上売捌候段、不埒之次第ニ付、右之通過料申付)〟     ◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(天保十五年(1844)正月十日)   (記事は天保十五年のものだが、国芳の「頼光土蜘蛛」の出版は天保十四年春のことである)   〝同(正月)十日      源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし。     又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵    双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見    せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続    百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也     其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
    一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」・玉蘭斎貞秀画「土蜘蛛妖怪図」    (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)      〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)春の刊。これはその判ずる内容が幕政を諷したものではないか     と評判をよんだが、お上を警戒した板元伊場屋が絵を回収し板木を削るという挙に出たため、お咎めはなかった。次     に、貞秀の画く「土蜘蛛妖怪図」が同年冬(十月以降)に出回った。これは店先にはお化けのない絵をつるし、内々     にはお化けの入ったものを売るという方法をとった。が、やはりこれも噂が立ち、今度は板摺で板元を兼ねた久太郎     と絵師の貞秀が三貫文の過料に処せられた。そして、天保十四年の暮れか翌十五年の正月早々に、芳虎の「頼光土蜘     蛛のわらいを添」えた画が「たとう(畳紙)」入りの組み物として売り出された。今回は、板摺兼板元の高橋喜三郎     以下、卸問屋・小売り・絵師芳虎ともども、咎を免れえなかった。ところで、貞秀画の板元も芳虎の板元もそれぞれ     板摺となっている、板摺とは板木屋か彫師をいうのであろうから、国芳画の板元・伊場屋とは違い、板元は一時的な     ものであろう。高橋喜三郎の場合は松平阿波守家中のものとある。内職にこのような危ない出版も請け負ったものと     見える。あるいは改めを通さない私家版制作に深く関わっていたのであろう。(「源頼光館土蜘作妖怪図」の刊行を     これまで『藤岡屋日記』の記事から天保十四年八月としてきたが、『井関隆子日記』の天保十四年十一月五日の記事     「此春のころあやしき絵を南(ママ)書出たる」から天保十四年春と訂正した。2012/04/14追記)     さて、国芳画の「源頼光館土蜘作妖怪図」は「判じ物」とされる。絵は読み解く対象になる。読み手は画中の人物を     自分のもつ情報と想像力を駆使して、現実に存在する者となんとか対応させようとする。しかしそれにしては読み解     く根拠も確証も画中にはみつからない。国芳に意図があるとすれば、画中のものを現実のものと特定できるような可     能性は画くが、特定できるような根拠は画きこまないということではないだろうか。それは一つにはお上から嫌疑が     かかった時の弁明というか、逃げ口上にもなりうるし、また判者の自由な想像力をも保証することにもなるからだ。     為政者からすれば、その判じ物が事実を擬えているかどうかという以上に、憶測や風評が燎原の火の如く広がり、秩     序・風紀が乱れてコントロール不能になることが恐ろしいのであった。国芳や板元・伊場仙にそうした紊乱の意図が     あるとは思えない。しかし放っておけば制作側の意向を越えて混乱を招く恐れはあった。絵の回収と板木を削るとい     う処置は、為政者に向けて発した恭順のポーズである。     「兎角ニむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」世の中とは、弘化五年(1848)、将軍家慶の鹿狩りを擬えた「富士     の裾野巻狩之図」(王蘭斎貞秀画)に対する、藤岡屋由蔵の言葉であるが、判じものがあるはずなのに、それを具体     的に案ずることが難しいもの、あるいは改めを通るのが難しそうなもの、そうしたものを敢えて画かないと売れない     時代になっていたのである。処罰されるたびに謹慎の姿勢を示すのであるが、難しいものを求める世の欲求に応えよ     うとすると、どうしてもきわどい画き方をしてしまうのである。         ところで、鏑木清方の随筆「富士見西行」(岩波文庫本『明治の東京』所収)という文章を読んでいたら、次のよう     なくだりに出会った。「七めんどうで小うるさい、碁盤の上へ網を張って、またその上へ蜘蛛の巣を張ったような世     の中」。碁盤・網・蜘蛛の巣という組み合わせには「七めんどうで小うるさい世の中」という意味合いがあったのだ     ろうか。これを使って判じてみると、七めんどうで小うるさい世の中をもたらしたのは頼光と四天王、つまり為政者     側だ。ところがその為政者側がそんな世相に悩まされて病んでいる、ということなろうか。もっとも国芳が碁盤と蜘     蛛のもつ意味合いを清方同様に共有していたかどうか、これまた確証がない。知らないはずはないだろうという想像     をめぐらすことは可能だが、それを国芳に押しつけることは出来ない。国芳には、お上をもってしても、幕政批判の     意図を持って画いたはずだと断ずることは出来まいという自覚はあったように思う。2009/7/26記〉     〈2010年1月23日、「板摺」を「板木屋=彫師」から「摺師」に訂正した〉    ◯「流行錦絵の聞書」(絵草紙掛り・天保十五年三月記)『開版指針』(国立国会図書館蔵)所収   〝天保十二丑年五月中、御改革被仰出、諸向問屋仲間組合と申名目御停止ニ相成、其外高価の商人并身分    不相応驕奢のもの、又は不届成もの御咎被仰付、或ハ市中端々売女の類女医師の堕胎(ダタイ)【俗に子    をろしと云】御制禁ニ相成、都て風俗等享保寛政度の古風ニ立戻り候様被仰渡候処、其後同十四卯年八    九月の比、堀江町壱丁目絵草(ママ)屋伊波屋専次郎板元、田所町治兵衛店孫三郎事画名歌川国芳【国芳ハ    歌川豊国の弟子也】画ニて、頼光(ヨリミツ)公御不例(レイ)四天王直宿(トノヒ)種々成不取留異形の妖怪    (ヨウカイ)出居候図出板いたし候、然る処、右絵ニ市中ニて評到候は、四天王は其比四人の御老中【水野    越前守様、真田信濃守様、堀田備中守様、土井大炊頭様】にて、公時(キントキ)渡辺両人打居候碁盤は横    ニ成居、盤面の目嶋なれば、此両人心邪(ヨコシマ)に有之べく、扨妖怪の内土蜘は先達て南町御奉行所御    役御免ニ相成候矢部駿河守様の【但定紋三ツ巴也】由、蜘の眼巴ニ相成居候、又引立居候小夜着は冨士    の形を、冨士は駿河の名山なれば駿河守と云判事物の由、飛頭蛮(ヒトウバン/ロクロクビ)は御暇ニ相成候中    野関翁【播磨守◎隠居なり】にて、其比世上見越したると申事の由、天狗は市中住居不相成鼠山渋谷豊    沢村え引移被仰付候修験、鼻の黒きは夜鷹と【市中明地又は原抔え出候辻売女也】申売女也、長ノ字の    付候杓子を持、鱣(ママ鰻?)にて鉢巻いたし候坊主は芝邊寺号失念日蓮宗にて鱣屋の娘を囲妾ニいたし、    其上品川宿にてお長と申飯売と女犯ニて御遠島に相成候ものゝ由、筆を持居候は御役御免ニ相成候奥御    祐筆の由、頭に剱の有るは先達て江戸十里四方御構に相成候歌舞妓者市川海老蔵、成田不動の剱より存    付候由、頭に赤子の乗居候は子おろし、常に字付候提灯は当百銭の由、纏に相成居候鮹は足の先きより    存付高利貸、分銅は両替屋、象に乗候達磨は先達て貪欲一件ニて遠島に相成候牛込御箪笥町真言宗ニて    歓喜天守護いたし候南蔵院の由、其外家業御差留御咎等ニ相成候者に付、市中好事の者調度、絵草屋    (ヱソウシ)屋え、日々弐三人宛尋候得共、絵草紙屋にても、最早売々不仕候、右は全下説ニ程能附会(コ    ジツケ)風評致候共恐入候事ニ有之候、乍併諺にいふ天ニ口なし人をもつて云わしむると申事あれバ、若    自然右を案じ、又乍承夫を紛敷画候ハ不とゞき至極のもの共也〟     〝其頃風評を消んと四天王并保昌五人ニて土蜘蛛退治の絵、同画ニて出板いたし候得共、蜘の眼に矢張三    ッ巴を画候なり、然れ共四天王直宿(トノヒ)妖怪の絵は人ニ届候共、土蜘退治は売れも不宜候由。右ニ    付存付候哉〟     〝同年閏九月中の由、間錦(アイニシキ)と唱候小さき絵ニて、四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図、最初と同    様ニて、後え一図土蜘居候図ニて堀江町【右は里俗おやじ橋角と申候】山本屋久太郎板本、本所亀戸町    画師歌川貞秀事伊三郎【貞秀は歌川国貞の弟子ニて前出国芳より絵は筆意劣り候なり】右は下画にて御    改を受、相済候上出板いたし候、右へ二重板工夫いたし、土蜘を除き其跡に如何の妖怪を画、二様にい    たし売出し候、右化物は前書と少々書振を替、質物利下げハ通ひ帳を冠り、高利貸は座頭、亀の子鼈甲    屋、猿若町に替地被仰付候三芝居は紋所、高料の植木鉢、其外天狗は修験、達磨は南蔵院、富百銭の提    灯、夜鷹子おろし等、凡最初は似寄候画売ニいたし候処、好事の者争ひ買求候由、右も同様の御調ニ相    成、同年十月廿三日、南番所に【御奉行鳥居甲斐守也】御呼出の上、改受候錦絵え増板いたし候は上を    偽候事不届の由ニて、画師貞秀事伊三郎、板元山本屋久太郎手鎖御預ケ被仰付、御吟味に相成候、春頃    或屋敷方ニて内証板ニ同様の一枚摺拵、夫々手筋を以て売々致候由に候得共一見不致候〟        ◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (記事は天保十五年冬。しかし国芳の「土蜘蛛」の絵が出板されたのは天保十四年の春である)   〝流行年々月々に替るはなべての世の習ひなるに、御改正より歌舞伎役者は皆編笠著、武士は長刀に合口    の風俗をよしとす。江戸錦絵は芝居役者の似顔、時の狂言に新板なるを知らしめたるが、役者傾城を禁    ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専らとする中に、去年は頼光が病床、    四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶板せられしにも、こ    りずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化物忠臣蔵等、其もよ    ふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初ははゞからず町老の    禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟    〈「御改正」は天保の改革。「頼光が病床~」は一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」。「矢部」は水野忠邦の改革     に反対の立場で対抗した矢部駿河守定兼。しかし、天保十三年十二月、水野の配下・鳥居耀蔵の策謀のため町奉行を     罷免される。翌十四年三月には改易に処せられ、伊勢の桑名藩へ永のお預けとなる。同年絶食して憤死したとも伝え     られる。『事々録』の記者・大御番某の目には、国芳の「土蜘蛛」の画が「権家のもよふ、矢部等が霊にかたどる」     故に「厳しく絶版せられし」と映っていたのである。すると、頼光や四天王が水野忠邦・鳥居耀蔵等の「権家」、そ     して土蜘蛛以下の魑魅魍魎が矢部駿河守をはじめとする改革のいわば犠牲者という読みなのであろう。国芳は表向き     はそんな意図はございませんと言うに決まっているが、「土蜘蛛」の絵を天保改革の絵解きとして、捉えることが出     来るように意図的に画いていることは確かであろう。画中に確証はないが、容易にそれと連想できるように画いてい     るのである。『事々録』に従えば、土蜘蛛はおそらく矢部駿河守の怨霊を擬えているものと思われる。その矢部が改     革の圧政に虐げられた他の怨霊を従えて、水野たち「権家」を大いに悩ませているというのであろうか。     さて、今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」にならって「兎角ニむつかしかろと思ふ」(嘉永元年九月『藤岡屋日記 第     三巻』「右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図」の記事)錦絵が出た。「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三     界図絵」とされる。「岩戸神楽」「化物忠臣蔵」は未詳。そして、これらは始めは憚ることなく売られ、町老(改め     掛り名主か)の禁止(差し止め)で出てからは、隠して高値で売られたようである〉     〈「岩戸神楽」は「国貞改二代豊国画」の署名のある「岩戸神楽乃起顕」。「化物忠臣蔵」は一勇斎国芳画。この記      事によれば、天保十五年(弘化元年)の出版ということになる。2011/03/25追記〉        ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥356(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (「弘化五年(1848)(嘉永元年)」記事)   〝錦絵欲といふ獣名つけ、杭につなぐ、此絵、先年土蜘蛛の絵、水野越州、矢部駿河等の事をひゆせしに    なぞらへ、当時青山野州をかたどるといつて多く売たり〟    〈天保十四年刊行の国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は、この『事々録』を書き留めている幕臣の目には、水野越前守     忠邦とそれに対立して憤死を余儀なくされた矢部駿河守等の事を譬喩的に画いたものとして、捉えられていたのであ     る。国芳は、そのような想像も可能なように自覚的して画いていることは明白である。さて、この弘化五年の「錦絵     欲」という名の獣とされる青山野州は、老中青山下野守忠良であろう。ただ、なぜ「錦絵欲」という獣とされ、しか     も杭につながているのかよく分からない〉    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)   〝天保ノ末、浜松相公罷政ノ時、頼光土蛛退治図三枚ツヾキノ錦絵出板シ、頼光ハ曲彔ニ倚テ居眠リ、青    海波ノ模様ノ素袍キタル季武、水車ノ模様キタル六曜ノ星ヲ裏銭ヲ并べタル如ク模様取タル四天王ノ輩、    肱ヲ張空ヲ脱ルモアリ、碁盤ニ凭テ眠ルモアルガ、大キナル土蛛ノ頂ノ斑ハ暗ニ矢部駿河ガ紋所ニ似タ    ル黒点ヲナシ、妖魔ノ眷属坊主アリ、山伏アリ、梵天ノ旗ヲタテ、ソロ盤ノ甲ヲ着、岡場所ノ売女、十    組ノ問屋、女髪結ノ類、異類異形ノ怪物ヲ画キタリ。コレハ国貞ノ門人国芳後【後ニ二代目国貞トナル】    卜云モノカケリ。殊ノ外ニハヤリテ、金ヲ以テコレヲ購ニイタル。絶板ニナリテハ、愈狩野家ノ名画ヨ    リ尊シ。コレヨリ事アル度ニ、何トモワカラヌ怪シゲナルモノヲ画タル錦絵ハヤリテ、観者サマザマニ    推度シ、牽強附会シテコレヲ玩ブ〟    〈浜松侯が老中水野越前守忠邦。「国貞ノ門人国芳【後ニ二代目国貞トナル】」は誤り。国貞と国芳は共に初代豊国門     人。上出『藤岡屋日記』によれば「源頼光館土蜘作妖怪図」は絶板にはなっていない。だが巷間では絶板に処せられ     たという噂でもちきりだったのであろう〉    ◯『筆禍史』「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」(天保十四年・1843)p146(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝一勇斎歌川国芳が画ける錦絵に、頼光病臥なして四天央是を守護し、様々の怪物頼光をなやますの図は、    当時幕政に苦しむの民を怪物なりとし四天王を閣老なりと、誰いひふらしけるとなく、其筋の聞く所と    なりて、既に国芳は捕縛せられ、種々吟味せられしが、漸くにして言訳、からくも免罪せられしといふ    とは『浮世絵師系伝』の記事なるが『浮世絵画人伝』には左の如くあり     天保十四年の夏、源頼光土蜘蛛の精に悩まさるゝ恠異の図を錦絵にものし、当時の政体を誹毀するの     寓意ありて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき、其寓意と云へるは、頼光を徳川十二代将     軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精に悩まさるゝの意に比した     りといふにありき(浮世絵画人伝)    当時玉蘭斎貞秀も亦国芳の頼光四天王図に模倣したるものを描きて出版せしがため、貞秀及び版元等関    係者四名は過料五貫文宛に処せられ、販売せし絵草紙屋は売得金没収の上、過料三貫文に処せられたり    と『浮世絵編年史』にあり     天保十四年十二月二十六日、歌川貞秀等戯画の事にて罰せらる(中略)右は国芳画頼光四天王の上に     化物有之絵に種々浮説を書含め彫刻絵商人共売方宜敷候に付、又候右の絵に似寄候錦絵仕立候はゞ可     宜旨久太郎存付最初は四天王土蜘蛛の下絵を以て改を請相済候後貞秀に申談四天王の上の土蜘蛛を除     き種々妄説を付化物に仕換改を不請摺立売捌候段不埒の次第に付右の通り過料申付           〔頭注〕摸倣絵と縮刻絵    『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』が売行よかりし事は、貞秀等に対する刑罰申渡書中にもある如くに、当    時類似の物も数種出たるなり、同じ一勇斎国芳の筆にても、頼光が土蜘蛛を退治するの図もあり、いづ    れも彩色ある大錦絵形三枚続なり     雨花子の寄書に曰く    頼光土蜘蛛の錦絵に付きては、『黄梁一夢』に左の記事あり     (上略)解者曰、其四天王暗指当時執政、群鬼中分得意者、与失業者、為甲乙、又皆有暗符歴々可徴、     一時流伝、洛陽為之紙貴、巳而官停其発行    なほ当時の落首等の中、耀甲斐(鳥居耀蔵)咄し中「手下の化物には一ッ目小僧(長崎与力小笠原貢三    のことを指すなりとぞ)小菅小僧(普請役小菅幸三郎)金田小僧(勘定組頭金田郁三郎)云々」とあれ    ば是等も右の錦絵中にあるならんか〟
      「源頼光公館土蜘作妖怪図」「土蜘蛛妖怪図」 一勇斎国芳画・玉蘭斎貞秀筆dっk      (「浮世絵と囲碁」「頼光と土蜘蛛」図版6-4・6-6 ウィリアム・ピンカード著)    ◯『黄梁一夢』〔『天保改革鬼譚』(石井研堂著・大正十五年刊)所収、p252〕   〈この石井研堂の引用する『黄梁一夢』は上出宮武外骨の『筆禍史』が引くものと同じ。木村茶舟著『黄梁一夢』明治十    六年刊であろう。ただ、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」所収の『黄梁一夢』には出ていない〉   〝天保中の革政、首めに市中富豪の違制を収め、其家財を籍没すること枚挙す可からず。(中略)市民遽    然業を失ひ、怨讟囂然、坊間一時、百鬼夜行の図を鬻いで以て之を譏るに至る。其の図、中央に源頼光    昏睡床に在り、其臣四天王なる者、左右に看護するを写し、其上に群鬼交々闘ひ、甲起き乙僵(タフ)るゝ    の状を描く、奇趣横生、人をして吃々頤(オトガヒ)を解かしむ、解者曰く「其四天王は暗に当時の執政を    指す、群鬼中得意者と失意者とを分ちて甲乙を為す。亦皆暗符有り、歴々徴す可し、一時の流伝、洛陽    之が為めに紙貴し、已にして官其発行を停む」と〟     ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「錦絵と諷刺画」p54   〝『泰平年表』天保十四年十二月廿六日の条に「戯画に携り候者共御咎一件、堀江町一丁目弥吉店久太郎、    重蔵、貞秀事兼次郎、神田御台所町五人組、室町六丁目長吉、右過料五貫文宛、絵双紙屋桜井安兵衛売    徳代銭取上げ過料三貫文、右者国芳画頼光四天王の上に化物有之絵に種々浮説を書含め、彫刻画商人共    売方宜敷候に付、又候右之絵に似寄錦絵仕立候はゞ、可宜旨久太郎存じ付、最初は土蜘蛛四天王ばかり    の下絵をもて、改めを請け相済候後、貞禿に申し候て四天王の上土蜘蝶を除き種々妄説を付け、化物に    仕替改めを不請摺立売捌き候段、不将の次第に付右之通過料申し付る」とある〟    〈改めに提出した下絵と違うものを摺って売り捌く手法、摘発されるまでが勝負。過料を払ってなお余りある売り上げ     に賭けるのである〉