Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧            ☆ たこ たこえ 凧 凧絵          浮世絵事典  ☆ 安永頃  ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥199(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝安永の中比迄は、かわらけ鳶と云凧有り、紅売にてぬりたる鳶凧有りしが、其後見掛ず〟   〝同年比より奴凧と云を張出し、今有所の奴凧也、其比迄は土器鳶四ツ谷鳶とて、口嘴の付たる、又すほ    うにて染などしたる鳶凧、さま/\の鳶凧類有りしが、いまは何れもなき也〟   〝角凧、寛政比迄は四枚張位迄は、横骨二本筋違二本立骨一本、都合骨五本にて張たるが、此比より一枚    張にても骨多、糸目も古へは一枚張は三ツ糸目、二枚以上は四ツ糸目とて、糸は四本にて済、三ツ糸目    は糸三本にて済たるもの也しが、今の糸目は何かこと/\敷多く致し、骨も多く、何の為なるや〟  ◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②276(山東京山著・弘化三年(1845)序)   〝凧も二枚ばり五十銭、絵は、杉の立木に片鳥居、浪に日の出、雲に舞鶴のるゐ、いかにもそまつなる絵    なり、こはおのれが七ツ八ツの時なり【安永四五年、安永は九に改元】そのゝち、十二三の頃【天明元    年】にいたりて、字凧ととなへて、竜、蘭、鶴の字など、双鉤子(カゴジ)のめぐりを、藍又は紫にいろ    どりたるを珍とし、宝として喜びけるに、今の字凧は下品として、子どもよろこばす〟  ◯『奴師労之』〔燕石〕②9(蜀山人著・文化十五年(1818)序)   〝やつこだこは、鳶だこの形をうつして、足を尻尾にしたるもをかし、是は安永の始より出来たり、其頃    木室卯雲【二鐘亭と号す、後白鯉館と改む】発句に     初午や地に白狐天にやつこだこ〟  ☆ 天明頃  ◯『天明絵暦』(国立国会図書館デジタルコレクション)   「画工署名なし」(図は「暫」を演ずる市川団十郎の似顔絵の凧と糸繰り(オダマキ))    賛〝行くほとはおたまきにあり風巾 啄梓〟    〈「風巾」は「いかのぼり」と読むか。似顔は大首絵になっている。画工は署名はないが勝川春好か〉    市川団十郎・暫『天明絵暦』(国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②303(山東京山著・弘化三年(1845)序)   (天野翁の記事を写す)   〝紙鳶    寛政比迄のいかのぼりは、今の如く(嘉永)横骨多く入れしはなし、八枚張い上ならでは、七本骨はな    し、絵様は、京山翁が本書に云へるが如し、されば価も今より下直也、一枚張十六銭、二枚張三十二孔、    四枚張、八枚張も一枚(ママ)十六孔に価定りてひさげり    然りしに、寛政八年の比、鉄炮洲船松町に、室崎屋といへるが、今の如き手を尽したる画様をなし、大    凧仕立と唱へ、一枚張にても骨七本なるを売初しに、大にはやり、予(天野翁)もしば/\、家来にね    だりてもとめさせし事ありき、価はむかしに一倍して、一枚張三十二孔なりしに、小児ら、此凧をあげ    ざるを恥とせり、是余が居宅の辺、かの凧屋に近きゆゑ也、其後、京橋弥左衛門と覚ゆ、和泉屋といへ    るに、室崎屋に同じ凧を商へり、是今の如く凧の奢侈になりし始也〟      ☆ 寛政以前(~1789)  ◯『明和誌』〔鼠璞〕中p203(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)   〝其時節まではにかわりものなく、角凧、とんびだこのみなり。四ッ谷とんび、扇だこ類追々出て、角    凧も糸目附かた三所にして骨ふとく、上りわるし、寛政の頃より糸目数増、骨細く軽く出来る故、上り    かたよろし〟    ☆ 享和二年(1802)  ◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①248(森山孝盛著・享和二年(1802)序)   〝翁が子どもの時は【延享寛延】世上にてを上るに、様々の物好をして、尤大凧をも上たり、翁は生質    余り凧を好まざりしが、夫れへ西の内紙十六枚張にして、朱の洲浜(スハマ)を書きたる凧を、人の拵てく    れたりしを、三河台へもち行てあげ付て、清水坂を引てかへる、屋敷のうちへ入れやうなかりければ、    土屋の屋根へ両方より階子をかけ、若き侍ども糸を持て、長屋を持こして庭へ入たり、斎藤靱負【御小    姓組、屋敷は三河台下】が所にては子供はなかりしかど、西の内紙三十六枚張の凧を拵へて上たり、畢    竟は大人の慰にて、子どもの所作にてはなし。    其外、八ッ花、九曜のほし、蜈蚣などいふ絵だこをよく拵へて、家々にて上たり、釣合六ヶ敷凧を上手    にしたり、中々今の子どもの如くおとなしく、一二銭の袖凧、鳶だこを貰ふて、子心に、上りもせぬに    ひとり欠廻りて楽しみ、日をくらす様の事にてはなかりき〟    ☆ 天保以降(1930~)  ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p30〕   (「春の節物の移り変り」)   〝凧の絵も文字白きぬきたるが、天保度戯作者にちなみ水滸伝の人物をゑがき、又武者絵となり粉色に箔    さへ用ゆる事となりたるも 花美専らの頃なりける、四谷凧・本郷のぶか凧・鳶凧・奴凧・扇凧は古画    のまゝになりける〟  ☆ 天保十二年(1841)  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p228(天保十二年(1841)十一月二十九日)   〝同日(十一月廿九日)諸向達町触    之絵柄、近来彩色等致し、無益之手数を懸ケ、高直之品有之趣相聞候、此節仕廻時節ニ付、依頼右様    之凧、并大なる凧、決而仕入申間敷候〟  ◯「町触」十一月二十九日〔『江戸町触集成』第十三巻 p436(触書番号13420)〕   〝凧之義、近来絵柄粉色等無益ニ手を込、高直之品も有之趣相聞候、此節仕込候時節ニ付、右躰之品決て    拵申間敷候、尤兼て申渡置候通、大キ成凧仕込申間敷候、右渡世(衍カ)之ものいたし候者共え、急度可    申渡置候     但、大凧八枚張之上之分は仕込間敷候    右之通申渡候間、不洩様一同え早々可申通、已来違失無之様可致候    右之通被仰渡奉畏候、為後日仍如件      天保十二丑年十一月廿九日                    安針町 名主 雄左衞門〟    〈凧の絵柄、大きさ、高直なるものに対する規制である〉    ☆ 弘化三年(1846)  ◯「古今流行名人鏡」(雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (東 五段目)   〝戯作 カヤ丁 花笠文京  戯作 トシマ丁 松亭金水  凧絵 ギンザ 歌川国次〟  ☆ 文久二年(1862)  ◯『東都三十六景』「愛宕山」広重(二代)画 相ト板〔戌五改〕印    愛宕山 歌川広重(二世)画『東都三十六景』文久二年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 慶応元年(1865)  ◯「当世見立凧つくし」三枚続「応需国周画」伊勢屋藤吉板〔丑十一月改〕印    当世見立凧つくし 豊原国周画 慶応元年刊(ボストン美術館)  ☆ 幕末~明治初年  ◯「読売新聞」(明治25年12月19日記事)〈原文は漢字に振り仮名付、()はその一部分〉   〝歌川派の十元祖    此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを    数(かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と    いふにハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ     凧絵の元祖 歌川国次  猪口絵元祖 歌川国得  刺子半纏同  同 国麿     はめ絵同  同 国清  びら絵同  同 国幸  輸出扇面絵同 同 国久・国孝     新聞挿絵同 同 芳幾  かはり絵同 同 芳ふじ さがし絵同  同 国益     道具絵同  同 国利    以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵    がける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今    尚其遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(い    た)く夫(か)の両人を尊び居れる由〟  ◯『読売新聞』(明治32年(1899)1月23日記事)   ◇浮世絵師の遺物(歌川国利の談)   〝国歳は達磨凧の絵を遺せり、此人絵は上手なれども名聞を好まず 本所表町に住ゐて麻屋善兵衛方へ出    入り 生涯達磨凧をかきて暮したれば 今も麻善の達磨とて 看板ものとなれり、又国歳の住ゐし所に    達磨横町の名ある程なれど 後深川佐賀町に移りて自ら永代国歳と名乗る    国次は銀座一丁目に居り 凧の武者絵をかき創(はじ)め    国広は扇凧を工風し又菅凧を拵えて上野広小路の売物となす 今の風船球の如くなりしも 近頃は余り    行はれず〟  ◯「行楽の江戸」淡島寒月著(『新公論』第三十二巻第一号 大正六年一月)   (『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p89)※(カナ)は原文の振り仮名   〝一月 頗る盛んだったのは「凧」である。小さいのは美濃紙二、三枚位から七、八枚、大きいのは十二、    三枚位継いだもので、武者絵とは八犬伝などを一面に極彩色で描いて、それに例えば私のなら「あはし    ま」と大きく字を入れたりしたものだ、これを売っていたのは馬喰町の秩父屋義兵衛、同三町目の能登    屋などで、秩父屋では十七、十八両日の観音様の市には、十三枚継ぎ位の大きな凧を六、七枚も屋根に    並べたのである。凧の値段は小さいので二百文即ち天保銭二枚位で、高いのになると一朱位から二分三    分というのもあった。そして正月の半月で大概は三、四枚くらいのものを十五、六枚は破ったもので、    子供などは凧の日などには夢中になって騒いだ。私なども年始廻りなど言付(いいつけ)られてじくねる    時には凧を買ってやるといわれると喜んで飛出したものだ。こんな風で正月の江戸の空は殆ど凧で充さ    れたといってもいい位で、それがブンブン唸っている。実に勇ましいものであった〟    〈天保銭は額面100文。だが実勢は80文の通用だったらしく、明治4年の「新貨幣条例」の新旧通貨交換レートは1銭=100文であ     ったが、天保銭はやはり実勢を反映して8厘(0.8銭)であった。慶応3年の頃の1朱は、当時の銭相場で換算すると、1両=81     64~8432文、これの平均をとって1両=8313文とすると、1両=16朱だから、1朱は520文となる。なお1両=4分だから、1分は     2078文に相当する〉  ◯「集古会」第五十一回 明治三十八年一月 於青柳亭(『集古会誌』乙巳巻之二 明治38年3月刊)   〝岩瀬永眉(出品者)五渡亭国貞筆画凧 一幅〟  ◯『絵本江戸風俗往来』p24(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   ◇「正月」p20   〝辻の紙鳶売    正月元日に家業をなし銭儲けするものは、凧商う店の外はなし。江戸中、町家両側とも板戸を閉じて、    往来すべて一物もなし。(中略)中に葦簀をかこいて町毎に一、二ヵ所ずつ見えて子供の集まるは、辻    の紙鳶商人なり。また軒下に人堵をなすは、凧売店と知られたり。また蛸を紙の張抜にて作り、長竿の    先へ高くつり上げたる看板は春風にあたりを払いし。下には町内の子供達春着の新しき衣類に、下駄草    履までも新玉のそよ吹く風を歓び、我れ勝ちにこの店へ来たり凧を求む。凧は十二枚張り、中は四枚張    り、二枚半張り、二枚張り、小は一枚張り、角なるあり、奴凧・鳶凧・三番叟・扇紙鳶・剣凧等、その    他種々あり。画は武者にして、字凧は端を塗りつぶすあり、文字を塗るあり、画も浮世画工の達者の筆    になるものありたり〟   ◇「正月」p24   〝凧の卸屋    紙鳶(タコ)は正月第一の物にして、昨年十一月頃より売り出し、十二月の下旬より正月二十日頃までは極    めて盛なり。凧の卸問屋(オロシトイヤ)は江戸中に七店ありて、七店中尤も上製の品多きは、西久保神谷町な    る伊勢屋半兵衛なり。子供等は凧半と呼ぶ。画(エ)も浮世画工国富(クニトミ)なるものの図によりて、しつ    らう。また揚げ工合の調子よきは、下谷にて堀龍と吹(フキ)ぬきの二品、京橋に白魚の三種とす。大名・    旗本の若君達は、凧部屋とて、凧の置所すらありたり。されば凧問屋の繁昌もまた容易ならず。大きな    る渋紙張(シブカミバリ)の籠を天秤に舁(カ)きて、江戸中へ卸しに出づるう者、行く所にしてあわざるなし。     山東京伝の『蜘蛛の糸巻追加』によれば、寛政以前は凧の価も安く一枚張十六文、二枚張三十二文、     四枚張・八枚張も一枚あたり十六文の割合であった。寛政八年ごろ鉄砲洲船松町の室崎屋という店が、     絵柄の複雑な凧、一枚張に骨七本という凧を売り出した。値段は一枚三十二文と倍増したが、少年達     はこの凧をあげぬことを恥としたという。その後、京橋弥左衛門町であったかに和泉屋という店がで     き、室崎やと同様の凧を売り出した。これが凧の奢侈になった始めだとある。凧屋にも盛衰があった     のである〟  ◯「集古会」第七十六回 明治四十三年(1910)一月 於青柳亭(『集古会誌』庚戌巻二 明治44年1月刊)   〝有田兎毛三(出品者)堤等琳筆 凧絵 七枚〟〈この等琳が三代目か否か確信はない〉  ◯「集古会」第七十九回 明治四十三年九月 於青柳亭(『集古会誌』庚戌巻五 明治44年7月刊)   〝吉田久兵衛(出品者)凧絵達磨板木 一枚〟  ◯『明治東京逸聞史』②p199(明治三十九年(1906)記事)    〝凧屋〈太平洋三九・一・一〉    「東京一の凧屋」として、青物町の麻善という店のことが書いてある。     凧の問屋は、以前は何軒もあったのだが、明治になって、街に電線が網を張るようになったのに大打    撃を蒙って、指折りの店もつぎつぎと閉じてしまった。凧問屋としては、日本橋青物町の麻善こと林善    兵衛が、依然として営業を続けているが、同店は際物師で、季節季節に五月鯉や、盆提燈なども製造し    ている。しかし本業は凧にあるらしく、麻善というよりも凧善といった方が通りがよいくらいだ。     凧は種類が極めて多い。従って直段もまちまちで、下等は五厘から、上等は五十銭まである。この麻    善では、紙質を精選する上に、名のある浮世絵師を雇って画かせている。     東宮殿下の御幼少の頃、葉山の御用邸から御注文を受けたところから、同店は物々しくも宮内省御用    達の御門鑑をいただいた。それでその門鑑を桐の箱に納めて、店の正面に飾っている。──     宮内省御用達ということが、大きな光栄とせられる時代だった〟  ◯『明治東京逸聞史』②p315(明治四十二年(1909)記事)   〝鯉幟 〈太陽四二・五〉     その「五月幟の話」には、続いて紙鯉のことも記されている。     紙鯉の製造者は、多くは凧絵師で、正月が凧、二月が地口行燈、三月がお雛様の紙表具、五月が紙鯉、    それから外幟の武者絵、七月が盆提灯と仕事を変えて行く。紙鯉は三尺から五間のものまであるが、何    しろ風力に耐えなくてはならぬので、要所要所には麻の力糸を入れて、鯉の形に貼上げる。近頃は原料    の紙類の直(ネ)が上っているので、紙鯉屋では紙質を落して、粗悪なものを造る。だから幟市の床店な    どで買うと、安いことは安いけれども、風に耐えなくて、五月の鯉の吹流しどころか、腹から切れてし    まう。だから信用のある店で買うことが必要だと注意している〟  ◯『残されたる江戸』柴田流星 洛陽堂 明治四十四年五月   (国立国会図書館デジタルコレクション)(16/130コマ)   ◇揚り凧    〝昔時は大の男幾人、木遣りで揚げたといふ程の大凧も飛んだと聞くが、子供には手頃でいつの時にも行    はるゝのは二枚半の絵凧である    武蔵野を吹き暴るゝからッ風の音、ヒュウ/\と顔に鳴る時、鯨髭の弓弦もそれに劣らず唸り出しては、    江戸ッ児の心自(おのずか)らジツとしてをられず、二枚半の糸目を改めて雁木鎌幾つかを結びつけ、履    物もそゝくさと足に突ッかけ飛出すが例である。実に此揚り凧の唸り程江戸ッ児の気勢ひ(ママ気負い)と    なるものはない。    火事と喧嘩は又江戸の名物だ、渠等は携へゆいた(ママ)二枚半を飛ばすや否や、大空を吾がもの顔に振舞    つてをる他の絵凧に己が凧をからまし、こゝに手練の限りを尽くして彼これ凧の切りあひを試み、以て    互ひに其の優劣を争ふ、江戸ッ児の生存競争は早く既に地上のみに行はれつゝあつたのでは無かつた。    打ち仰ぐ紺碧の空に、道心格子、月なみ、三人立ち五人立ちの武者絵凧が、或は勝鬨をあげ、或は闘ひ    を挑む様は、これや陽春第一の尖兵戦、江戸ッ児は斯して三百六十五日其の負けじ魂を磨きつゝあるの    である。向上心をそゝりつゝあるのである。いふを休(や)めよ、三月の下り凧は江戸ッ児の末路を示す    ものだと、江戸ッ児本来の面目は執着を離れて常に凝滞せざるを誇りとするもの、焉(いずくん)ぞ死と    滅亡とに兢々たるものであろうぞ〟    〈雁木鎌とは相手の凧の糸を切るために自分の凧糸に仕込んだ刃物〉  ◯「紙鳶画(たこえ)に就いて」巌谷小波著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 正月が年々淋しくなる。それも自分が年を取つて来るからかと思ふのに、万更然うでも無いらしい。    第一僕等不平に絶へないのは、例の紙鳶と云ふものゝ、僕等の少年時代に比して、著しく振はなくなつ    た事だ。     僕等子供時分には、歳暮(くれ)から新春(はる)へかけての遊びは何と云つても紙鳶が一番だつた。随    つてもう十二月に入ると、方々の玩具屋の店が、殆んど紙鳶で埋まつてしまふ。皆紙鳶専門の店が出来    て、女の子に対する羽子板店と共に、例の年の市の賑ひに、どんな色彩を添へて居たか知れない。     それが此頃は、羽子板屋は相替らず盛んなれ、紙鳶屋はとても以前ほどは見られない。尤も羽子板の    方だつて、似顔画が滅法拙くなつた様だが、紙鳶の武者絵なるのに至つては、頗る失望させられる。     一体紙鳶には色々ある。まづ大別して云ふと、画凧、それから奴凧・鳶凧・蝉凧・虻凧の如き、形を    其の侭取つたものもあるが、要するにこの首なるものは、何と云つても画凧に限る、で、又その画様は    と云ふと、日の出に鶴や、達磨や、牡丹や、童子格子や、三筋に蝙蝠や、種々類もあつたけれど、中で    も一番子供心をそゝつたのは、矢張り豊国畑から出た武者絵であつた。例へば頼光とか金時とか、八幡    太郎とか、鎮西八郎とか義経とか清正とか、子供の好きな大将武将が、北からの順風に乗じて、悠然と    空へ伸あがる所は、何とも云はれない愉快なものだつた。     それも入念の物となると、二半枚から四枚半迄の間に、二人立から五人立位まであつて、かなり精巧    を極めて居たから、一種の美術品としても、亦見るに足るべく思つた。イヤ、全く子供の時分の美術思    想は、画本、錦絵口絵この画凧なるものあつて、どれ丈養成されたか知れないのである。此点から見る    と、彼の長崎式の所謂「ハタ」の如きは、競技の上には元より趣味に富んで居るが、美術眼の前に出し    ては、殆んどゼロと云つても可い。     然るに今や東京の市街は、空に電信電話の邪魔あり、地に電車自動車の危険あつて、紙鳶に余念無く    遊ぶを許さず、随つて紙鳶屋も少なくなれば、紙鳶画も振はなくなつてしまふのは、何たる残念な事で    あらう。(以下略)〟  ◯『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   「第一部 浮世絵の盛衰」「九 浮世絵の描法に就いて」p60    (凧絵)   〝堤等琳が工夫に成つた紙鳶の絵にも、祭礼の時に町の幅一杯に掛る大行灯の如き絵も、皆それ/\の書    方あり〟