☆ 嘉永年間(1848~1853)
◯『近世風俗史(五)』(原名『守貞漫稿』)後集 巻之二「雑劇補」⑤196
(喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝照葉狂言
嘉永の比、大坂の蕩子等四、五輩、相(アイ)議(ハカ)りて始めてこれを行ふ。その行は申楽家の間(アイ)の狂
言と云へるものを大体とし、衣服にも素袍(スオウ)・上下(カミシモ)等を用ひ、また狂言師の大筋織の服、すな
はち古の熨斗目(ノシメ)なり、これを着す。俳優のさまもこれに倣ひ、言語もこ之を擬す。しかして往々当
世の踊りおよび芝居狂言、または俄狂言に似たることをも交へ行ふ。安政に至り、江戸に至り、諸所の寄
せ席へ銭を募り、これを行ひて群集あり。
追考。「てりは」てには、俄狂言の訛略と云へり。天爾波(テニハ)と云ふこと和歌にあることなり〟
☆ 安政三年(1856)
◯『増訂武江年表』2p154(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(「安政三年(1856)」記事)
〝大坂下りの新十郎、秀三郎、光之助、仙太郎、雀三郎、弥一郎、虎十郎、新玉などいふもの、照葉(テリハ)
狂言と号し、能の間狂言により歌舞妓狂言の所作を交へ、所所に於いて興行せし。見物多かりしゆゑ、
江戸にてもこれをまねびしもの多かりけれど、いづれも拙かりし〟