◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②286(山東京山著・弘化三年(1845)序)
〝天明の初年、大坂にて家僕二三人も仕ふ商人の二男、至情の歌妓をつれて江戸へ逃げ来り、余(山東京
山)が住し同街の裏にすみ、名を利助とて、朝夕出入りしけるに、あつ時亡兄(山東京伝)にいふやう、
大坂にてつけあげと云物、江戸にては胡麻揚とて辻売りあれど、いまだ魚肉のあげ物はみえず、うまき
物なれば、これを夜みせの辻売りにせばやとおもふ、先生いかん、亡兄曰、そはよきおもひつきなり、
まづ試むべしとて、俄にてうじさせけるに、いかにも美味なれば、はやく売べし、とすゝめけるに、利
助曰、是を夜みせにうらんに、そのあんどんに魚の胡麻揚としるすは、なにとやらん物遠く、語声もあ
しゝ、先生名を付て玉はれ、と云ひければ、亡兄すこし考へ、天麩羅を書てみせければ、利助ふしんの
顔にて、てんぷらとはいかなるいはれにや、といふ、亡兄うちゑみつゝ、足下(ソコ)は今天竺浪人なり、
ぶらりと江戸へ来りて売りはじむる物ゆえゑ、てんふらなり、てんは天竺にてん、即揚る也、ふらに麩
羅の二字を用ひたるは、小麦の粉のうすもの〔傍注、羅〕をかくるといふ義なり、とたはむれいひけれ
ば、利助も洒落たる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ、てんぷらはおもしろしとて、よろこび、みせを
いだす時、あんどんを持来りて字を乞ひけるゆゑ、亡兄余に字をかゝしめ玉へり、こはおのれ十二三の
頃にて、今よりむかしのなり〟
〈山東京山は明和六年(1769)生、十二三歳の頃とは安永九年~天明元年(1780~81)にあたる〉