Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ たかばたけ らんせん 高畠 藍泉(柳亭種彦三世)浮世絵事典 ※ 当時の読売新聞は、漢数字以外全ての漢字に傍訓(ふりがな)を施している。本HP引用の傍訓は( )で示したが、 最初の明治12年1月25日記事以外の傍訓については、本HPが適宜取捨選択した。また原文には句読点が全くないが、 本HPではスペース(空白)で区切って煩を避けた ☆ 明治十二年(1879) ◯「読売新聞」(明治12年1月25日)※( )のルビは原文のもの 〝今年(ことし)は松飾(まつかざり)をする者(もの)も多(おほ)く 年礼(ねんれい)の往復 (わうふく)もはじまッたから 去年(きよねん)の暮(くれ)高畠藍泉 (たかばたけらんせん) さんが再興(さいこおう)された日暮里(にツぽり)の布袋(ほてい)をはじめ七福神(しちふくじ ん)詣(まう)でがはじまり 来(きた)る二十九日にハ軍談師(ぐんだんし)の燕林(えんりん)・ 貞吉(ていきち)・鱗慶(りんけい)また画工(えかき)の広重 (ひろしげ)その外(ほか)が 七 福神(しちふくじん)の見立(みたて)にて参詣(さんけい)に出(で)かけ 別品(べツピン)に 琵琶(びわ)を弾(ひか)せるといふので 尾上菊五郎(おのへきくごろう)も見物(けんぶつ)か た/\出(で)かけるとのうはさ〟〈谷中の七福神巡りは、明治11年暮れ、戯作者の高畠藍泉が再興したとのこと。日暮里の布袋は修性院。講釈師は桃 川燕林・邑井貞吉・西尾麟慶(三人とも二代目)か。この広重は三代目〉 ◯「読売新聞」(明治12年10月3日)※( )のルビは原文のもの 〝高畠藍泉 氏が艶筆(えんぴつ)を振(ふる)はれた巷説児手柏(かうせつこのてがしは)といふ合 巻(くさぞうし)が今度出版になりましたが 絵ハ芳年芳幾の両氏にて 仕立(したて)もよくな か/\面白い本であります〟 表紙「転々堂主人著/大蘇芳年補助/蕙斎芳幾画」 板元 文永堂(武田屋伝右衛門) 転々堂自序「明治十二年八月下浣」出版届「明治十二年九月一日」〈合巻『巷説児手柏』の体裁は、表紙・序文・口絵・挿絵が木板で、本文は活版という変則的なもの(本文活版の先駆 けは同十二年二月三日届の『高橋阿伝夜刃譚』仮名垣魯文著・守川周重画・金松堂辻岡屋文助)。『巷説児手柏』は 「芳譚雑誌」という雑誌に掲載された「巷説児手柏」を、藍泉が合巻化したもので、雑誌本文に使われた活字のみなら ず木版の挿絵もまた左右を切って再利用したとされる(前田愛著「明治初期戯作出版の動向」『前田愛著作集』第2 巻)。高畠藍泉は、当時印刷コストの低減化が進みつつあった活版印刷をいち早く採用するとともに、雑誌挿絵の木 板を再利用することで、合巻製作コストの効率化をはかったのである〉 ◯「読売新聞」(明治12年11月25日)※( )のルビは原文のもの 〝今度高畠藍泉先生が 近古の書画器物に考証を添へ 麓の華といふ書を編纂されて 同好へ贈られまし たが 板刷(はんすり)仕立(したて)とも手を尽した美本にて 古物家の悦ぶものであります。又来 月七日にハ 南茅場町薬師堂の地内の宮松といふ茶屋にて 此書中へ載せた物品其ほか諸家秘蔵の書画 古物を陳列して古物会を開かれます〟〈高畠藍泉編『麓のはな』国立国会図書館デジタルコレクション参照〉 ☆ 明治十三年(1880) ◯「読売新聞」(明治13年1月26日) 〝此ごろ売出しになッた転々堂主人が著作の 松の花娘庭訓といふ三冊物の草双紙ハ 芳幾 国周 周延 の三人が合作の絵入にて なか/\面白い本であります〟 『松之花娘庭訓』転々堂蘭泉作 具足屋(福田熊次郎)版 蕙斎芳幾画 外題口絵豊原国周筆 口絵周延画 ◯『東京商人録』横山錦柵編 大日本商人録社 明治十三年七月刊(国立国会図書館デジタルコレクション) (「め之部」「名家」の項 196コマ~/227) 〝詩 文 書高畠藍泉 西鳥越町三番地 書 画 梅素 宮城玄魚 蛎殻町二丁目四番地 香楠居 画 是真 柴田順蔵 浅草上平右衛門町十一番地〟 ☆ 明治十四年(1881) ◯『新聞記者竒行傳』初編(隅田了古編・鮮齋永濯画・墨々書屋刊)(編集兼出版 細島晴三) (国立国会図書館デジタルコレクション) 〝高畠藍泉(たかばたけらんせん) 重陽山寺 やどりて 拳のせて 心祝ひや膳の上 (肖像) 居所 京橋区弥左エ門町壱番地 名は政 号転々堂主人 足薪翁 京橋区銀座壱町目 読売新聞 日就社印刷長 幕府の小吏にして 幼名瓶(かめ)三郎と称し 演劇を好み花柳に沈酔し 所謂努め嫌ひにして 遊蕩 怠惰いふべからず 故に同寮親戚に疎まるれど 君更に意とせず 慶応の初め画工と成て 力食(りき しよく)せんと 実弟に家を継しめ 壮年にして隠遁す 君ハ画を松前の藩士高橋波藍に学び 藍泉ハ 則ち画名なり 戊辰の役 佐幕の士 東北に脱して官軍に抗戦せんと欲すれども銃器に乏し 時に君憤 然と起て名を政(たゞす)と改め 陸軍奉行松平太郎君と謀り 単身四方に馳て御用達なる者を説諭し 巨万の金額を募集するに 毫も暴言剛強の気を顕ハさず 却て渠をして落涙せしめ 銃砲を函館へ廻漕 せしが 諸道の脱兵潰るゝと聞て大に落胆し 再び画工と成て諸方を遊歴す 明治五年 日々新聞創立 の際(とき) 日報社に入て編輯に従事し 又絵入新聞を起(おこし)しが 社論の合ざるより 去て 各社に聘され 同十三年再び日就社に帰す 君近頃近世古物を愛すの癖あるを以て 仮名垣魯文翁戯れ に元祿古器の精なりといへり〟 ◯「東京書画詩文人名一覧」(番付 平野伝吉編・出版 明治十四年三月届)(東京都立図書館デジタルアーカイブ) 〝画 名家(二段目)高畠藍泉 今戸〟〈戯作だけでなく画家としても評価されていたのである〉 ☆ 明治十五年(1882) ◯『読売新聞』明治15年1月13日付 〝本社の藍泉は従来(これまで)戯号(けがう)を転々堂(てん/\だう)主人と申しましたが、紛らはしき売 薬(デハナイ)同名の投書なども見えますに困ッてゐる折から、友人の勧(すゝめ)に付て、彼(かの)田 舎源氏を作ッた柳亭種彦の名を嗣ぎ、本月廿九日に呉服橋前の待合茶屋にて嗣号の祝宴を開きますから、 諸君尚又御贔屓を願ひます〟〈高畠藍泉の柳亭種彦襲名披露宴は明治15年1月29日。なお藍泉自身は柳亭種彦二世と称したが、実際は三世〉 藍泉の経歴 明治 八年(1875)『平仮名絵入新聞』創刊・編輯長 九年(1876)『読売新聞』移籍 十年(1877)『読売新聞』退社 日本初の夕刊紙『東京毎夕新聞』創刊 十一年(1878)『東京毎夕新聞』譲渡 下阪『大阪新聞』入社 帰京『東京曙新聞』入社 十三年(1880)『読売新聞』再入社(印刷長就任) 十五年(1881) 柳亭種彦を襲名(自ら二世とするも実は三世)