Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ちゃみせ 茶見世(茶屋)浮世絵事典
   ◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧18(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)    (寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)   〝水茶屋も寛保頃迄は、浅草観音地内、神田明神、芝神明、あたご或は両国等に有計にて、町中には無之    事也、道路にては何程休度思ひても、右の場所迄も行届かざれば、茶見せは曾て無之事也、たま/\は    端々に有所の茶屋といへ共、床机一つ二つに、土へつつゐに古茶釜【茶わんはきん形のお室やき、年玉    茶わん】にて、渋茶の事にて有し、今(寛政期)の如く奇麗に成たる初は、芝切通しに一ぷく一銭とて、    唐銅茶釜をたぎらかし、其侭りん/\と鳴し、茶碗等より奇れいして、況や茶芽久保宇治等を用ひたる    事也、夫より諸々沢山出来たる事也、延享の末に新橋朝日といへる見世出来、又其頃にしがらき抔出来    て、此頃より下々にても上茶飲覚えて、殊外はやり、夫故おごり付て唐茶はやりしが、是は除り気づよ    き抔いふてすたりし也〟    ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之五「生業上」①214   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝茶見世(往来人の休息所なり)    江戸は茶見世はなはだ多く、天保府命前は、専ら十六、七より二十歳ばかりの美女、各々紅粉を粧(ヨソ)    ひ美服を着し、これを行ふ。府命にこれを禁じて俄かに眉を剃り、歯を染むる者多し。婦の姿となれど    もなほ紅粉を捨てず、また美服を着す。近比(チカゴロ)やうやく弛みて、稀には眉ある女も出るといへど    も、いまだ婦を専らとす。後には眉ある者を専らとするに復すべし。     (中略)    客より与ふ茶代の銭も京坂のごとくにあらず。一人客にても百文を与ふあり。あるひは二、三人にても    四、五人にても百文あるひは二百文ばかり、また一人二十四文ばかりもあり。あるひは三、五十文与ふ    る者多しとす〟  ◯『実見画録』(長谷川渓石画・文 明治四十五年序 底本『江戸東京実見画録』岩波文庫本 2014年刊)   〝此ならび茶屋は、両国橋際より浜町河岸へ添(?)へ、前は広小路に面し、何れも興行小や、後は大川筋。    此並び茶屋も興行小屋も、将軍御成の際は、都度取毀つ故、甚だ麁末(そまつ)の作りなるも、是に反し、    此茶や女は何れも別品揃(べっぴんそろい)、夏の夜は絹絵の行燈など軒先に掲げ、なか中(なか)の景気    なり。御維新後、久松町へ喜昇座を建設する際(のちの明治座)、多くは此座附の芝居茶屋となり、なり    ては知らざれども、今に其屋号を存し居るものなりと思わる〟〈幕末から明治初年にかけての見聞記〉   (以下、花咲一男のの注解)   「西両国橋詰には、早朝には青物市場がたち、各種の軽演劇、見世物小屋、飲食店がたちならび、一種の    娯楽センターであった。ここの水茶屋も、浅草寺境内の二十軒茶屋のように美人を置いて、鼻下長連の    財布を軽くさせたものである」