☆ 明和~安永期間(1764~1780)2
◯『明和誌』〔鼠璞〕中p193(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)
〝同時代〈明和安永期〉投扇興と名づけ、毛せんを二つに折、土俵とし、其上へ箱まくらを立に居、十二
銅のおひねりを上おき、扇子をひらき、一間程置て打ことなり。扇ぎのあたりあんばいにより、色々な
る名目あり勝負す。まけたる人は酒をすゝむる遊びなり。中絶し、五十余年たち、文政四の頃、所々さ
かり場に、土弓場と同じ様に見ゆ。同ことに候へ共、至て下品なる仕かたと見えけり〟
☆ 嘉永二年(1849)
◯『増訂武江年表』2p117(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永二年・1849)
〝〈七月頃〉投扇の戯行はる。大坂よりはやり来れり(投扇は投壺より出て、安永の頃大坂の人工夫しけ
るとか。「源氏物語」五十余帖の題号によりて、其の名目を定め甲乙を争ふ。寛政の頃また天保中にも
江戸に行はれしなり)〟
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)後集 巻之二「雑劇補」⑤195
(喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝投扇興
とうせんきやう、またあふきなげとも云ふ。桐小筥上に蝶と名づけ、紙に縮緬を張りし種々の形に柄あ
り。柄下に銭六、七文を付け足として、これを立たしめ、筥より五、六尺を退き坐して扇を投げて蝶を
落す。其形に源氏巻名をもつて五十余品を定め、一品ごと点数を定め戯れとす。文政中、三都大いに行
はれ、今は廃すれども、京坂にも此場一、二戸、江戸にも一、二戸、今なほ存す〟