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☆ ちゃや 茶屋(引手茶屋)浮世絵事典
   ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   ◇(吉原)茶屋(巻之二十二「娼家下」③355)   〝吉原も古は揚屋あり。中古以来絶亡し、今は茶屋あるのみ。茶屋には双枕を許さず、芸者を揚げ酒宴は    許す。女郎も茶屋まで送迎はするなり。宴の席にも侍坐するのみ。    仲の町七軒の茶屋を第一とす。酒肴(シユコウ)の価を号(ナヅ)けて送りと云ひ、妓院の送迎の料とするなり。    七軒の茶屋送り料一客金一分、その他仲の町の茶屋送り二朱づゝなり。七軒は大門内右の七戸を云ふ。    仲の町および揚屋町の茶屋すべて百一、二十戸あり。    七軒に対すを向ふ七軒と云ひ、送りを称す費二朱なり。    田町編笠茶屋百八十余戸、今は引手茶屋と云ふなり。引手は妓院に導くの意なり。    竜泉寺前茶屋三十余戸、引手茶屋なり。    山谷堀船宿および会所船宿ともに合せて八十余戸、この船宿にて引手を兼ぬるなり。     田町以下、茶屋および船宿よりも吉原妓院に導きするなり。惣じて引手と云ふなり。しかれども別に     揚代のほか、送りと号する費を取らず、妓院より一客二百文ばかりの銭を与ふことなり。当時および     駅舎、天保廃止の岡場所も皆しかり。号けてこづりと云ふ。小釣か〟    〈吉原仲の町七軒の茶屋とは、寛政三年の吉原細見には、山口巴屋・井筒屋・近江屋・升屋・海老屋・松屋・駿河屋とあ     る由(『川柳吉原風俗絵図』至文堂刊「国文学 解釈と鑑賞」所収「新吉原五丁町とその沿革」鈴木倉之助著)〉