Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ちゃばんきょうげん 茶番狂言浮世絵事典
 ☆ 天明八年(1778)    ◯『俗耳鼓吹』〔南畝〕⑩18(惰農子(大田南畝)著)   〝俄と茶番は似て非なるもの也。俄は大坂より始る。今曽我祭に役者のする、是俄なり。ナンダ/\と問    はれて、思ひ付の事をいふ是也。茶番は江戸より起る。もと楽屋の三階にて、茶番にあたりし役者、い    ろ/\の工夫思ひ付にて器物をいだせしを、茶番/\といひしより、いつとなく今の戯となれり。独り    狂言の身ぶりありて、その思ひ付によりて景物を出すを茶番といふ也。今専ら都下に盛也【大坂板に、    古今俄選と云ものあり。にわかの事を記せり】〔欄外。南水漫遊、又摂陽落穂集ともいふものにくはし〕〟    ☆ 文化九年(1812)    ◯『街談文々集要』p256(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化九年(1812)記事「誉歌垣英賀」)     〝六月廿八日、柳橋大のし屋富八楼上おゐて、琴通舎英賀丈判者披露、狂歌堂・四方・歌垣・真顔先生狂    文を送ル、其祝詞     (琴通舎大人を市川三升の姿八景の所作に準えた狂歌堂の狂文あり。略)    琴通舎英賀翁、豊島街三丁目ヨコ丁、伊世屋伊兵衛裏ニて古着屋ぇ転ず、狂哥をたしミ、又茶番と云戯    れに名高し、度々手柄あり、中ニも西河岸料屋恵比寿庵見世開きニ、御能拝見の趣向大ニ評ばんなりし〟    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯『増訂武江年表』2p124(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (嘉永四年・1851)   〝春より浪花の幇間(ホウカン)市丸新玉などいふもの、江戸の戯作者十返舎一九が編の「道中膝栗毛」を趣向    とし、世にいふ茶番狂言の脚色(シクミ)にて、滑稽を旨とし、両国西詰にて興行す。見物多し(其の後所    々へ出る)〟   〝〔無補〕十一月十五日、鷲明神縁日、堀田原池田屋が催しにて、幇間及び女芸者召連れ、舟にて浅草の    鷲明神に詣で、夫れより向島へ渡り大七にて支度す。道中すべて柳亭種彦作「田舎源氏」をまねびて装    飾し、土手通りを大川橋の方へ練り行く。舟は橋の辺へ待たせ置きたるが、絹の幕を打ちたり。此の辺    往来繁き処なれば、見物夥しきに乗じ総踊りを演ず。此の事官に聞へ咎にて、二十三日北御番所にて手    鎖になりたる者二十六人(内女九人)なり〟    ☆ 嘉永六年(1853)     ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)後集 巻之二「雑劇補」⑤195   (喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝茶番    京坂の俄かに似て、いささか異なるなり。立茶番と云ふは、劇場用の鬘および衣裳を着し、紅粉を粧ひ、    全く劇場を学ぶなり。あるひはこれに滑稽を加ふもあり。また口上茶番と云ふは坐して種々の物を出し、    その物を種として滑稽洒落を云ふことなり。立茶番・口上茶番ともに路上には行はず。必らず席上にお    いてす。立茶番あるひは落あるもあり、あるひは落なしもあり。    右のにわか・茶番ともに小屋において銭を募り見せるもあり、座敷の興にするは自他の興なるのみ。ま    た大坂には近世俄師と号しこれを半業とする者あり。三、四年来、江戸に下りて諸所によせに出て銭を    募る者あり〟    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)    ◯『藤岡屋日記 第十二巻』p469(藤岡屋由蔵・慶応元年(1865)記)   ◇茶番狂言    〝三月十六日、晴天長閑にて花見群集致也、今日下谷広小路、伊藤松坂若ものども、出番ニ出、向島花見と    思ひつき、茶番狂言趣向致し、皆々仕度致、山下より浅草通りへ出かけ候処、途中ニて取押へられ候一件     (大津絵の題材、鬼、奴、若衆、藤娘、座頭に扮した者の名前と衣装記事あり。略)    其方共義風俗之義ニ付ては、兼々町触も有之儀相背き、隅田村辺へ花見相催し候折柄、大津絵之学と唱、    身形を替、立出候ハヾ一興ニも相成、可面白と存付、弥七は鬼、直七は奴、平八は若衆、金七は藤娘、新    蔵は座頭之形等ニ相成、銘々衣裳其外道具類相用、立出候段、酒狂とは乍申、不始末不埒ニ付、一同過料    銭五貫文ヅヽ申付候。     (中略)      お花見に当る茶番をまつ坂や世間をいとうめにぞ逢ふ津絵〟