Top 浮世絵文献資料館 浮世絵師総覧
☆ たろういなり 太郎稲荷 浮世絵事典
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥161(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
〝寛政八九年の頃、浅草新堀端立花出雲守殿下屋敷内に、太郎稲荷迚(トテ)諸願成就せしとの事、誰申触ら
せしや、両三年の間大造に参詣群集せし、後には留守居之切手無之ては、屋敷内へ入ざるやうになりけ
る、尤其頃は出雲守殿は若年寄御勤役中なり、何故か御役上り、本所端すへの方へ居屋敷下され、夫よ
りしていつとなく参詣止けり〟
◯『増訂武江年表』2p25(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(享和三年・1803)
〝今年二月中旬より、浅草田圃立花侯御下藩、鎮守太郎稲荷社利生あらたなるよしにて、江戸并びに近在
の老若参詣群集する事夥しく(余り群集しける故、後には朔日、十五日、二十八日午の日開門也)翌文
化元年に至り弥(イヨイヨ)繁昌し、奉納山の如く、道路には酒肆茶店を列ねて賑はひしが、一、二年にして
自然に止みたり(其の時の草紙、一枚絵、小唄の本あまたありし。文化元年抱一上人画会の時「絵をか
くか願ひかくるか此のくんじゆ太郎さまへか屠龍さまへか」)〟
◯『享和雑記』〔未刊随筆〕②67(柳川亭著・享和三年序)
〝浅草新堀の行当りに立花左近将監の下屋敷あり、此稲荷前々より利生ありと沙汰しけるが、別て病災は
其応験すみやか也と申より、此度麻疹流行ニ付、願を掛るに遁るゝ者多く、はしか病者もも至て軽く、
一人も難治の症なしと聞伝て、是より参詣日増に多く、後には人に人重り合て、跡へも先へも行難く、
押倒され踏殺され死人怪我人多かりし故、無縁の者は制禁して入る事なし、所縁ある者のみ切手を与へ
て出入る事を許しぬ、然れども参詣は弥増して無縁の者共日々に来り門前より遙拝してむなしく帰る者
共あまりに歎き悲むにより、せめては其輩の為にとて五節句三日と毎月午の日ばかりは切手の沙汰ニ不
及、門の出入を許せり、されば其日毎にいまだ暁より門前に詰懸て門明を待、参詣夥しなんどいふ計な
し、往来は狭し人は多し、左右の下水へ押落され、泥に染る者幾十百人といふ数を不知、余りの群集故、
四五丁四方に商人出る事なし、これは参詣の人込合て買物すべきいとまなければ也、浅草下谷の町家は
大半水茶屋となれり、茶計り商ふ者も三貫五貫文も茶代を得たり、夫故此辺都て明店といふはなし、何
商ても其売事、日比に十倍せりとぞ、稲荷の参詣は益多く成て、門の内より稲荷の社迄諸人の納たる幟
にて垣をなし、道には石を敷詰、井戸椽は石にて出来、石の鳥居も何方よりか納めたり、日々切手を以
て参詣する者も大体の開帳よりは参り多し、凡江戸中縁日に参詣の多きは浅草観音、上野大師ほど群集
する所はなし、京大坂など参り多しといへ共、都て江戸の繁昌に及ぶべき事にあらず、其外の国々の事
に於は、たとひ其地を払て皆出たり共、その人数推量るべし、その大師観音の縁日よりも太郎稲荷の午
ノ日毎の参詣夥し、凡物事は見ては聞しに及ばぬ者也、此稲荷の参詣ばかりは言語にも筆紙にも尽しが
たき様子は人々まのあたり見たる所也、されど往昔より時花神には、その限りありて半年一年にして寂
(サビ)るゝ者也、此稲荷はいかゞあらん知るべからず、今の有様を記し置て後の人に知らす也、敷石、
石の鳥居、石の井戸椽は末々といふ共、残り居て皆人見る事成べし、此時の事也、奥御右筆所詰屋代太
郎は神田明神下に住居せり、支配勘定太田直次郎所用ありて参居たる所へ、田舎者と見へて六七人連立
来り、稲荷へ参詣せん事を願ける故、此方ニは左様に拝すべき稲荷なし、汝等が尋るは定て太郎稲荷の
事なるべしとて委敷教へ遣しけるとぞ、これは太郎稲荷への道筋を尋ねたるを近所の者いたづらに屋代
太郎が方を教越けると也、直次郎側にて此事を承り取あへず
屋代太郎は太郎の社(やしろ)にあらず
立花左近は左近の橘にあらず〟
◯『街談文々集要』p12(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化元(1804)年記事「太郎祠群参」)
〝当二月上旬より、浅草新堀、立花侯御下屋敷に鎮座なる太郎稲荷大明神、奇瑞ありて、参詣の群集夥敷、
新堀の川へ丸太を架し、茶見勢を開らきし事其数不知、予七才、父や祖母に誘引(イザナハ)れ度々参詣す、
狂歌ニ、
尋ねゆく人は浅草にゐ堀の深きねがひをみつのともし火 四方山人〟
〈この四方山人は蜀山人(大田南畝)か〉
◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨52(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)
(文化元年)
〝今年(文化元年)浅草新堀立花左近将監殿(添え書き〝筑後国柳川の城主十一万九千六百石〟)下屋内
稲荷、流行参詣群集す、午の日井三ン日門を開らく、常の日は立花家より切手出る、屋敷内奉納のはた
数千本、其外木石の烏居手水鉢等筆に尽し難し、往来神酒、備餅、油揚など商人おびたゞし、太郎稲荷
といふ〟