Top 浮世絵文献資料館 浮世絵師総覧
☆ たけざわ とうじ 竹沢 藤治 初代 浮世絵事典
☆ 天保十四年(1843)頃
◯『浪華百事談』〔新燕石〕②228(著者未詳・明治二十五~八年頃記)
(天保十四年(1843)頃の記事)
〝江戸竹沢藤次、曲ごま、是は天保十年の頃より、大坂にて難波新地に於て興行、其度ごとに大入せり、
此処にては、忰万治と共に興行して、大に流行〟
〈この見世物は天保十四年頃の大坂西横堀下流新築地で興行されたもの〉
☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
◯『事々録』〔未刊随筆〕③301(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)
(天保十五年・1844)
〝二月ヨリ於両国山下の独楽廻し竹沢藤次、父が年回として曲独楽と名附、からくりを交へ奇々妙々なる
独楽の芸をつくし、評判大にして群集おびたゝしく、桟舗前日より買入ねば其日は客留に至る、三月雑
司谷へ、右大将様御成之節大塚護国寺において上覧〟
◯『藤岡屋日記 第二巻』p417(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記)
〝三月朔日
此節両国にて竹沢藤治が駒の曲、大入大評判にて、錦絵・手拭迄出る也〟
◯『増訂武江年表』2p103(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(弘化元年・1844)
〝春より夏に至り、両国橋西広小路に大なる仮屋を構へ、こま廻し竹沢藤治(下谷の住)こまに手妻(テヅ
マ)の曲とゼンマイからくりを交へて見せ物とす。見物山の如し(これに続いて浅草に住める奥山伝次と
いへるこま廻し、竹沢の趣向を習ひこまに手妻を交へ、道具建にからくりをなして、浅草寺奥山にて見
せものとしけるがさして行はれず。其の後人形師竹田縫殿介、同所にてもみけし人形の見せ物を出した
り)。
筠庭云ふ、小屋壊れて怪我ありしは、三人兄弟とて物まね上手にて、其の頃流行(ハヤリ)しなり。又前
後は覚えず、此の頃竹沢のこま未だ出ぬ時、其処に囲ひもせで、軽業をしたる虎吉とかいへる童は、
小さき台共つみ重ねたる高き上にのぼり、下には抜き身の刃を立てたり。上にふせたる小樽のひらき
て壊れて落ち、刃に貫かれて死したり
曲ごま、二月中旬より八月まで、両国にて行はれ、夫より九月は芝神明に出づ。
其の後は仕掛したる種々のこまを、細工人浅草御蔵前にて大路にて売物とす〟
☆ 嘉永二年(1849)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p457(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)
「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」
〝酉年三月
両国二代目竹沢藤次曲こま、又々大評判之次第
此度竹沢藤次義、梅松と改名仕、忰と(に)二代目竹沢藤次の名前を相譲り、又々新曲新工夫仕、十二
ヶ月曲独楽、雷の曲こま、三曲遊び大こま、西両国東詰米沢町の際へ、川ニ向ひて大形ニ小屋を懸、看
板も立派ニ致し、御成之節ニ小屋の取崩し計ニも金十五両も相懸り候程の大仕懸故に、大評判ニて、木
戸銭廿四文、桟敷見物二百五十文ニて、ゑいとう/\とて客留にて、跡札を買て川辺の茶屋ニ待合せ候
者大勢故ニ、是が故ニ此事を聞こし召され、三月六日ニハ藤次が独楽を御覧可有との事ニて、尾州御用
との札を立置候処ニ、間もなく御疱瘡ニて御大病故ニ、先ハ御見物もながれに相成けり、右評判故ニ、
錦絵も凡三十番も出るなり、是ハ一向うれず大はづれ也。曲独楽拳の図も出ルなり。
おまへあんまの名で徳一さん、木琴がお好でかんころりん、琴ハまことにてうしよく、てん/\廻つ
て一拳しよう。
七月十五日、所々湯屋・髪結床へ張出し候番付を見るニ、一枚ハ曲ごまの図、一枚ニ口上書有之、竹
沢藤次、
当春中より十二ヶ月并三曲遊び大独楽等、未熟の芸等御覧ニ入候処、御ひいき御評判ニ預り、いか計
りか難有仕合ニ奉存候、右御礼として何がな御覧ニ入度奉存候処、此度新工夫仕、龍宮城の大仕懸ヶで
姫浦島の新曲、水中ニての龍の早替り御覧ニ入候間、何卒/\御見物様方、栄ひとう/\と大入繁盛仕
候様、御賑々敷御光栄之程、偏ニ奉希候、以上。
竹沢 梅松
竹沢 藤次〟
◯『増訂武江年表』2p117(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永二年・1849)
〝三月六日より、独楽(コマ)廻し竹沢藤治改め梅升、其の子万次郎改め藤次とゝもに、両国橋西詰に大なる
仮家をしつらい、独楽に幻戯の曲を交へ、先年に倍したる奇巧をして看せ物とす。見物の諸人群集をな
し、九月末に至りて停む〟
◯『藤岡屋日記 第四巻』p87(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)
「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」
〝二月廿四日夜、新吉原揚屋町寄せ こま廻し 竹沢藤治 興行
右寄場大入にて、弐階落候に付、即死三人、怪我人数多有之候よし。
よせ/\と言のに多く揚屋町弐階が落てとうじ迷惑〟
☆ たけざわ とうじ 竹沢 藤治 二代
◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊
◇「曲独楽の竹沢藤治 芝居がかりで得意の早業」p167
〝曲独楽で鳴らした竹沢藤治、芝居がかりの大仕掛けで大した人気。初代は両国の定小屋で錦絵にまで出
た大当り、その親譲りの二代目藤治が明治初年に浅草奥山を始め、猿若町の芝居小屋などで華々しく興
行、本芸の独楽のはか、早変り、宙乗り、水芸等のケレソで大受け、十五、六年頃を全盛に満都の絶讃。
当時は四十五、六の男盛り、若太夫の頃から美少年で知られた男前、太い髷に結ってきりっとした顔立
ち、華やかな裃(カミシモ)姿で押出しの立派さ、ちよっと先代片岡我童の面影。舞台はすべて芝居がかりで
粗末ながら大道具は金襖や夜桜などの書割、幕が明くと口上につれて太夫お目通り、お定まりの衣紋流
し、扇子止め、羽子板の曲、大小の独楽の扱いは多年の手練、一尺八寸の大独楽を手先で回し、中から
十数個の独楽を取り出し、舞台に置くとそのまま回る手先の早業、これらは前芸。
一尺の提灯独楽、心棒を引き上げると二尺余りの長提灯になったり、正面に四方開きの花万灯、独楽が
欄干づたいにその中へことりと消える。万灯はパッと開いて真白な鶏に変ったり、まずこの種の華やか
な芸当、その問にちょいちょい得意の早変り、水芸には女の弟子が二人左右に並んで、独楽を使いなが
ら扇子の先や独楽の心棒から盛んに噴水、私は見ないが水中飛込みの早変りも藤治の十八番。
大切りには宙乗り所作事、奴凧や雷公が呼び物、もちろん本衣裳で振りも確か、奴凧の狂いなどはらは
らさせた。それが花道上から舞台上の幕霞へ消えたと思うとたちまち変る裃姿、大独楽を手にして舞台
に立つその速さ、さすがに早変りの名人といわれただけに超高速度、当時の見物は全く堪能した〟