☆ 明和五年(1768)
◯『後はむかし物語』〔燕石〕①32+9(手柄岡持著・享和三年(1803)序)
〝よし原の初めて焼たるは、明和五子年四月の初旬也、その時までありしや、其前に潰れたるやは忘れた
れども、江戸町に巴屋といふよき女郎屋あり【前の歌にある、めぐる紋日の巴や、ともゑ豊山に云々】
此家にて、とらといふ女郎初て出来、その末に海老や二軒並であり、其の末の海老やに、少将といふ女
郎出来たり、二軒ともに、額の内に海老やの字ありて、手前の紺の暖簾のは庄七ゑびやといひ、先のを
少将ゑびやといふ。少将はよき女郎お職にてはやりたる也、巴屋虎は一向客のなき女郎にて、いつ見て
も見世にばかり居る女郎也、其頃、豊里、大橋などいふは、よき女郎にてはやりたり、此巴屋一軒計外
の女郎やと異にして、至て麁相なる見世つきにて有し、其頃より、大上総や、また天満屋などばかりは、
見世のうしろ、格天井の如く光りて美々しかりし、巴やは長押も付けず、見世のうしろも、常体の障子
を切ぬき、格子の外の方に三尺の格子戸のひらきありて、其中に及(ギウ)一人居たり、入口もせまく、
奥へ長く、はるか奥に、紋もなき短き暖簾かけてあり、見世の正面に、さしわたし六七寸ばかりの、黒
き三つ巴の紋を、額のやうに掛置たり、其頃も古風なる見世と云へり〟
〝(材木屋の太申なるもの)巴やの豊里に馴染て、此形を豊里に着せ、一枚絵にも、豊里が此染の小袖を
着たる所をかゝせて出す、【春信頃か】〟
〈遊女豊里に着せたのは、太申が自らの名を弘めるために作った「太申染」の小袖である〉
〝其巴屋に岩こすといふ傾城は、秀たるものなりき、渠は、もと越後、信濃あたりの深山のものにて、山
女衒行かゝりて見れば、老女只一人、六七歳の小女と、あやしき家居に住むあり、立ちよりて問へば、
此小女は父母におくれて我手に育侍るといふ、かゝる所にあらんよりは、我江戸に連行ん、我にあたへ
まじやといへば、山奥のかかる所にありて、若我死せば、狼の餌食ともならん、夫いと幸なり、つれ行
て命を全くし給れといふ、女衒歓びて、金弐分を老女へ与へければ、老女も悦びけつとなん、是後に巴
屋の岩こすとて全盛の君となりたるといふ事を、年を経て聞けり、其虚実はしらず、同藩の大山氏なる
もの、此岩こすに逢けるに、夏の頃なりしが、幮の外に来りて禿を呼て、水を取よせ、其半呑て暑しや
と問ふ、大山、暑しと答ふ、其時、その茶碗を持て幮に入り、のみさしたる水をのまする心かとおもふ
に、さはなくて、おのれ一口呑て、大山が寝たる顔に向ひて、ふつと霧を吹かけたり、顔より髪襟のあ
たりまで水にぬれければ、驚きて起上る、岩こす笑て、呑たるよりは涼しからん、といひしとなり、凡
妓の気骨にあらず、此一談を聞ても察すべきなり〟