Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧      ☆ たねほん 種本(こうほん 稿本 したえ 下絵)  浮世絵事典  ◯合巻の種本と刊本との具体例       『菊寿童霞盃』十編 一陽斎豊国画 山東京山作 山本平吉板 嘉永二年(1849)刊 (国書データベース)    菊寿童霞盃 十編 種本 山東京山稿    〈画像は国立国会図書館デジタルコレクション本)    菊寿童霞盃 十編 刊本 一陽斎豊国画 山東京山作 山本平吉板    〈画像は国立国会図書館デジタルコレクション本。収録は九編上巻から始まり、十編は途中の28/53コマから〉    ◯『的中地本問屋』黄表紙(十返舎一九画・作 享和二年(1802)刊)   (国書データベース)   〝(十遍舎一九)序    商売は草の種本(たねほん) 書けども尽ぬ 浜の真砂のしやれ次第 嵯岮(ふざけ)次第の出放だい 金    の生る木を彫(ほぢくつ)て 小刀細工の銭攏(もふけ)は 作者の得手に嗜欲(ほまちもの) 趣向は書肆    (ほんや)の金箱に 山吹色の黄表紙と一寸(ちよつくり)祝つて筆を執る〟    〈「商いは草の種(商売の種類は多い)」の諺と一九自らが作る「種本(本文と絵からなる)」とを掛けている。「ほまちもの」は役得〉  ◯『総角結紫総糸』合巻(歌川国直画 南杣笑楚満人二世作 文政五年(1822)刊)   (国書データベース)   〝(楚満人)序    画工歌川国直子 予に絵草紙を作せよとすゝむ、其心根をさつするに、予(われ)をすかしておさきにつ    かひ、自(みづから)種本画(したゑ)の格好(いろけ)を採り、画工(ゑわり)でおどかす出来合ひ写本(し    やほん)、せわしき上にも欲ばつて、たしかに問屋(とひや)へはめものと、思へば予(おのれ)も早合点    安請合ひの其日より、隣同士の壁ひひとへ、宅(うち)に居ながら居催促 詮方(しやうこと)なしに筆お    つとり(云々)〟  ◯「合巻草稿」柳絮亭種雪稿本 安政二年(1855)(国書データベース)    合巻草稿 柳絮亭種雪稿本 安政二卯年四月◎〈刊本未詳〉  ◯『紫草紙』合巻草稿 柳亭種彦二世作 文久三年(1863)序(『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』)    外題「紫 たね本」    備考「本書は序年記によると文久三年の刊行予定で綴られた種彦(二世)自筆の草稿本。未刊で終ったが、       序年記にしたがって文久三年に立項しおく。草稿本の各所には朱筆で画工や版元への注文が入り、       また本文の訂正個所には別紙を貼付して書き換えをしている」    見返「画工さまへ申上候/此二十丁 九月末十月中なり/その心得にて」    巻末「種彦作 国貞画」    〈種本(草稿)とは画工や板元に向けて発せられた戯作者の注文(指示)なのである〉    たね本 柳亭種彦二世 文久三年序 (国書データベース)  ◯「稗史原稿に就いて〔附戯作者尺牘〕」(林若樹著『集古』所収 明治四十二年九月刊)   ◇歌川国貞宛、山東京伝書簡   〝(前略)岩戸や写本追々御したゝめ被下(くださり) 大慶(に)奉存候 且又残り種本二冊    外々のをさし置(き) 相したゝめ全部出来仕候 さだめていろ/\御取込と奉存へ共 さしくり御し    たゝめ可被下候 売出しあまりおそくなりては ひやうばんもいかゞと案じ申候 何分御頼申上候(下    略)九月十九日 国貞様 京伝〟    〈戯作者が作成する稿本(本文と絵からなる)を「種本」と称し、画工が画く「板下絵」を「写本」と称していたようであ     る。文面は、自分の「下絵」を優先して板下絵を画いてほしいという、作者京伝の画工国貞に対するお願いである〉  ◯『馬琴書翰集成』第五巻 天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(書翰番号-56)   〝小生稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故    ニ御座候。北さいも筆自由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北    さいニ画がゝせ候さし画之稿本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致    候〟    〈天保十一年、馬琴が伊勢の殿村篠斎宛に出した書翰の一節。ここでいう「稿本」とは戯作者が画工に与える「下絵」のこ     とを云う。馬琴はこれに拠って画工に指示を出す。「稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ」というところを見ると、     画工は作者の指示に忠実であるべきだと、馬琴は考えていたようだ。お気に入りの画工は三人、北尾重政・初代歌川     豊国・歌川国貞、彼らこそプロ中のプロ、作者の意向を忠実に汲んで、作者が望むような図様に昇華できる名人だと     高く評価している。それに対して、葛飾北斎、云うまでもなく彼ら以上に「筆の自由成」画工ではあるのだが、「作     者ニ随ハじ」が玉に疵で、作者の指示を無視して我意を通すというのである。「下絵」は作者が作成すべきものという、     馬琴の意識は強烈である。この挿話は北斎の偏屈な性格や独創性にこだわる意志の強さを示すものとして引かれるの     だが、別の観点からすると、版本の世界では、戯作者の指示は画工にとって欠くべからざるものであったことを示し     ている〉  ◯『戯作六家選』〔燕石〕②72(岩本活東子著・安政三年(1856)序)   (式亭三馬の項)   〝文化のはじめ、合巻、読本、俱に流行し頃は、三馬、豊国等は、諸方の書肆に、種本、写本を乞需らる    ゝに、その約束の期に後れ譴らるゝに苦しみて、五日或は七日ばかりづゝ書肆の許に至り、一間を借り    て草稿を成し、または絵を画きぬとなり〟    〈三馬が作成するのは本文と絵からなる「稿本」でこれを「種本」と称し、それをもとに豊国が作画した「板下(絵)」を「写本」     と称した〉  ◯「読売新聞」(明治24年1月26日付)   〝浮世絵師の困難    俳優の似顔を画けるもの 国周を始め何れも 古術を市川団六に問ひ合せて写し来りしが 同優は旧蠟    より肺病に罹り 本月四日死去したるに付 一同大いに困難し居れりと云ふ 尤も同優の師匠市川九蔵    は斯かる事にも精しきゆゑ 以来九蔵自ら其の問に応ずるに至れば 却って画工の幸福なりとも云へり〟    〈旧蠟とは昨年12月。役者似顔絵を画く浮世絵師にとって、市川団六や市川九蔵のアドバイスは必要不可欠であったよ     うだ。おそらく表情・所作・衣装・着こなし等全般にわたって注文を付けてもらったのだろう。記事には出てないが、     彼等の存在は下掲の国芳における梅の屋と同様、国周らにとっては作画の「種」を提供してくれる何とも代え難い存在     であった〉  ◯『読売新聞』(明治29年11月21日)   〝茶湯錦絵 故南新二氏の考案に成りたる石州流茶の湯の一切の式を美麗なる錦絵にしたるもの 揮毫は    水野年方にして全幅十五番の内七番を例の滑稽堂より出版せり〟    〈「茶の湯日々草」の「種」を提供していたのが南新二。氏の戯作集『南新二軽妙集』(明治40年刊)所収の「南新二小伝」に     よると、天保6年1月7日生、明治29年12月29日没・享年60。明治10年代から、東京日々・報知・朝野等の各新聞を経     て、この当時は『やまと新聞』の記者の由。氏の茶の湯に関する戯文は上掲戯作集に「茶の湯三日稽古」というタイト     ルで載っている。「茶の湯日々草」における、板元の滑稽堂(秋山武右衛門)・戯作の南新二・画工の年方の関係は、企     画・立案・作画という江戸以来の分業体制がまだ機能していたことを物語るのであろう〉  ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き ◎は不明文字     全角カッコ(~)は原本のもの 半角カッコ(~)は本HPが施した補記   ◇巻一(歌川広重三代)p5   〝清水晴風氏曰 予は元来絵を習ひしことあらず 或時数年前死せし広重【二世と称す】来りて 弟子と    いふては如何なれど 社中になりて呉れよとの事に 承諾せしに 予に重春といふ名を与へて 広重よ    りの系図書を贈りくれたり 広重はこれより錦絵などに 広重門重春の名を署して出版せり これ己れ    に弟子あるを示さんとてなり 而して此広重は頭の無き人なれば 少しく困難なる絵は 予の所に来り    て相談せり 誠に生きた粉本にされし訳なり〟    〈清水晴風と三代目広重との関係は、上掲『戯作六家選』のいう三馬と豊国と同じで、「少しく困難なる絵」つまり広     重の思案にあまるような絵については、晴風が「粉本(下絵)」を提供して、広重はそれをもとに「板下絵」を作画する段     取りになっていたようだ〉  ◯『集古会誌』(辛亥巻五 大正二年四月刊)「会員談叢 竹内久一氏談」   〝浮世絵師は絵かきと称して本絵の方は絵師といつたものだ 其絵かきの方では 下図をつけるのに決し    て本絵の様に焼筆を使はない 朱筆で図をつけて其上を墨でかくのが法で 今でも浮世絵の脈を引いて    居るものは 朱筆で下図をつける 又粉本は種ねの名で通つて居た〟    〈浮世絵界でも下絵を「粉本」と読んでいたようである〉   〝其頃狂歌師で梅の屋鶴子(かくし)といふ人があつたが これは長谷川町の待合茶屋の主人で 此人が    国芳の為めには顧問になつて尽力したので 絵の方も又種々(注)の計画も 凡て此人の采配になつたの    だ だから此梅の屋の文台披露を万八楼で開いた時は 国芳も一肌ぬいで 弟子と揃の縮緬の浴衣で押    し出したといふ話サ〟    〈(注)『若樹随筆』には単に「種」とあったので、今までこれを「種本」の「種」と理解していた。それが「種々」だとすると     強いて「種本」と解する必要はない。ただ、鶴子が国芳に図案等のアイディアを提供していたという意味にかわりはな     い。つまり梅の屋は芳年の懐刀なのである〉  ◯『明治東京逸聞史』②p201「滑稽堂」明治三十九年(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝滑稽堂 〈太平洋三九・一・一五〉     芳年の代表作の「月百姿」も滑稽堂の版で、昔から名所百景などというものはあったけれども、実際    には百枚は揃わなかったのに、滑稽堂では、「月百姿」の百枚を完成させることに骨を折り、芳年が好    んだ弁松の桶弁当を、主人自身で毎日芳年の家へ持参して督促し、やっとのことで、百枚を纏めた。と    はいうものの最後に残った二三枚は、芳年が精神的に罹ったために、彩色の出来ていなかったのを、門    人の年方に図り、年方が代ってそのことに当って、ついにこれを完成した。そこまで漕ぎつける主人の    苦心は、容易なことではなかったので、芳年の歿後には、更にその建碑のことその他に就いても、よく    世話をした。    「月百姿」が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の    背後には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、「月    百姿」の百番が成ったのではない〟    〈芳年と桂花園桂花との関係は、上掲『若樹随筆』の例でいうと、国芳と梅の屋鶴子と同じ。俳人・桂花や狂歌師・鶴     子は芳年や鶴子にとっては知恵袋なのである〉  ◯「集古会」第五十七回 明治三十九年(1906)三月 於青柳亭(『集古会誌』丙午巻之三 明治39年5月)   〝林若樹(出品者)人形首写生歌図 一冊 鳥居風の画なり 思ふに芝居番付を画く時の種本歟(か)〟    〈「思ふに」以下は林若樹のコメント。この「種本」は板下絵の拠りどころとするものを云う〉  ◯『林若樹集』(林若樹著『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※全角カッコ(~)は原文のもの。半角カッコ(~)は本HPの補注   ◇「小説の本になるまで」(『版画礼賛』所収 大正十四年三月)   (全体の流れ)p1   〝(黄表紙・合巻等)軟派に属するものは、其(作者が作成する)稿本を地本問屋の行事の手で一応検閲し、    之を月番名主に差出し、忌憚に触るゝことなく出板差支なしとなると、許可の証たる行事の割印をして    其出板書肆に戻す、出板書肆は其稿本(之を種本といふ)を画工に廻す。画工は其種本に示す通りの下    図に拠つて板下をつくり、之を筆工に廻はす。筆工は又其種本に随つて画工の板下の余白に本文を清書    する。出来上りたる板下(之を写本と云)は愈々板木師に廻はされ、板木師は彫刻の上、著者再三の校    正を経て校了となると、刷師によつて刷り上つてから製本屋の手にかゝつて(黄表紙の如き少部数且つ    製本の簡単なるものは本屋の手で製本される)初めて一部の冊子となる〟    〈戯作者が作成した「下絵」に基づいて画工が「板下絵」を作画するというのは、おそらくは戯作者であり画工でもあった     恋川春町や山東京伝の時代、すなわち黄表紙の誕生時から確立した習慣だったように思う〉