☆ 明治十八年(1885)
◯『【一読三歎】当世書生気質』春のやおぼろ(坪内逍遥)著 晩青社
6月刊 第 1号 口絵 署名「梅蝶楼国峯画」挿絵 署名「梅蝶楼国峯画」
第 2号 挿絵 署名「梅蝶国峯画」
7月刊 第 3号 挿絵 署名「国峯画」
第 4号 挿絵 署名「葛飾筆」
8月刊 第 5号 挿絵 署名「長」〈長原止水〉
? 第 6号 挿絵 署名「多気桂舟画」
9月刊 第 7号 挿絵 署名「桂舟画」
第 8号 挿絵 署名「長」
10月刊 第 9号 口絵 署名「梅蝶楼国峰画」挿絵「桂舟画」
第10号 挿絵 署名「多気桂舟画」
第11号 挿絵 署名「桂舟画」
第12号 挿絵 署名「多気桂舟画」
11月刊 第13号 挿絵 署名「多気桂舟画」
12月刊 第14号 挿絵 署名「多気桂舟画」
? 第15号 挿絵 署名「多気桂舟画」
☆ 明治十九年(1886)
◯『【一読三歎】当世書生気質』春のやおぼろ(坪内逍遥)著 晩青社
1月刊 第16号 挿絵 署名「桂舟画」
第17号 挿絵 署名「桂舟画」〈大尾〉
☆ 大正十五年(1926)
◯『明治文学名著全集』第1巻 付録六「作者余談」
(第1巻は坪内逍遥著『一読三歎当世書生気質』)
〝書生気質の下絵が残つて居つたとは全く驚いた。いよ/\旧悪露顕に及んだ次第で。実は書生気質を書
き始めてから、四人ほどやつて来た人がある。私は「来る者拒まず」流だが、此方から尋ねて行くなん
といふ事はしない方で、みんな向うからやつて来た人である。長原君も向うから見えた。
あの頃長原君は神田孝平さんの書生どころをいて居られたが、書生気質の五号までの挿絵を見て「あれ
ではいかん。もつと新しいものでなくてはいかん。私に書かせて下さい。」といふ話で、それは何より
と思つて喜んで此方から頼んだ。私は大へん面白い絵だと思つて居つた。ところが、長原君にお気の毒
であつたが、新し過ぎて、どうも世間受けがしなかつた。あの頃は矢張り浮世絵流の挿絵でないと新聞
でも喜ばれなかつた様な有様で、残念であつたけれど二枚だけで中止して貰つた次第ある〟
◯「明治期挿絵美術の素描」青木茂著
〝近代文学の最初の人のように思われている坪内逍遥の作品に『当世書生気質』(明治十八、十九年)全
十七冊がある。各冊に見開き二ページの挿絵があり、一、四号は梅蝶楼国峰と葛飾為斎であった。それ
を見た止水・長原孝太郎は「小説の内容からも挿絵は新しいもので飾らなければならぬ」と逍遙に申込
み、下図を逍遙が描いて五・八号の近代的光線の中の挿絵ができ、逍遙も満足したのであった。止水は
小山正太郎門下の洋画家で、逍遙にウジェーヌ・ヴェロンの『維氏美学』(中江兆民訳)を読むのを奨
めた人でもあった。が、逍遙は後に語っている、「新らし過ぎて、どうも世間受けがしなかった。あの
頃は矢張り浮世絵流の挿絵でないと新聞でも喜ばれなかったような有様で、残念であったけれども二枚
だけで中止して貰った」と。あとの十一編は武内桂舟の筆である〟
〈明治十年代後半、西洋文物の急激な流入が進むこの時世にあっても、市井の人々の挿絵に寄せる好みは依然として、
浮世絵系統の画風にあったようだ。明治二十年には近代文学に計り知れない影響を与えたとされる二葉亭四迷の『浮
雲』が出版されたが、この挿絵も月岡芳年と尾形月耕の担当で、やばり浮世絵師系であった。洋風表現がまだそれほ
ど市井に流通していなかったということなのであろうか、長原止水のような洋画家の挿絵が違和感なく受け入れられ
るにはまだまだ時間を要したのである〉