Top              浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧             ☆ たいこうき 太閤記            浮世絵事典  ☆ 元禄十一年(1698)
 ◯『筆禍史』「太閤記」〔元禄十一年(1698)〕p39(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝徳川家康が譎作権謀を以て、豊臣家を亡ぼし、而して自己が大将軍職に就きし事は、家康子孫の脳裏に    も、其忘恩破徳の暴挙たるを認識せるがため、それだけ、豊臣家の事蹟を衆人に普知せしむるを欲せず、    随つて其戦況伝記の出版をも禁止するの暴圧手段を執りしなり、『無聲雑簒』に曰く     元禄十一年の春、江戸書肆鱗形屋より太閤記七巻を刊行せし処、其年八月、松平伊豆守掛にて、版元     は御咎の上、絶板を命ぜらる、これ太閤記絶板の濫觴なり   〔頭注〕太閤記の冊数及び刊年    『日本小説年表』太閤記三冊、元禄十六年、鱗形屋板、版出後直に絶板を命ぜらる、とある三巻は七巻、     十六年は十一年の誤なるべし〟
    『太閤記』 画工未詳 〔『筆禍史』所収〕     〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『日本小説年表』に従い元禄十六年の刊行とする〉    ☆ 寛政十一年(1799)
 ◯『稗史提要』p392(比志島文軒(漣水散人)編・天保年間成稿)   (寛政十一年(1799)出版の草双紙「時評」)   〝按に、天正より以後の事を書し上梓すること、享保以前には憚らざりしにや。大坂軍記、其外あまた見    へたり。享保已後は上梓を憚ることなりしに、この頃にいたつて浪花の玉山が絵本太閤記上梓して、大    に行はる。夫にならひて、今年筆のつらなりを顕し、また豊国が太閤記のにしき絵出て共に行はれしが、    いく程もなくて前のごとく憚ることゝなりたり〟   〈武内確斎作・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年の初編、翌十年に二編、そしてこの年には三・四・五編と出ている。    「筆の連」は荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』。豊国のは錦絵。これらの「太閤記」ものは、文化元年、販売禁止    等の処罰を受けることになるのだが、この寛政十一年時点ではお咎めなしであったのである〉    ☆ 文化元年(1804)
 ◯『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部 第五四件」   (天保十五年十月「川中嶋合戦其外天正之頃武者絵之儀ニ付調」北町奉行の南町奉行宛相談書)   ◇「錦絵之儀ニ付申上候書付」(天保十五年八月付・絵草紙掛・名主平四郎の書付)   〝文化元子年中ニ候哉、橋本町四丁目絵草紙屋辰右衛門、馬喰町三丁目同忠助板元ニて、太閤記(絵本太    閤記)之内絵柄不知三枚続錦絵売出候処、右板元并画師(喜多川)歌丸(麿)・(歌川)豊国両人共、    北御番所ぇ被召出御吟味之上、板元は処払、画師過料被仰付候儀有之〟    〈( )は添え書き。橋本町の絵草紙屋辰右衛門とは松村屋辰右衛門か、また馬喰町三丁目の忠助とは山口屋忠助か。     松村屋は歌麿を山口屋は豊国をそれぞれ起用して、岡田玉山の『絵本太閤記』に取材した三枚続を画かせたのであろ     う。大坂の『絵本太閤記』は寛政九年から出版されてきたから、江戸で錦絵にしても差し障りはないと思ったのかも     しれない。しかし案に相違、彼らは北町奉行所から呼び出されて吟味に回され、板元は居住地追放、歌麿と豊国は罰     金に処せられた。なおこの文書で興味深いのは「画師歌丸」の表記。(喜多川)と(麿)は添え書きであるから原文     にはないものだろう。これは何を意味するのか。文化元年当時、署名は「歌麿」であっても読みが「うたまる」だっ     たので、記載者は「歌丸」と記したのではないだろうか。すると(麿)の添え書きは「うたまる」の「まる」の表記     を正したものと考えてよいのだろう。2013/11/02記〉     ◇文化元年五月十六日落着「仕置申渡書」   〝         馬喰町三丁目 久次郎店 忠助    其方儀、一枚絵草双紙問屋いたし、書物・双紙類新規ニ仕立候儀無用之旨、町触之趣弁罷在、太閤記時    代之武者一枚絵草双紙ニいたし候は、新規之儀ニ候得共、売口多可有之と一枚絵に為認、名前・紋所等    其儘認、又は似寄紛敷様にも認、軍場之地名等書入候も有之、板行いたし候処、右之内其家筋より断受    絶板候も有之、然る上は、残之分右ニ可准義ニ候得共、其儘売捌、猶又異形之ものニ右時代之紋所等附    候草双紙をも板行いたし売出、且、新板之品は行事共ぇ差出、改請候上売買可致旨之町触をも相背、右    一枚絵之内ニは、行事共不差出分も有之、旁不埒ニ付、絵并板木共取上、身上ニ応じ重過料申付之〟   〝         堀江町二丁目 利右衛門店 豊国事熊吉    其方儀、一枚絵認渡世いたし、書物・双紙類新規ニ仕立候儀無用之旨、町触之趣相弁罷在、太閤記時代    の武者絵ニいたし候は、新規之儀ニ候得共、一枚絵商売之ものより相頼候ニ任せ、名前・紋所其の儘相    記、又は紛敷様ニも認、軍場之地名等も書入遣候段不埒ニ付、百日手鎖申付之〟    〈上記文書は天保十五年刊・一勇斎国芳画・佐野屋喜兵衛板の「川中嶋合戦」が問題になった時、町奉行所内で回され     たもの。文化元年の「太閤記」一件を参考に判断を下そうというのである。それによると「太閤記」に関する罪状は、     新規出版禁止令(寛政二年・1790)があるにもかかわらず、太閤時代の武者一枚絵を新たに出版したこと、そして名     前・紋所・戦地名等を書き入れたことにあった。板元山口屋忠助の場合は、その上、某家より抗議で板木は絶板にし     たのに在庫はそのままにして売り捌いたこと、また行事の改(アラタメ=検閲)を経ない無届出版であったことなどが加     算された。その結果、板元山口屋忠助は、絵と板木を取り上げられた上に財産に応じた重過料(五貫文以上罰金)を     命じられた。一方、歌川豊国に対する処分は手鎖百日であった。板元松村屋辰右衛門と絵師喜多川歌麿の「仕置申渡     書」はないが、山口屋忠助と豊国と同様の処分が下ったものと考えられる。     この「太閤記」一件は、これまでの出版統制のあり方に大きな影響を与えたとみえ、一件が落着したその翌日(五月     十七日)町奉行は「一枚絵草双紙類、天正之頃以来之武者等、名前を顕し画候義ハ勿論、紋所合印名前等紛敷認候義     も決て致間識候」という文面の入った町触を発している。町触全文は本HPのTop「浮世絵に関する御触書」参照。     2013/11/02記〉    ◯『半日閑話 巻八』〔南畝〕⑪245(文化一年五月十六日明記)   (「絵本太閤記絶板仰付らる」の項) 〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き    出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、    絵草子屋への申渡書付有之〟    〈「絵本太閤記」は武内確斎作・岡田玉山画。寛政九年(1797)から享和二年(1802)にかけて七編八十四冊出版された〉     ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥76(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   (文化元年・1804)   〝五月十六日、難波画師玉山が図せる絵本太閤記、絶版被仰付候趣、大坂の板本被仰渡、是は江戸ニて喜    多川歌麿、歌川豊国等一枚絵に書たるを咎られて、絵本太閤記を学びたりといひしよりの事也、画師共    手鎖、板本は十貫文過料之由、絵草紙屋へ申渡書付有、右之太閤記之絵本惜しむべし〟    〈岡田玉山画『絵本太閤記』の絶版処分は、江戸の歌麿・豊国が咎められたとき、「絵本太閤記」に習ったと、白状し     たために下ったもののようである〉    ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥130(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に    作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川    月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明    年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり〟    〈読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年にかけて出版された。この「絵本太閤記」     一件、諸本、文化元年のこととするが、馬琴が文化二年としているのは不審。ともあれ、大坂の玉山画『絵本太閤記』     はこれまで咎められることもなく無事出版できていた。それでおそらくそれに触発されたのであろう。江戸の歌麿、     豊国、春英・月麿・春亭・一九たちも便乗するように「太閤記」ものを出版してみた。ところが案に相違して、摘発     を受け入牢・手鎖に処せられてしまった。しかも累は『絵本太閤記』にまで及び、絶版処分になってしまった。どう     も大坂と江戸では禁制事項にずれがあるらしく、江戸の方がそれを読み違えたのかもしれない〉    ◯『摂陽奇観』巻四四(浜松歌国著)   「文化元年」   〝絵本太閤記 法橋山(ママ)画寛政九丁巳秋初編出板七篇ニ至ル江戸表より絶板仰せ付けらる、其趣意は右    の本江戸にても流行致し、往昔源平の武者を評せしごとく婦女小児迄夫々の名紋所など覚候様に相成、    一枚絵七つゞき或は三枚続きをここは何の戦ひなど申様に相成候ところ、浮世絵師歌麿と申すもの右時    代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候、    太閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい    清正酒えん甲冑の前に朝鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい、其外さま/\の戯画あり    右の錦絵 公聴に達し御咎にて、絵屋は板行御取り上げ絵師歌麿入牢仰せ付けられ、    其のうえ天正已来の武者絵紋所姓名など顕し候義相ならず趣、御触流し有り、猶亦大坂表にて出板の絵    本太閤記も童謡に絶板に相成候、初篇開板已来七編迄御許容有り候処、かゝる戯れたる紅摺絵もうつし    本書迄絶板に及ぶこと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり〟    〈大坂の浜松歌国は玉山の『絵本太閤記』を絶板に追い込んだのは浮世絵師・歌麿だという。その歌麿画の絵柄は「太     閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい。清正酒えん甲冑の前に朝     鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい」である。     さて、享和三年の「一枚絵紅ずりに長篠武功七枚つづき」の記事がよく分からない。「紅ずり」という言い方が気に     なる。享和三年の一枚絵に対して、当時の江戸は「紅ずり」という呼び方をするであろうか。「浮世絵師歌麿と申す     もの右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候」とも「かゝる戯れたる紅摺絵もうつし本書迄絶板に及ぶ     こと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり」ともある。この「紅摺絵」は歌麿に対して使っているのであるから、宝     暦頃の石川豊信たちの「紅摺絵」とは思えない。すると江戸でいう「錦絵」を大坂では「紅摺絵」と呼んでいたのだ     ろうか〉    ◯『街談文々集要』p29(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化元(1804)年記事「太閤記廃板」)   〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙      絶板被仰渡           申渡    絵草紙問屋                                   行事共                                 年番名主共      絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の      上夫々咎申付候      以来右の通り可相心得候    一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義      決て致間敷候    一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候    一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色      を加え候儀無用ニ候    右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。     此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候    若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候            子五月      此節絶板の品々    絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板     此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス    太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】    太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】    化物太平記【十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】    太閤記宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】    右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌    川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被    仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ    過料被仰付之。         「賤ヶ嶽七本槍高名之図」石上筆 (模写あり)           絵本太閤記絶板ノ話    寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人、絵本太閤記初編十巻板本、大に世にもてはやし、年をかさね    て七編迄出せり。江戸にも流布し、義太夫浄瑠りにも作り、いにしへ源平の武者を評する如く、子供迄    勇士の名を覚て、合戦の噺なとしけり、享和三亥年、一枚絵紅ずりに、長篠武功七枚つゞきなど出せり。    然ルに浮世絵師哥麿といふ者、此時代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ出せり。     太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正     甲冑酒、妾の片はらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形。    是より絵屋板本絵師御吟味ニ相成り、夫々に御咎めに逢ひ候て、絶板ニ相成候よし、其節の被仰渡、左    の通。    一 絵双紙類の義ニ付、度々町触申渡之趣在之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟味      の上、夫々咎申付候、以来左之通、可相心得候    一 壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候      儀、決て致間敷候    一 壱枚絵に、和歌の類、并景色之絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役者・遊女之名等ハ格別、其外詞書一      切認間敷候    一 彩色摺の絵本・双紙、近来多く相見へ、不埒ニ候、以来絵本・双紙墨斗ニて板行可致候       文化元甲子五月十七日    右ニ付、太閤記も絶板の由、全く浮世ゑしが申口故ニや、惜むべき事也〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に     かけての出版。つまり、歌麿たちの「太閤記」が出版される文化元年以前、大坂での「太閤記」ものの出版は禁制で     はなかったのである。(これは大坂という土地がらが影響しているのだろうか。大坂町奉行は看過してきたのである。     しかし寛政九年、もし玉山画『絵本太閤記』が江戸で出版されたら、江戸町奉行は摘発しなかっただろうか。やはり     処罰されたように思うのだが……。江戸だからこそ問題視されたともいえる)ともあれ、「太閤記」ものが江戸で評     判になるや否や画工・板元ともども処罰され、そのとばっちりが大坂出版の『絵本太閤記』に及んだのである。その     因となった作品を見ておくと、荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』は寛政十一年刊。虚空山人作・藤蘭徳(蘭徳斎     春童)画『太々太平記』は天明八年(1788)刊とあり、『街談文々集要』がいう享和三年(1803)のものは見当たらない。     『絵本太閤記』の評判にあやかって、この年、再版本を出したものとも考えられる。十返舎一九作・画『化物太平記』     は享和四年(1804)(文化元年)の刊行。さて最後、宝永板、近藤助五郎清春画の「太閤記」とあるのが、よく分から     ない。東北大学附属図書館・狩野文庫の目録に、近藤清春画『太閤軍記 壹之巻』なるものがあるが、あるいはそれ     を言うのであろうか。しかし、そのあとに続く、歌川豊国初代の記事「再板致候趣なりしが相止む」の意味も、それ     以上に分かりずらい。清春の「太閤記」を下敷きに、豊国が新趣向で再板するという意味なのであろうか。結局のと     ころ、企画倒れになってしまったようであるが、それならば「此節絶板の品々」に名を連ねるのは不自然ではないの     か。春亭と一九の「太閤記」ものが名を連ねるのは分かるが、藤蘭徳と清春の「太閤記」ものがどうして入っている     のか、よく分からない。ともあれ、以上が草双紙の絶版。     次に錦絵の方だが、勝川春亭のは未詳。豊国の錦絵は、この記事に言及はないが、『増訂武江年表』の〔筠補〕(喜     多村筠庭の補注)を参照すると、絶板に処せられたのは「豊国大錦絵に明智本能寺を囲む処」の絵柄らしい。また、     『筆禍史』の宮武外骨は、関根金四郎編の『浮世画人伝』を引いて「豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図     にして」とする。「豊国等」とあるから「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」が必ずしも、豊国画とも断定できないのだが。     参考までに言うと、『街談文々集要』には「賤ヶ嶽七本槍高名之図」という挿絵があり、これには「石上筆」とある。     さて、歌麿だが、『街談文々集要』は「太閤五妻と花見遊覧の図」をあげ、「絵本太閤記絶板ノ話」のところでは     「太閤御前へ石田児子髷ニて目見への手をとり給ふ處、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正甲冑酒の片ハら朝鮮     の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の絵をあげる。(「絵本太閤記絶板ノ話」は『摂陽奇観』の記事と内容がほぼ同じである     から、『街談文々集要』の石塚豊芥子が、大坂から来た『摂陽奇観』の記事を書き留めたのかもしれない)ともあれ、     『街談文々集要』の歌麿画「太閤五妻と花見遊覧の図」(これは宮武外骨著『筆禍史』の「太閤五妻洛東遊覧之図」     に同定できよう)が絶版になったことは確かである。問題は「太閤記絶板ノ話」の記事の方にある。これは二つの錦     絵を取り上げたものと考えられる。すなわち「太閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女     袖をおおひたる形」の錦絵と「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の錦絵と。「太閤記絶     板ノ話」の記事にも、そのもとになった『摂陽奇観』にも「太閤五妻と花見遊覧の図」の画題はないが、前者の「太     閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形」こそ、その絵柄からして「太     閤五妻と花見遊覧の図」に相当するのではないか。すると、歌麿が手鎖に遭ったのは複数の「太閤記」ものというこ     となるのだが、実際のところはどうだろうか。なお、後者の方「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ     舞たる形」の画題は未詳。現存するものがあるかどうかも定かではない。     いづれにせよ、この「太閤記」一件で「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・     合印・名前等紛敷認候儀、決て致間敷候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである〉
    「太閤五妻洛東遊覧之図」三枚組左 三枚組中 三枚組右 歌麿筆 (東京国立博物館所蔵)
    『絵本太閤記』 法橋玉山画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
    『化物太閤記』 十返舎一九作・画 〔『筆禍史』所収〕    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇(文化元年・1804)2p30   〝〔筠補〕五月十六日、「絵本太閤記」絶版仰付られ候趣、大坂の板元に仰渡され、江戸にては「太閤記」    の中より抜出し候分も残らず御取上、右錦絵を書たる喜多川哥麿、歌川豊国など手鎖、板元十五貫文過    料の由、絵草紙屋へ申渡書付あり。これは其の頃「豊国大錦絵」に明智本能寺を囲む処、其の外色々書    きて咎められしに、「絵本太閤記」によりたる由を陳言せしかば、「絵本太閤記」に災及べるなり。こ    の絶版は惜しむべし〟    〈〔筠補〕とは喜多村筠庭の補注。『絵本太閤記』(武内確斎作・岡田玉山画)は寛政九(1797)年~享和二(1802)年刊。     豊国の絵は「明智本能寺を囲む処」で、次項『筆禍史』は「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」とする。このあたり豊国が     複数の「太閤記」もので検挙されたのかどうか、判然としない。ともあれ、岡田玉山の『絵本太閤記』に拠ったとい     う、豊国らの自白が決め手となって、『絵本太閤記』が絶板処分になったと、〔筠補〕の喜多村筠庭は見たのである〉    ◯『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」〔文化元年(1804)〕p100(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太平記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり      〔頭注〕喜多川歌麿    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖のあまり、心せきて玉山が著したる絵本太閤記の事を申述べたりしによりて、同書も出板を禁ぜられ    たるは、此道のために惜むべく、且板元に対して気の毒にて、己れ一世の過失なりと語れりといふ、さ    れば絵本太閤記が七編までにて絶版になりしは、これが為なりと『浮世絵画人伝』にあり    歌麿絵本太閤記の図を出して御咎を受たり、其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく死す    と『浮世絵類考』にあれども、其再度の御咎といふ事真否不詳なり         化物太閤記 十返舎一九作画 黄表紙二冊 山口屋忠兵衛版       享和四子初春(即文化元年)出版      全編悉く化物の絵と物語のみなれど、其化物の紋所又は旗印等に戦国次代の諸将即ち織田、明智、      真田、豊臣等の紋又は合印を附けて諷刺の意を寓しあるなり〟    ☆ 嘉永二年(1849)
 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p457(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「珍説集【正月より六月迄】」   〝当春錦絵の出板、当りハ    一 伊勢太神宮御遷宮之図、  三枚ツヾき、   藤慶板    一 木下清洲城普請之図、   三枚続、     山本平吉    一 羽柴中国引返し尼崎図、  足利尊氏ニ書、  同人    一 姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死、是を粟津合戦今井四郎ニ書    当春太閤記の絵多く出候ハ、去年八月蔦吉板元にて今川・北条との富士川合戦、伊藤日向守首実検の図、    中浦猿之助と書、村田左兵衛の改ニて出たり、此絵ハ首が切て有故に不吉なりとて、余り当らず候得共、    是が太閤記の絵の最早ニて、当年ハ色々出しなり、又夜の梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、    三枚続出て大当り也、夫故に当春ハ夜の梅の墨絵三枚ツゞき凡十番計出たり、是皆々はづれなり。      太閤記の画多く出板致けれバ       小田がいに摺出しけり太閤記         羽柴しまでも売れて豊とミ       夜るの梅昼は売れなひものと見へ〟   〈「太閤記」に取材した錦絵の出始めは嘉永元年(1848)の「富士川合戦」からという。宮武外骨の『筆禍史』によれば、    「太閤記」は受難が続き、古くは元禄十一年(1698)に絶版処分があり、文化元年(1804)には、岡田玉山の『絵本太閤    記』と草双紙武者絵が絶版処分に遭っていた。この時は画工にも累が及んで、喜多川歌麿・歌川豊国・勝川春亭・同春    英・喜多川月麿・十返舎一九等が吟味のうえ手鎖五十日の刑に服していた。今回の「太閤記」ものは、少しは緩んでき    たとはいえ、天保の改革の記憶が生々しい時世での出版である。リスクの高さは予想された。定石通りというか、お上    を憚って木下藤吉郎を中浦猿之助に替えて「富士川合戦」を出版してみた。しかし杞憂にすぎなかった。ただ、首が切    れているのが不吉だとして売れ行きはよくなかった。板元にとっては当てが外れた格好であったが、これはこれで一種    の観測気球にはなったようだ。この程度ならお咎めがないという目安が出来たからだ。この「富士川合戦」は未見。こ    の嘉永二年正月の「木下清洲城普請之図」「羽柴中国引返し尼崎図」「姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死」が「太閤記」も    の。このうち「木下清洲城普請之図」は一勇斎国芳画。あとの二図は未見。「伊勢太神宮御遷宮之図」はこの年の九月    に行われる二十年に一度の式年遷宮を当て込んだもの。国芳にもあるが、藤慶板とあるから玉蘭斎貞秀画である。「夜    の梅」の嘉永元年蔦吉板とは渓斎英泉画か、また嘉永二年板の方は国芳画などをいうか〉
      「木下清洲城普請之図」 一勇斎国芳画 (「森宮古美術*古美術もりみや」提供)    ☆ 嘉永三年(1850)
 ◯『藤岡屋日記 第四巻』p115(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」   ◇絶版・板木没収処分    〝四月廿四日之配りニて、紫野大徳寺信長公焼香図。     照降町蛭子屋仁兵衛板元ニて、芳虎画、大法会之図と大焼香場之図を三枚続きに致し出候処、秀吉束    帯ニて三法師君をいだき出候処の図也、是ニてハ改印六ヶ敷候ニ付、村田佐兵衛へ改ニ出候節ハ三法師    をのぞき秀吉計書て割印を取、跡ニて三法師を書入たり、是ニていよ/\焼香場ニ相成候ニ付、大評判    ニて売れ候ニ付、同月廿八日ニ板元上ゲニ相成候、五月六日落着、絶板也。      三の切能く当たったる猿芝居       南無三法師とみんなあきれる    〈板元は、改め名主・村田佐兵衛に、問題になりそうな所を取り除いて差し出し、出版許可をもらう。だが、実際の売     りだしには原画と同じものが配られた。禁じられている「太閤記」ものであるから、おそらく板元も絶版覚悟の出版     であったろう。評判になれば、短期間で大量に売れる。当局の手の入る頃には売り抜けて、板木の方は用済みという     計算なのであろう〉           同日の配りニて、馬喰町二丁目山口藤兵衛板、貞秀が画ニて大内合戦之図、大内義弘家臣陶尾張守謀叛    ニて、夜中城中へ火を懸候処、いかにも御本丸焼の通りなりとて評判強く、能く売れ候ニ付、御廻り方    よりの御達しニ有之候哉、五月三日ニ懸り名主村田佐兵衛、板元を呼出し、配り候絵買返しニ相成、板    木取上ゲニ相成候よし、五月六日落着、色板取上ゲ。      能く売れて来たのに風が替つたか       つるした絵まで片付る仕儀      異国船焼討の図の絵も出候由、いまだ分明ならず、焼香場ニて      せふかう(小功・焼香)で当てたいかう(大功・太閤)立る也      又々五月中旬、日本橋元大工町三河屋鉄五郎板元ニて、国芳之画三枚つゞき、真那板ヶ瀬与次郎灘之図、    豊臣太閤、肥前名護屋引返し之処、長門下之関ニて大難船、毛利家の船ニ助られし処の図、国芳筆をふ    るひ候得共、余り人が知らぬ故に売れず〟
    「豊前国与次兵衛難之図」 一勇斎国芳画 (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p138(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇高松城水攻め図・芳虎画    〝六月十七日頃配り     芝神明前和泉屋市兵衛板元ニて、芳虎画六枚続き、高松水責の図、大評判にて、同廿五日ニ引込ス也。    是ハ太閤記備中高松城水責に候得共、城一面水びたしに相成候処は大海の如くにて、舟より三重の櫓へ    石火矢を打懸候処の勢ひおそろしく、さながらイギリスが浦賀へ押寄候ば如斯ならんと有様を見せしな    らん、初め懸り名主改之節は三枚続二つに致し改、石火矢もけむりも無之候間、右程すさまじくも無之、    名主も心付ず、割印出し候処に、彩色にてけむり付候ニ付、おそろしき有様ニ相成、唐人が御城を責る    に尤(異カ)ならずとて、右配り候絵を引込せ、石火矢を除き、出し候様にとの事也。       もふけるをせん市向ふみづ仕懸け〟