☆ 天保十二~三年(1842~43)
◯『著作堂雑記』(曲亭馬琴著・天保十三年(1842)記事)(『【江戸時代】落書類聚』中巻より p117)
〝一、天保十二年春の頃より女髪結を禁ぜらる。十三年に至りて、尚やまざれバ、御厳禁甚敷、女髪結も結
する者も、或は召捕られ手鎖を掛られ、町中路次に女髪ゆひ入べからずといふ張札を出す。此女髪結ハ、
文化年間より始りて次第に甚しく行れしかバ、賎しき裏屋の女房・娘、或は人の下女迄も女髪結に髪ゆ
はせざるハなし。今ハ自身に髪を結得ざるもの多かり。始ハ結者より油を出して百文ヅゝなりしに、女
髪結多くなるによりて、或ハ五拾文、三拾弐文、弐拾四文にても結といふ。是等の御停止ハ、乍恐尤御
善政にて難有御事也。
一、同年の春より、よせと唱へて女子の浄瑠璃を以て人よせして、渡世に做者被禁。去年より此儀停止の
御触ありしに、今茲に至りて各日を替て尚興行なす者ありしかバ、よせの主人其女子共ハ被召捕て、御
吟昧中手鎖をかけられ、久しくして御免なり。よせの家ハ皆破却せらる。
一、江戸中の軍書読、其家を拾五ヶ所に定められ、皆年久しく渡世したる者どものみ許されて、其余は停
廃せらる。
一、江戸中岡場所と唱ふる隠し売女、皆停廃せらる。当寅八月迄に新吉原町へ引移りて渡世致候共、商買
がへ致候共致すべく被仰渡、此故に吉原へ引移る者、引移り得ざるものと皆其地とを引払ふといふ。深
川・本所・根津・音羽町・赤坂・三田の三角切見世と唱ふる者迄、其地にて渡世致事ゆるされず。此故
に品川・新宿・板僑・千住の飯盛繁昌すといふ。
一、両替屋書林草紙問屋其外之諸商人、仲間を立、行事を置る事を禁ぜらる。此外湯屋株・髪結株・都而
株と唱るもの、上ケ銭を取事を停廃せらる。此故に人々勝手次第に渇屋なり髪結床を出す者少なからず。
是迄髪結銭三十二文なりしに、上ケ銭ならずなりしかバ、弐拾文に引下ケたり。新たに出し候髪結床ハ、
拾六文にて結といふ。湯銭も是迄ハ八文なりしに、小児迄も各六文迄定められ、いともかしこき御趣意
によりて、都て物の価を引下ケて下直にすべしと御下知あり。此故或は五分、或は三分と直段を引下ケ
て売ぬハなし。
一、江戸中家主、其店々より節句銭取べからず、店貸候時樽代取べからずといふ厳禁なり。并ニ江戸中地
代・店貸引下ケ候様と地主・名主へ被仰渡、其町々地主・名主・家主等取調。寛政御改正の頃と引くら
べ、地代・店貸を二割、或ハ二割余も引下ケ候て、町奉行所へ書上候に付、名主・家主等打寄勘定致し、
今茲寅八月に至りて各其帳面出来、奉行所へ上ると云。是等の事今の人の知る所なれ共、後生の為、且
遺忘に備へん為に略記する者なり。
一、鮓を高直に売候者、壱ツ四拾八文より拾六文まで有之、右内々御糺しの上、其者共を町奉行所へ被召
出、御吟昧の上商売を止められ、久しくして後に御免ありしと。夫よりして鮓一ッ八文より高直の品不
可売と定めらる。
一、野菜もの、其時に先達而高直に売候事を禁ぜらる。此故に瓜・茄子ハ、今茲に壬寅五月に至りて売事
を許されたり。例の初物と違ひ黄瓜ハ一ツ六文、八文。茄子ハ十ヲニ付五、六拾文也。又江戸近辺の荘
客、孟宗竹を多く植て、多く笋を出す事を禁ぜられ、五月に至りて荘客地の孟宗竹を切捨て、其跡を田
畑にすべしと御下知ありと風聞す。
一、江戸中銀の髪ざし銀の金具を禁ぜらる。其家主より、店々の銀の釵銀金具を取集めて銀座へ出せば、
其代料を銀座より渡され、今年壬寅春此事あり。秋に至りて、又御下知有て、当春集残りしたる銀の髪
ざし金物を、家主等又店々より取集て銀座へ出す事、当春の如し。此故に、当夏の頃より象牙櫛・髪ざ
し・角竹の髪ざし、所々より売出して大に行ハる。
一、玳瑁の櫛笄、高料の呉服物を売候小間物問屋を、御穿盤有之。通油町炭屋、其外小間物問屋三、四軒、
其品々を召上ゲられ、御吟昧の上、代金五両より下の品ハ其商人に返し被下、五両より高金の品々皆打
砕て焼捨られ、此件壬寅夏四月落着すといふ。
一、照降町のぜいたく屋、其外にも高料異風の衣服・小間物、高直の裏付草履・下駄・足駄等売候物ハ、
皆町奉行所へ被召出、御吟味の上、高直の品ハ御差留にて焼捨られ、当人共ハ御咎を蒙る。其中に賛沢
屋の主人ハ、始め偽りを申たる罪によりて入牢す。牢にある事十五日にして、死すと云。詳なる事を知
らず。是よりして、女子の裏付草履に天鵞絨の鼻緒を禁ぜらる。此外小児もて遊び品、代銀壱匁限り、
銭売は、百文より高直の品不可売。仕入候分も、当寅八月迄に売尽すべしと御下知有之。鼻紙袋ハ代銀
弐拾目限り、喜世留ハ五百文より高直の品売べからずと、其問屋共へ御下知あるといふ。是等の事、皆
伝聞の侭に記す。おしなべてたがへるもあるべし。
一、去年丑十二月、可然商人共を北町奉行所へ被召出、遠山殿自身、御趣意の御旨を説示して、高直の品
ハ不可売と教諭ありしに、今茲に寅の春に至りて、右の商人等しのび/\に玳瑁の櫛・弄、其外高料の
物を売しかバ、畢に前条の如くに行ハれ、当人共ハ所払に成されて、家財ハ妻子に被下しといふ。そが
中に通油町の炭屋ハ、玳瑁の櫛・弄など三長持あり。其内一ト長持ハ価金五両以下の物なれバ返し被下。
残る二長持ハ、皆高金の長持なれバ、前条の如く焼捨られしといへり。
一、天保十三年の春より、江戸中水茶屋・楊弓場に若き女を出し置事を禁ぜらる。又地獄と唱ふる隠し売
女等、又かこひ者といふ者、男二三人あるハ、是又隠し売支に准ぜられて、地獄と共に吉原町へ被遣て
遊女とせらる。同年八月上旬、其類の女子、又客と共に八十四人被召捕しと云風聞あり。
一、右同年同じ頃、然るべく両替屋共仲ヶ間といふ事ハなきに、十三四人集会したれバ、其旨早く町奉行
所へ聞へて当座に皆被捕。且去年より大阪ハ銭相場高直なる故に、彼地に銭を積贈る事も閏へて、右の
御咎を蒙りしと風聞す。皆是、伝聞の侭しるす。詳かなる事を知らず。
一、右同年同頃、江戸の商人等軽重各差別あれ共、罪を得ぬ者不少。皆刑欲の為に法を犯し、度を破るの
故なり。夫小人の徳に服せず、只おどさゞれバ懲りず、誠なるかな、鳴乎。
一、御趣意にて、諸役人中節検を旨とせらる。当寅の夏より、御老中・若年寄を始めにて、登城毎に麻の
帷子・葛袴を着用あり。町奉行所遠山殿、組与力・同心に美服を禁ぜられ、絹紬(ママ)・太織木綿・麻袴
と葛織・麻等を着用すべしと命ぜらる。同心は皆麻の羽織なり。縮緬・絽を用ゆる事を許されず。
一、当寅の春町同心、町人の妻娘美服を着て往来する者を捕ふ。是によりて岡引と唱ふる者、其女の衣裳
を剥取事所々にて有之。是ハ町奉行の下如に非ず、岡引の私の計ひ也。後に聞へて、町奉行より禁ぜら
る。且町触ありて、其者を触知らせたり。歌舞妓役者等、舞台の衣裳縮緬・太織木綿の外、高料の衣服
を禁ぜらる。又湯嶋・市ヶ谷・芝神明の宮芝居をバ禁ぜらる。壬寅の五六月より停廃にて、皆其地を引
払ふたり。又田舎芝居を禁ぜらる。甲州・奥州・常陸・下総等の領主へ御下知ありて、江戸歌舞妓役者
田舎に至りて渡世を致す事を許されず、又江戸の歌舞妓役者等、京大阪に至りて渡世をいたし、京大阪
の歌舞伎役者江戸へ来リて渡世致する事を停止せらる。是は其地の風俗を乱るゆへとぞ。是等ハ当時の
風聞囂しく、世の人知る所なり。
一、今茲壬寅の夏、江戸中町人ハ、多く麻の小紋の羽織を着用す。女子ハ、縮緬前かけ、同半てんはやみ
たり。武士ハ、麻のぶつさき羽繊・小倉の馬乗袴にて往来するもの多かり。大名の家臣、然るべき人他
行の折、主僕同服にて、木綿衣ならぬは稀なり。制止厳重なる故なり〟
◯『吾仏乃記』滝沢解(曲亭馬琴)記 天保十二年記事(八木書店・昭和62年刊)
(家説第四)p474
〝辛丑の十一、二月の比、春画の「よつ」と唱て奉書紙を四つ切にしたると春画本とを、画冊子掛りの名主
等あなぐり(穿鑿)得て、町奉行にへ訟まうししかば、其の摺本は焼棄られ、板は絶版せられて、板元丁字
屋平兵衛等六、七人は過料にて、裁許落着しけり〟
〈「辛丑」は天保12年。「よつ」は春画、下掲天保十五年の『藤岡屋日記』第二巻参照。春画本は好色本。丁子屋平兵衛は中
本(人情本)に関連して過料(罰金刑)に処せられた〉
押収書目 「天保十二年十二月 中本(人情本)・好色本(春本)押収リスト」
☆ 天保十三年(1842)
◯『馬琴日記』第四巻 p317(天保十三年二月九日付)
〝丁子屋等、中本十色絵本板元、此節御吟味中、組合家主預けに相成候由、申来り候間、心許なく存候て、
右使いの者に尋候処、中本作者越前屋長次郎事、為永春水は、四五日以前、手鎖掛られ、家主預けになり、
金水等は未だ御沙汰無之〟
◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪150(蜂屋椎園記)
〝高価なる華美の物売鬻ぎしにより、天保十三年寅二月、叱責せられし商人
きせる 【上野黒門町仲丁】住吉や徳兵衛
袋物 【南伝馬丁壱丁目】 又兵衛
袋物 【浅草】 伊勢や儀兵衛
小間物 【塩丁】 明石や
雛 【田所丁】 越後や嘉七
下駄 【浅草平右衛門丁】みどりや弥七
かな物 【浅草寺境内】 恵美須や徳兵衛
袋物 【浅草並木町】 山口や兵吉
きせる 【日本橋四日市】 きの国や長右衛門
呉服物 【堀江町】 伊せや清蔵
扇 【御蔵前諏訪丁】 和泉や徳兵衛
袋物 【南伝馬丁】 松坂や又右衛門
袋物 【通丁弐丁目】 丸や利助
呉服物 【横山丁】 上総や藤兵衛
下駄 【尾張丁】 播磨や弥三郎
鼈甲 【品川裏河岸】 助九郎
せつた 【新材木丁】 源助
きせる 【浅草黒舟丁】 村田や徳右衛門
鼈甲 【深川永代寺門前】あづまや金之助
半ゑり 【柴井丁】 三河や長次郎
袋物 【御蔵前片町】 越前や九郎右衛門
きせる 【てり降丁】 村田や
袋物 【青物丁】 (◯に「上」)いせや
下駄かさ【木挽丁】 ゑびすや安兵衛
鼈甲 【通油丁】 すみや彦兵衛
小間物 【坂本丁】 丸一や源兵衛
此外にも尚あるべし。
同じ頃囚れし隠し売色の女
(町名・店名・実名・芸名・年齢の記事あり。省略)
右九人、十一月廿七日夜、町奉行遠山左衛門尉へ被召捕
〈この十一月は天保十二年か〉
(同上)
右五人、十一月廿八日夜、踏込召捕
(同上)
右五月廿八日朝、踏込被召捕
〈この五月は天保十三年。逮捕された26人の名あり〉
◯「触書」六月四日付〔『江戸町触集成』第十四巻 p128(触書番号13643)〕
〝錦絵と唱、歌舞伎役者遊女女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入
置候分共決て売買致間鋪、其外近来合巻と唱候絵双紙之類、絵柄等格別入組、重モニ役者之似顔狂言之趣
向等ニ書綴、其上表紙上包等え彩色を相用ひ、無益之儀ニ手数を懸ケ、高直ニ売出候段如何之儀ニ付、是
迄仕入置候分共決て売買致間敷候、向後似顔又は狂言之趣向等は相止、忠孝貞節等を元立ニ致、児女勧善
之ためニ相成候様所綴、絵柄も際立候程ニ省略いたし、無用之手数不相掛様急度相改、尤表紙上包等ニ彩
色相用ひ候義は堅く可致無用候、尤新板出来之節は町年寄館市右衛門方え差出、改請可申候
右之通被仰渡奉畏候、仍如件
天保十三寅年六月四日
絵草紙懸り 品川町 名主 庄右衛門 〈竹口庄右衛門〉
堺町 同 五郎兵衛 〈大塚五郎兵衛〉
鈴木町 同 源七外御用ニ付 代 権四郎 〈和田源七〉
南伝馬町 同 新右衛門煩ニ付 代 新七郎 〈高野新右衛門〉
高砂町 同 庄右衛門 〈渡辺庄右衛門〉
小網町 同 伊兵衛 〈普勝伊兵衛〉
新両替町 同 佐兵衛外御用ニ付 代 福次郎〟〈村田佐兵衛〉
〈歌舞伎役者・遊女・女芸者等の錦絵は風俗に拘わるので、新規の出版はもちろん既刊のものも今後は一切売買禁止。
団扇絵も同断。合巻については、芝居の趣向取りや登場人物の役者似顔は禁止。ひたすら忠孝貞節・児女勧善の主旨に
徹すること。また表題・上包の色摺も禁止。そして新板は町年寄・館市右衛門に提出して改(アラタメ)(検閲)を受けるよ
うにという内容である。これを絵草紙懸り名主たちに通達したのが当時北町奉行・遠山左衞門尉で、上記文書は名主た
ち連名の請書(承諾書)である。以降、これが改懸りの名主たちの検閲指針となっていく〉
◯『馬琴日記』第四巻 p318(天保十三年六月十日付)
〝昨日、錦絵類・合巻并に読本類新板の事、御改正御書付出候由(中略)錦絵・団扇類・役者似顔・遊女芸
者の絵は不相成、表紙・袋、色摺不相成、続物二編の外、不相成。読本手のこみ候物不相成。作者・板木
師等、実名相識し、町年寄館市右衛門へ差出し、出版の節、壱部奉行処へ差出し候様、地本問屋・団扇屋
へ被仰渡候〟
〈上掲六月四日付「触書」参照〉
◯『馬琴日記』第四巻 p318(天保十三年六月十五日付)
〝丁子屋中本一件、去る十二日落着致、板元七人・画工国芳・板木師三人は、過料五貫文づゝ、作者春水は、
咎手鎖五十日、板本はけづり取り、或はうちわり、製本は破却の上、焼捨になり候由也〟
◯「触書」十一月三十日〔『江戸町触集成』第十四巻p257(触書番号13807)〕
〝天保十三寅年十一月晦日
組々世話掛 名主共
当六月壱枚摺絵其外合巻絵双紙之類取締方、絵草紙掛名主共え被仰渡候処、右商売人之内心得違之ものも
有之哉、懸り名主共不改請売出、其外彩色手ヲ込高直之品有之段相聞、以之外之義ニ付、已後彩色并直段
等左之通被仰付候
一 壱枚絵之義ハ已来彩色七八編摺を限、売直段壱枚拾六文已上之品可為無用
一 右壱枚絵三枚続より余慶ニ継合売出候儀、難相成候
右之趣相心得、此外都て当六月中被仰渡通堅相守、絵双紙屋共新板絵類は勿論、合巻絵双紙之類都て草稿
ニて、懸り名主月番之者え申出改印を請、出板之刻突合差出売買可致旨、名主支配々不洩様申付、月行事
持場所は最寄名主より心付、勿論以後新規右渡世相始候者えも、其節々前条之趣申含、心得違無之様可申
付候
附、団扇屋共仕入候絵柄之儀も同断、下絵を以右絵双紙懸り名主共え差出、可改請旨可申付候
右之通北御奉行所御差図を以申渡之、此上心得違之者有之候ハヽ急度可仰付候条、其筋商売人共え不洩様
具ニ可申含候
寅十一月 絵双紙掛 名主
〈六月の通達にも拘わらず、懸り名主の改(アラタメ)(検閲)を受けず、しかも手の込んだ色摺にして高値で出版する心得違
いがいるので、具体的に規制しようというのである。摺り数は七八遍まで、小売値は一枚十六文以上無用。寛政七年に
も似たような通達があったが、摺り数に言及はなかったし、小売値も十六文十八文以上無用と二文ほど緩やかであった。
参考までに天保十三年当時、一枚絵はどれくらの値段であったかというと「当時絵柄ニ寄彩色拾篇余摺立、直段之義も
壱枚ニ付貳拾四文位売捌候由」(『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」)すなわち摺り十遍余り
の一枚絵が二十四文くらいであった。それを八文下げて十六文にせよというのである。今回の規制はそればかりでない。
さらに一枚絵は三枚続までという制限が加わった。規制は団扇絵にも同様に及んだ〉
◯ 十二月〔『江戸町触集成』第十四巻p258(触書番号13807)〕
〝天保十三寅年十二月
町々絵双紙屋共見世え並べ釣置候心得方
左之通
一 賭事勝劣を争ひ候絵本堅無用之事
一 壱枚絵団扇絵共、拾六文以上は無用之事
一 絵本一枚摺共、標題上袋は巻摺ニ限り、彩色は堅無用之事
一 絵入読本同小冊書物類両面摺、都て下絵草を以拙者共月番方え伺之上、差図を請可申事
一 三枚已上は堅無用之事
但、南海道絵図 十哲
七賢人 八景
十二景 角力絵共
六部選
向後三枚宛差出、壱枚毎ニ、一二三、上中下、天地人、雪月花と譬は十枚続之内三枚宛三度ニ差出、
全残壱枚ハ壱枚絵と彫付、四枚已上御差止之儀明白ニ相分り候様、且又摺も七八偏ニ相直候ハヽ、売
買拙者共月番方え伺出可申事
一 子供踊子尽し是又三枚宛ニ限、四枚已上は前書ニ準シ、上中下、天地人と彫付、二タ分ニ売出可申事
一 都て女絵大人中人堅無用、幼女ニ限り可申事
一 見世ニ釣置候儀、上中下三段共四枚已上堅無用之事
前書之通御組合御同役御支配限、書物屋絵双紙屋共え御申渡有之候様、月行事持場所共不洩様御通達可被
成候
寅十二月 書物絵双紙改掛り〟
〈絵双紙屋への通達である。賭け事や優劣を争う絵本は販売禁止。一枚絵・団扇絵とも十六文まで。表題や上袋の彩色禁
止。出版物はすべて草稿を書物絵双紙改(アラタメ)掛りに提出し、その差図を受けること。続きものは三枚まで、それ以上
は禁止。但し十哲や七賢人などは格別、しかしたとえ十枚続であっても、三枚ずつ三度に分けて提出し、残りの一枚は
一枚絵と彫り付け、四枚以上は禁止ということが明確に分かるようにすること。子供踊子尽も三枚まで。四枚以上は続
き物と同じ。また女絵については大人・中人(娘か)は禁止、幼女のみ認める。見世先の吊るし方まで上下三段四枚ま
でと規制が及んだ。一勇斎国芳に「蚕家織子之図」十〉
◯『浮世の有様』(著者未詳・天保十三年(1842)記)
◇「或人の方へ江戸より来れる書状の写」p629(書状の日付は六月十九日)
〝江戸顔似せ錦絵・遊女の絵団扇共停止に相成申候。仕込候役者絵に団扇類捨り相成申候。当時武者絵・角
力絵斗御座候。絵草紙も昔の通黄土の表紙彩色なしに相成申候〟
◇十一月記事 p667
〝板行屋にて一枚四文の役者絵を売りて、御咎の上鳥目十〆文の過料を納めし者、同二文の役者絵一枚商ひ
て、同様の事なりし。両人共高麗橋筋の者共也。堀江にも同様の事有。其余尚多かるへし〟
〈これは大坂の出来事。江戸では同十一月の町触で一枚十六文以上の錦絵を禁じたのであるが、この一枚四文の役者絵と
はどのような板画なのであろうか。一枚売っただけで罰金十貫文。この年の八月に定められた銭相場1両=6500文で計
算すると約金一両二歩である〉
◯『寐ぬ夜のすさび』〔新燕石〕⑦368(片山賢記・文政末~弘化年間見聞記)
(「天保の御改革」)
〝天保の御改革ほどめざましきはなし、むかし、享保、寛政政の御改革を、いみじき事にきゝわたりしかど、
此度のごとくにはあらじとぞ思ふ、かの丑の春、雲がくれありしより(注)、やがて世の中眉に火のつけ
るがごとく、俄に事あらたまりて、士農工商おしからめて、おのゝくばかりなり、わきて世の中いひもて
さわぐは、去年の春夏のころ、堺町、ふきや町前芝居焼失せしかば、いまだ普請もせずしてありけるに、
十二月になりて転地被仰付、浅草聖天町の小出信濃守の下屋敷上ゲ地になり、その跡へ引移るべきに定め
られて、寅正月より二月に至り、かの屋敷取払にになりて、二月下旬、両芝居を建べき地所に被下、地割
をせしとぞ、下屋敷の跡なれぱ、凸凹なりけるを、山をくづし、池を埋めなど、人夫おびたゝしく出て賑
ひければ、遠近の見物群集せし事なりとぞ、かくて普請成就して、すべて芝居にあづかるものは、皆此一
廓の中に住居する事にて、町名を猿若町と号して、一丁目、二了目など唱るとぞ、皆人ゆすりていひもて
さわげり、【癸卯の年になりて、木挽町の芝居も取払になりて、猿若町へ引移り、山芝居全く集れり】此
頃芝居役者は、皆編笠を着て他行する事に定りける、此役者は、己後は素人突合をする事を禁ぜられて、
きら/\と際立たる事なり、錦絵に役者の肖像、ことの外に行はれしに、是も禁ぜられたり、但にしき画
は、役者の肖像のみにあらず、美人画も何もすべてたはゝしき事をかく事は、みな禁ぜられぬ、又、丑の
冬より寅の春に至るまでに、神仏の堂社所替なりたるも多く、見附々々の外のよしづ張の茶屋、蔵前など
の日店の類、みな取払になれり、武士の抱屋しき拝領地面など、三ヶ所已上持るものは、二ヶ所をのこし
おきて、共余はみな上地になり、下々の拝領やしきなきものへは、大かた一ヶ所宛下されたり、かゝるほ
どに、おのが拝領やしきをさし置て、人の地に借地するものは、其おのが地へ引うつるべく、又ゆゑなく
貸べからざるよしにとて、引うつりしなり、百姓地を、武士、町人の借地は、ならぬ事になれり、けふは
是もみな立のけり、商人の商物直段下げになりて、商家の軒々に引下げの直段付を張出せし事なり、是は
寅の二月頃なり、髪結銭などは、むかしは二十四文なりけるなしなるを、おのが物心つきてしれるは、二
十八文になりての事なり、かく定まりてありしを、一昨子十一月より、油高直のよしにて、三十二文にな
りしを、ことしは此一件にて、二十文になれり、女髪結といふもの、近年ことの外におこなはれて、みな
髪結にゆはせしを、此女髪結といふもの、はたと禁ぜられて、跡なくなりぬ、江戸中の町々人寄をして、
唄浄るり、落咄し、影絵、講釈抔をして渡世せしもの禁ぜられて、それも、心学、軍書講釈と落ばなしの
み興行、すべて音曲はならぬ事になれり、十組問屋といふもの廃せられて、すべて問屋と唱ることはなら
ぬ事になり、何商売にても、勝手次第にすべき事になれり、(中略)
江戸中の娼家皆とりはらひに成て、吉原の内へ引移れり、深川はもとより高名の地にて、音羽、根津,赤
坂なども、みな次々に名ある所なるを、地を払て取はらひになれり、只、品川、新宿、千住、板ばし等は、
駅々の出口なれば、もとのまゝなり、されど、飯盛女の人数は、悉く減ぜしとぞ、遊冶郎是がために困じ
て、遠きを厭はず、此四駅甚賑ふといへり、江戸芸者といふものもいづちいにけん、皆あとなく成けると
ぞ〟
☆ 天保十四年(1843)
◯『馬琴日記』第四巻 p321(天保十四年七月廿日付)
〝神明前和泉屋市兵衛并に蔦屋吉蔵、御触書御免無之内、最初摺込候二千部、内々にて上方へ遣し売せ候事、
露顕致、一昨日、御吟味中手鎖に相成候間、店の戸を引、慎罷在候由、告之。右同書中本の板元、池の端
岡村庄兵衛義摺入候分、内々にて売出し候処、是は江戸にて売候間、本早速取戻し、奉行所へ差出し候つ
もりのよし也。右板本は、両様とも御取上に可成、泉市・蔦吉は、上方へ早速申遣し、取戻候様、被仰付
と云〟
◯『藤岡屋日記』第二巻 ②413(藤岡屋由蔵・天保十五年正月十日記)
〝(一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」・歌川貞秀画(仮題)「四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図」
の出版後)
其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘
蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。
板元松平阿波守家中 板摺内職にて、
高橋喜三郎
右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、
呉服町 直吉
右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、
絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟
今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落
着也。
絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内
にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
☆ 弘化二年(1845)
◯『馬琴日記』第四巻 p327(弘化二年二月廿五日付)
〝一昨二十三日、水野越前守殿、願の通り御役御免、鳥居甲斐守町奉行勤役中罪あり。御吟味中、相良遠江
守伝へ御預けに相成候よし。御沙汰書に見えたりと云〟
☆ 明治以降(1868~)
◯「錦絵と俳優名」石井研堂著(『錦絵』1号 綜芸書院 大正六(1917)年四月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(天保期・水野忠邦の治世より、役者絵・遊女絵・女芸者絵の出版が禁止されたこと)
これ錦絵界には大打撃であつたらうと思はれる。俳優似顔を主的としたもので、其似顔の持主を明記
すること出来ないとあつては宛も名所の景色画に其地名を現はさゞると一般、何となく不具の画たるを
免れない。
併し絶対に俳優の名を記してならないと有つては、錦絵の死の宣告である 是に於て錦絵の製作者は
自衛上左の二種の手段を執つて法網外に俳優名を記してあつた。
第一 此の法は俳優の紋所を、其の簪、其着衣、其地紋等に用ひて、其誰たるを暗示するものにして、
世人の熟知する所である。
第二 予の特に述べんとするは此法で 俳優名を印刷したる小箋を錦絵と同時に売り、需要者をして
錦絵面に糊付さするのである 今日卑猥の古書を翻刻する者が 官の咎めを蒙りさうな部分を総て◯◯
◯として欠字しおき、別に其欠字の本文と頁数を印刷したる小箋を製し、本書に添付して出版の目的を
達して居る様に聞て居るが これ六七十年前の錦絵出版者の故智に倣へるものであらう。
〈その具体例として、石井研堂は次の二種を示す〉
(イ)嘉永五年、住政井筒屋等の版、豊国筆「東海道五十三次」大首俳優似顔絵百三十八枚続のもの、
各葉皆此小箋が糊付されてある(以下略)
(ロ)同じく豊国筆 山久版(嘉永間の発行と思はれる)お三茂兵衛の狂言画に、坂東しうか、市川団
十郎の二枚糊付されてある
「古人尾上菊五郎」東海道五十三次の内 白須賀猫塚に張紙されてある俳優名箋
「市川団十郎」 お三茂兵衛の狂言画に張紙されてある俳優名箋
法律には楯つくこと出来ず、不利を忍んで記名を避けて居つた発行者は、海内騒擾幕府の綱紀漸く弛
むに乗じ いつとは無しに法を無(なみ)するやうになつて来た 豊国筆万延元年申年四月錦昇堂版の、
三筋の綱五郎の河原崎権十郎の大首絵は 優名を題とせるのみならず一枚絵である 此頃より追々法令
を無視したるものらしく其翌々年文久二年版の近世水滸伝等などより後は 公々然と摺出し、以て今日
に至れつて居る。
之を要するに 徳川幕府の為政者が風教上の取り締まりとして発布した俳優似顔錦絵に記名を禁ずる
法令は約二十年間実行されたやうだが 真実は二種の方法の下に 法を破られてあつたのだ〟