◯『享和雑記』〔未刊随筆〕②73(柳川亭著・享和三年序)
〝鎌倉河岸に豊島や十右衛門といふ酒屋あり、三月節句前、白酒を売出すに人々先を争ひ、是を求る事あ
やしき迄也、凡商物は品多しといへ共、豊島屋の白酒程に皆人乞望む品なし、されば店先群集する事い
ふ計なし、入る者は出る事を得ず、来る者は入る事能はず、いやが上に人重りて是が為に往来の道も絶
へ、怪我人の出来る事も度々也、此白酒を求んとわざ/\数里を来り眼のあたり商ひするを見ながら、
近寄事不能して空しく帰る者の少なからず、されども盛衰必時あり今の如くにて続くべからず、後の世
にこれを聞んものは誠しからずこそ思ふらめ〟
◯『我衣』〔燕石〕①188(加藤曳尾庵著・文政八年(1825)以前成立)
〝元文元年、鎌倉河岸に豊島屋と云酒屋、見世を大にして、外々より格別下直に売たり、毎日、空樽十、
二十を小売にて明るほどに、酒は元直段にて樽をもうけにしけり、其頃は、樽一匁より一匁二三分迄に
売たり、其仕方をみるに、片見世に豆腐作り、酒店にて田楽をやく、豆腐一丁を十四に切る、甚だ大き
なり、豆腐外へは売らず、手前の田楽斗也、其頃豆腐一丁にて二十八文也、是も元直段にて、味噌も人
も皆々外物なり、されども酒の明くを肝要とするゆへ、田楽を大きく安くみせ、酒も多くつぎて安く売
ゆへ、当前には、荷商人、中間、小者、馬士、駕籠の者、船頭、日傭、乞食の類多くして、門前に売物
を下しをきて酒をのむ、これによつて、野菜等を求めんと思ふ人は、皆此豊島屋が見世先へ行けば望の
物あるゆへ、自ら見世先人立多きゆへ、往来の人も立寄、内のていを見て、繁昌なりと沙汰す、後には、
樽売或は五升三升の通樽にて求に来る。寛保の頃よりは、大名の御用酒をも被仰付、御旗本衆、小役人
中の寄合にも、必ず豊島屋の樽なき事なし、夫ゆへ、麹町、四ッ谷、青山、本郷辺、小石川、番町、小
川町辺の屋敷より、遠方も苦にせず、山の手向、車力、馬足にて積送る、所の酒屋よりは格別下直にて、
しかも酒よく、猶々評判を得たり、新堀、新川の酒問屋にても、金廻り悪敷問屋は、元直段を引ても豊
島屋へ積送るに、何百駄にてもかへす事なし、問屋も前金を借りて、着船次第に酒をこすべきなどゝ約
束して借用する問屋もあり、夏に至て、十日二十日ならで持まじき酒をば、皆々直段格別に引下げ、豊
島屋に送るに、一両日の内に飲尽す、是より段々繁昌す、其後近隣に酒屋出たれども、手ぜまくして豊
島屋に不及〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(日本古典藉総合データベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝白酒(豊島屋)
名代にて売るしろ酒に賑ひし人をもはかり出すとしま屋
水もちのおはぐろくさくなるころは白酒ひさぐ豊島屋の見世
白ざけのまだ口あけもせぬうちに人からさきへはかるとしま屋
山川にみなぎる瀧のしろ酒に人の浪うつとしま屋の見世
あき樽を不二ほど高くつみあげて白酒うらん豊島やの門
としまやがうる白酒はふじがねの雪にかも似て夏までももつ(画賛)
としまやにひく白酒の石臼を◯として人の雲はなすらん(拾遺)〟
〈豊島屋 積樽 群集〉
◯『わすれのこり』〔続燕石〕②147(四壁菴茂蔦著・安政元年?)
〝豊島屋白酒
鎌倉河岸豊島屋の本店にて、毎年二月二十五日、一日の間白酒を売り出だす、家の前には矢来を結ひ、
入口に木戸を開き、こゝにて切手を買ひ、つぎ場にいたりて、白酒をうけ取り、幕の方へ通りぬけるや
うに構えたり、さしもに広き往来も、止まるかと疑ふばかり、只一日の売高、幾千両と云ふことをしら
ず〟
◯「行楽の江戸」淡島寒月著(『新公論』第三十二巻第一号 大正六年一月)
(『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p93)※(カナ)は原文の振り仮名
〝三月 雛祭 これは一日から五、六日まで雛壇を飾って色蒲鉾や煮豆や白酒を供える。白酒は鎌倉河岸
の豊島屋に限ったものだ〟