◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
◇(寛延年間(1748-50)記事)1p156
〝延享四年三月の頃より不忍池新に築地出来て、茶店、楊弓場、講釈場等建てつらね繁昌し(云々)〟
◇(宝暦二年(1752)記事) 1p158
〝六月二十二日より池の端新地の茶屋五十九軒、其外家数余多(あまた)引払はせらる(多くの女をかかへ
置きて、猥らなる事為しししゆゑとぞ)〟
◇(宝暦年間(1751-1763)記事)1p172
〝宝暦中西村重長が『絵本江戸みやげ』(宝暦三年出版)図中、両国涼の図に水茶屋葭簀の屋根なし、見
世毎に行燈を置いて御涼所(おすずみところ)と記せり。吉原五十軒茶屋に編笠釣るしてあり〟
◯「飴売土平伝」〔南畝〕①377(舳羅山人(大田南畝)作・明和六年春序・『小説土平伝』所収)
〝美人の天井より落て茶屋の中に坐するを見る。年十六七ばかり。髪は紵糸(シユス)の如く、顔は瓜犀(ウリ
ザネ)の如し。翠の黛(マユ)朱(アカ)き唇、長き櫛低き屐(ゲタ)、雅素(スガホ)の色紅粉(ベニヲシロヒ)に汚(ケガ)
さるゝを嫌ひ、美目(メモト)の艶(シホ)往来を流眄(ナガシメ)にす。将に去らんとして去り難し。閑かに托子
(チヤダイ)の茶を供(ハコ)び、解けんとして解けず、寛(ユル)く博多帯を結ぶ。腰の細きや楚王の宮様(ゴテン
フウ)を圧(マカ)し、衣(キモノ)の著(キコナシ)や小町が立姿かと疑ふ。十目の視る所十手の指さす所、一たび顧
れば人の足を駐(トド)め、再び顧れば人の腰を閃(ヌカ)す。之を望むに儼然たり。硝子(ビイドロ)を倒懸
(サカサニツル)が如し。実に神仙中の人なり〟
〈この美人は笠守稲荷境内のお仙である〉
◯『再校江戸砂子』巻二(菊岡沾凉著・丹治庶智補 明和九年(1772)刊)〔国書DB〕
(五 浅草 浅草寺境内)
〝歌仙茶屋 又お福の茶屋 今は廿軒茶屋といふ もとおふく茶屋といひしをいつしか呉服の茶屋と誤
れり 御福といふよりと誤るにや 六七十年前までは ごふく茶まいれ/\と呼入しと也 目黒不動に
て飯櫃に白餅を入れ ごふくの餅めせと売る これも古き事なりとか 参詣の輩 此餅を買て犬にあた
ふる也 又諸国神社仏閣に此類の事あり 御福石などいふものもありて 下向に必かの石を撫でる い
づれも参詣の人 福(さひはい)をえて帰るこゝろにて ふるき祝事なりときこゆ 此地も又その類にや
とおぼゆ〟
◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
◇(安永四年(1775)記事)
〝大川中洲築立地へ家居建ならべ、町名を三股富永町と号し、川辺に葦簀囲いの茶店をかけならべ、夏月
納涼殊に昼夜に喧(かしま)し〟
◇(安永六年(1775)記事)
〝是の年、愛宕下薬師堂の水茶屋桜川おせんといふ美婦名高し。世人仙台路考といふ〟
◯『増訂武江年表』2p19(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(寛政年間・1789~1800)
〝浅草随身門前の茶店難波屋のおきた、薬研堀同高島おひさ、芝神明前同菊本のおはん、この三人美女の
聞え有りて、陰晴をいとはず、此の店に憩ふ人引きもきらず(筠庭云ふ、随身門前は見物の人こみ合ひ
て、年の市の群集に似たり、おきたが茶屋の前には水をまきたり。両国のおひさが前は左程にはなかり
き。此のおひさは米沢町ほうとる円の横町に煎餅屋今もあり、その家の婦にてありし〟
〈寛政三美人のうち、難波屋おきたと高島おひさが水茶屋の評判娘。〉
◯『南畝集 九』〔南畝〕④130(大田南畝賦・寛政五年七月賦)
〝浅草茶店の美人の図に題す【舗、浪華と号す】
大悲の高閣寺門の前 車馬粉粉たり万井の煙
中に北娘佳麗の色有り 行人茶銭を餉(オク)ることを惜しまず〟
〈浅草随身門前の茶店・難波屋おきた〈本HP「浮世絵事典」【お】「おきた・おひさ・おはん」参照〉
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
◇(江戸)茶店(巻之五「生業上」①215)
〝 江戸は茶見世はなはだ多く 天保府命前は専ら十六七より廿歳ばかりの美女、各々紅粉を粧(よそほ)
ひ美服を着しこれを行ふ。府命にこれを禁じて 俄かに眉を剃り、歯を染める者多し、婦の姿なれども
なほ紅粉を捨てず、また美服を着す。近頃ようやくに弛みて 稀には眉ある女も出るといへども いま
だ婦をもっぱらとす 後には眉ある者を専らとするに復すべし。
また毎客新たに茶を煮るもあれども、多くは漉茶(こしちゃ)と号け、小笊の内に茶を納れ沸湯を掛く
るなれども、京坂の麁茶の宿煮より遥かに勝れり。江戸茶見世の煎茶一斤、価六匁ばかりの物なり。始
め右の漉茶各々一椀を出し、須臾にまた乞はずともこれを出す。あるひは二椀目は、素湯に桜花の塩漬
を浮かめ、あるひは香煎を素湯に加へ出すもあり。乞はずといへども必ず二、三椀は出すなり。その碗、
今は専ら湯呑碗と云ふ形を用ふ(椀誤りなり。三都とも磁器の茶碗なり)
客より与ふ茶代の銭も京坂のごとくにあらず、一人客にても百文を与ふあり。あるひは二、三人にて
も四、五人にても百文あるひは二百文ばかり、また一人二十四文ばかりもあり。あるひは三、五十文与
ふる者多しとす。
茶見世女美服を着せず かねて菓子・団子等を売る麁茶店にても 十六文以下の茶代銭を与ふ者さら
にこれなし。
江戸にては茶見世とも、あるひは水茶屋とも云ふなり。屋号には『源氏』巻名のごとき物多し。掛行
燈にその名を書し、あるひは御待合所、または御休所・御休息所などと書きたるもあり。毎戸軒下に下
図のごとき棚を出す。(「江戸水茶屋茶棚図」あり)
(中略)
水茶屋軒を連ねたる所多し。左に記す。皆自宅も者稀にて出茶屋なり。京坂に云ふ掛茶屋なり
浅草寺境内 湯島天神社頭 神田明神社頭 芝神明社頭
回向院境内 亀戸社頭 両国橋西 新大橋東西
右の浅草寺以下のものは柿(こけら)屋根にて四季これあり
春は向島辺、飛鳥山。
右は平日は稀にこれあり、花の比ははなはだ多く、皆葭簀張りなり〟
〈「天保府命」とは天保の改革〉