Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ てんぐこうへい 天狗孔平浮世絵事典
 ☆ 天明八年(1788)    ◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑧227(水野為長著・天明八年(1788)十月記)   〝松出羽侯の物頭荻野喜内異物学者ニて、甚の吝嗇の人のよし。常に合羽の様成ル物を着て歩行候由。人    の方へ参候へバ丸薬を丸めながら咄いたし候人のよし。自分の名を孔平(クヒラ)信敏(シンヒン)と申候て、孔    子の子孫と高慢仕、臍寿館又ハどこへ出候ても孔子の子孫と申候て高慢仕候由。しかし仮名ニて書申候    文章などハ巧者のよし。江戸中の神社へ参詣いたし、高き処に孔平信敏と申候自を白字に摺申候て張置    申候由。甚の吝嗇人ニて候間、神へ参詣いたし候ても賽銭を上候事無之候。杖の先へ糸を付其糸へ銭を    一文付申候て、杖の儘向へ投出し直ニ其杖を引申候由。自分ニ申候ハ、神へ銭を上ても役にたゝず、神    主や坊主のとふふこんにやくの為の成計故あげぬがよいが、それでは礼儀が立たぬからと申候て、杖の    先へ銭を付、直に手前へ引取申候よし。甚の異物のよし〟       〝北山と与力の久保田十郎右衛門と右の孔平信敏と知己のよし。去ながら三人が三人ながら、互にアレハ    おれが弟子だと人のまへにて申候よし。別て孔平ハ誰をミてもおれが弟子だと申候よし。彦助をも自分    の弟子だと申候よし〟    〈北山は儒者山本北山、彦助は松平定信によって登用された朱子学者柴野栗山。「寛政異学の禁」の推進者で「寛政の     三博士」の一人〉    ☆ 文化四年(1807)    ◯『街談文々集要』p79(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化四年(1807)「孔平鎮樹魂」)   〝文化四丁卯春、葺屋町市村座普請出来にて、二月五日初る【去る十一月十三日夜ふきや町河岸より出火】    狂言ハ去歳の顔見世狂言を其儘に興行す。然る処、此度大梁に用し棟の木ハ、麻布笄ばし、長谷寺山内    の樹にて、道法も近く、すぐれて早く出来しけり、此木、夜な/\叫(ウメ)きければ、芝居夜番のもの恐    れて、さま/\加持などしけるに、其しるしも見得ず、爰に天愚孔平と云老人ぇ瀬川路暁【三代目瀬川    菊之丞門弟、初め板東千代之助、其後中村十蔵門弟となり、中村千之助と改名、後仙女養子トなり、四    代目路孝也】にしか/\の事ありと物語りければ、孔平筆をとりて、四言一章の詩を賦シ、是を棟木に    張り置べしと、渡されし故、早速大梁へはらせけるに、其事追々うすらぎ、無程止(ヤミ)しと云々、其詩、      隠々啼哭 無益招魂 殷云佐戯 尚享蘋繁       右鳩谷天愚孔平平信敏    此人は雲州の家士の隠居にて、鳩谷三人ト云々、石摺の札を江戸中は勿論、近在所々の神社仏閣(ママ)張    る、是を千社参りト号す、二十余年休することなし、是一畸人といふべし〟  ◯『近世花押譜』(三村竹清著「集古」所収 大正9年~昭和18年)   (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(1)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇天狗孔平   〝世に納礼の元祖と云 雲州家三百石 御先手預にて 其赤阪の藩邸 今の伝馬町辺に住す 姓は孔平     萩野喜内信敏求之 号は鳩谷 天狗公 草鞋大王 万垢君 孔山 この花押は書簡より採りたるにて    鳩孔山の合字也 文化十四年四月朔没 巣鴨泰宗寺の碑に百一歳とあれど 曲亭に語りし自語に従へば    百九歳也〟