◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥44(松平定信・寛政六年(1794)記)
〝銅板鏤刻、蛮製にあれど、我国にてなすものなし。司馬江漢といふものはじめて製すれども細密ならず。
ことにいといたう秘してわれのみなすてふ事をおふなり。さるに備中松山の藩中にこのころなすものあ
り。殊に細みつ蛮製にたがはずとぞ。予もむかしこゝろみしが、蛮書などにあるを訳させてこゝろみし
によからず。人をもてかの士へたづね問たるに、銅板に炭の粉をもてみがき、その板を火のうへにのせ、
せしめうるしといふをことにうすく銅色のみゆるほどにぬるなり。さて其板を三日ほどかはかし下絵か
きて、ほそきたがね又は針なんどにて其うるしをほりうがち、日のあたる所へ出し、薬を筆にて三四度
もつけ、紙に酢をひきてその紙をもて銅板の表にあて、一夜屋の下などへ置、あつき湯をもてそのうる
しを去て墨もて摺なり。
薬方
墨は鹿角象牙などを焼たる其粉に、ゑの油を交、其銅板に糊うすき紙をもてその墨をよくぬぐひ、猶手
にてもよくその墨をとれば、墨そのくされたる画なんどの方にのみのこるなり。紅毛の紙をよく水にて
濡はせ、またうるほはざる紙と二つかさねあはせて、銅板のうへにのせ、しめ木にてしむるなり。かの
土の言には、墨は油煙を用ひたるがよしと云、ホイスシヨメールなんどにも、銅板の製す事しるしあれ
ども、かの蛮書の一失にて、その簡要にする事はことに略して書をけば、其泣による事あ.たはざるな
り。せしめうるしつくるは、かの士の考なり。白蝋に松脂を交へてつくるは、蛮書にものせ侍るとなり〟
◯「油絵銅版話」(『老婆心話』(写本)梅花山人(藤堂良道)著 文政十三年(1830)自序)
(国書データベース画像)(72/113コマ)
〝司馬江漢蘭画及銅板の創製なり「ステレキワートル」といふは鉄などのくさらせ薬なり 「すてれき」
とは強きと云こと 「ワートル」とは水といふことなり【梅酢タンパン鼠糞ノ三味】 江漢はもと勝川
春章といゝし浮世画工なり 両三度出会せり 津の銀札新札となせし時に 大坂より下りたる玉山とい
ふ画師に下画をかゝせ 銅版になしたれば 偽札なく 今以て強く行はる ◎◎銀札の事はあつかり所
扱ふことなりき〟
◯「集古会」第三十四回 明治三十四年九月 於青柳亭(『集古会記事』明治34年11月刊)
〝清水晴風(出品者)
亜欧堂田善作 銅板絵/司馬江漢 亜欧堂田善 銅板絵
江漢 田善 雷州 春燈斎 令恭 玄々堂禄山 龍山 高橋由一 九皐 北寿 国芳
浅井忠等の銅板・木板・油絵・水彩画貼込帖
司馬江漢作 銅版絹本/初世玄々堂 銅板〟
〈安田雷洲・岡田春燈斎・新井令恭・松田禄山(二代目玄々堂)・松本龍山、以上銅版画
高橋由一・浅井忠は油絵、北寿および国芳は木板、九皐は萩尾九皐か未詳〉