Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ すりし 摺師浮世絵事典
   摺 師(十返舎一九作・画 黄表紙『的中地本問屋』挿絵 享和二年(1802)(早大・古典籍総合データベース)    彫師 摺師(歌川美丸画 古今亭三鳥作 合巻『艤浮名取楫』挿絵 文政二年(1819)(国書データベース)   <摺師>〈下掲「版画手摺に就いて」小松宗徳(『浮世絵』第弐拾三(23)号)をまとめたもの〉   △墨摺 活版印刷が普及する(明治十年前後)以前の印刷物のほぼすべて        墨板のみ(見当なし)一日六千枚   △色摺 錦絵・団扇絵       墨板(地墨板)・色板(見当を使って色ズレしないように摺る)       色板 明治二十年以前           絵師:原画(墨線のみ)を画く           彫師:墨板を彫る            摺師:墨板から校合摺(美濃紙)を摺る           絵師:校合摺に文字で色指(いろざ)し(色指定)する           彫師:色指しをもとに色板を彫る           摺師:彩色原画はないから、色の対比・濃淡などを加減して摺る          明治二十年以降           絵師:彩色原画を画く           彫師:墨板を彫る           摺師:原画に拠って色指しを行う〈絵師の色指し工程を無くした〉           (以下同じ)   △熨斗屋 手拭の上包紙・銀貨入れの小袋など    (のしや) 墨板のみ(ドブ摺(ドブヤ)とも呼ばれる)    ◯「百人一首年表」(安永四年刊)   『錦百人一首阿川万織』色摺(口絵・肖像)〔跡見473〕    奥付「画図 武陽 李林勝川祐助藤原春章」「彫刻 同 井上新七郎/摺工 同 山本源七郎」    雁金屋清吉・義助板 安永四年正月刊    〈作品の企画段階から起用する摺師を決定していたのであろう〉    ◯「百人一首年表」(文化十年刊)   『定家撰錦葉抄』色摺(口絵・挿絵・肖像) 大坂〔跡見338〕    奥付「画工 石田玉山」「彫刻師 浪花 市田次郎兵衛 同 定七郎/色摺師 同 岩井平兵衛」    米田清右衛門版 文化10年1月刊    〈「百人一首」としては珍しく口絵・挿絵・肖像すべて色摺。摺師の名が載るのは異例〉    ◯「百人一首年表」(文化十二年序)   『手習百人一首』「蕙斎筆」色摺肖像 巻末「摺工 大海屋一貞」文化十二年序〔目録DB〕  ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳〔『江戸叢書』巻の八 p28〕)   (「絵双紙と作者」)   〝やう/\文化度より、卦算廻しといふ画始りぬ、声のどかに一枚絵双紙と売来るも次第にうせたり、此    一枚絵といふは他図にて賞する江戸錦絵にて、吾が父常に物語られしは後世恐るべきは天明安永の頃は、    錦絵の板に彫るに下絵の如く役者の目の下なんとうすく色どるを、ボカシいふ事奇工のさまざま出たれ    ども是を彫る事あたはず、是をすりわくる業を知らずといひしが、今はボカシのみかは白粉さへ其まゝ    すりわけ、髪に面部の高低までも彫分摺わくる、奇工妙手の出来たりといはれき〟    〈この記事は文化期以降のもの。明和の錦絵出現後、錦絵の彫り摺りの技法は長足の進歩を遂げたという。天明頃まで     摺り分けられなかったボカシが今では可能となり、更に白粉(胡粉)さえ摺り込むことができるようになったと。ま     た「髪に面部の高低」の「高低」とは凹凸という意味であろうから、髪や顔面の表現にも「空摺り」や「きめ出し」     といった技法が自在に使われるようになったというのである。この時代は、画工のみならず彫り・摺りの面でも「奇     工妙手」が出現した時代なのである〉  ◯『浮世絵』第弐拾三(23)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「版画手摺に就いて」小松宗徳(20/24コマ)   〝(前略)私は明治十三年から、五十八歳の今日まで摺師として世を送つて来たのですから、摺方の変遷    も親しく実地を見て存じて居ります。(中略)木版の摺師には、墨摺色摺の二種類があり、此の外に    熨斗(のし)屋といふ一派がありました。これは今も継続して居つて、手拭の上包紙や、銀貨入れの小袋    などを摺るのを専業とするものです。     摺師は沢山ありましたが、錦絵を摺るものは、其の頃から多くはありませんでした。さて其の時分に    は、今のやうに彩色の完成した原稿があるわけではなく、例へば美人画を描くにしても、絵師が筆を下    すのは其の墨線のみです。此の墨線の絵を彫師に彫らせた板を地墨板(ぢずみいた)と云ひ、此の絵が今    仮りに色数十遍あると致しますと、生美濃(きみの)に十枚の校合を摺つて絵師の手に渡します。絵師は    其の十枚の校合(けうがふ)に朱又は紅で草は草、黄は黄、赤は赤と各色指をして、尚ほそれに一々文字    で色の名を書き添へ、彫師に廻はして彫らせます、此の彫り上つた板を色板と云つて、摺師は板シラベ    とて摺り合せます。しかし彩色の原画がありませんから、たゞ絵師の指定によるだけで、例へば薄藍と    記してあつても、其の濃淡の度合は、たゞ摺師の頭脳(あたま)で加減するだけですから、仲々むずかし    いものです(中略)後に至つては、着色の方法が変り、絵師の画いた原画によつて、一たん墨板に彫り    上げたものに、更に原画に従つて摺師が色指(いろざし)をすることゝなりました。これは明治二十年頃    で、その時分から近年までの色指は、絵師の処へ持つて行かなくなりました。     墨摺と色摺とは各々異なつた伎倆を有するもので、両者は全然その特長を異にして居りました。昔は    活版などがないため、色々の印刷物は、大抵この墨板の手摺でしたので、墨摺職工も非常に沢山居りま    した。この墨摺には、木製の硯で、篦を以て溶いた墨汁(すみしる)を用ひますので、その身体に一種の    異臭が泌み着いて居るために、色摺職工は、墨摺職工をドブ摺又はドブヤと称し軽蔑して、往々彼此の    仲間に、衝突を起すことなどがありました。さて此の墨摺専業の人達は、見当(けんとう)といふことを    知りませんから、色摺ものをやることは出来ません。併し又、色摺の方の人は、何か忙しい仕事があつ    て、墨摺の方へ補助に行つても決して仕事は捗らないのであります。     一体、墨摺の板は、板一パイに彫つてあつて、見当を附ける必要なく、ツマミといつて、六千枚程の    紙を積み上げて置いて、片端から摺上げ、一日位でこれだけを終るのであります。かやうに積上げた紙    の中には、紙のスキヾレなどで役に立たぬものも多く交つて居りますから、一々それ等を跳除(はねの)    けて、摺上げた分の小口を食違はせて、五枚毎に一二寸明け、百枚なるのは見る丈けで知れます。だか    ら積上げた後に至つて容易(たやす)く計算し得るやうになります。色摺ばかりやつた人には、この紙の    食違へに並べることが出来ません。そして一々見当をつけて摺る習慣がありませんから、墨摺の人のや    うに手早くは仕上げられません。熨斗屋ものなども、やはり錦絵等を専門にやつて居る人には数多く出    来ぬから不向です。故に自ら色摺の方では錦絵と団扇絵位が専業となります。     昔は何千人と数へられた墨摺師も、活版の術が開けたので昨今では皆無になつて了(しま)ひました、    色摺師も亦大阪で木版を機械刷にすることが発明されたので、多く仕事を奪はれましたから、余程減少    しました。     斯様(かやう)に主要なる仕事は一たんは石版大阪版の領分となりましたが、近来に至つて木版趣味が    向上し、錦絵団扇などの摺物は大分世人の注目を惹いて来ましたから、色摺は追々回復することゝ思ひ    ます、手拭の包紙、揉紙のナフキンのやうに数が少くて、極く廉価なものになると、石版でやつては割    に合はず、彫り方が異つてゐるから、機械にはかゝりません。下谷入谷辺には、内職のやうに摺つてゐ    る者を多く身受けます〟  ◯「刷師と江戸ッ児気質」画博堂 松井栄吉著(『錦絵』第十四号所収 大正七年五月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 今日でこそ地方の人もあれば種々の方面の人がなつて居るが、明治初年頃の刷師といへば殆ど江戸ッ    児のチヤキ/\で、江戸の一名物であつた位である。其の江戸ッ子児も博徒か臭い飯を食つたものか、    白徒連者(はくれもの)のなれの果てか、真面目の者は全く暁天の星で、入墨をしない者は無いと言つて    可い位であつた。      彼等の口癖の広言と言つたら    「手めえ達は職人だらう、意気地なし奴(め)、宵越しの金を持つのは江戸ッ児の恥だ、恥と云ふ事を知     つて居るか、知らなければ言つて聞かさう、職人と云ふ奴(やつ)は腕せえあれば一厘の金(ぜに)がな     くたつて驚く事はねえ、烏が「カア」と一声啼けば金になるのが職人だ、腕が金だ、夫れも先方(む     かう)から「頼む」と来ればしてやるんだ、金を貸さなければ仕事なんかするもんぢやねえ、腕を磨      け腕を、腕から小判が生れるんだ、手めえ達は乃公(おいら)の半分の腕があるかい、半分の腕があれ     ば立派な職人様だた、半分は愚か三分の一もあるめえ」      と云つた調子で、仕事にかゝる時でも手下を捉えて    「オイ、これから仕事だ、細具場(さいくば)を掃除しろ、手めえ達は不精で仕方がねえ、水鉢の水をと     りかへろ、恁(こ)んな穢ねえ水で仕事が出来るかい……」      今頃の職人に聞かしたら驚くやうな嶮幕(けんまく)である。      又初めて店に来た時は    「親方、新田幾許貸す」      と頭から切つて出る、新田とは「金を貸す」と云ふ事の符牒で、当時一分の事を「はいぶ」と云ひ、     二分を「ふりぶ」三分を「かちうぶ」と呼んだものである、前借が定(きま)ると、    「鳥渡(ちよつと)手軽に祈祷して来ます」     と言つてツヽ/\と出て行く、又バレンとけんと鑿を投げ出して金を借りて出かける、而して酔つ払     つて帰つて    「今日は安上りに綱(なは)を手繰つて来ました」     ご祈祷と云へば酒を飲むことで、綱を手繰るとは蕎麦を食ふと云ふことである、恁うして酔つ払つて    帰つて来て仕事にとりかゝる、仕事にかゝるのは好いが、一番後から始めて一番早く仕舞つて了ふので    あるから呆(あき)れる、仕事を仕舞うと早速手拭を肩にかけてお湯へ行くと云つた調子で、気儘の有り    丈けをしたものである。     昔は「朝八夕でん」と云つて朝八文持つて行くと 夕方の湯は無銭(たゞ)で入浴出来たもので、刷師    も朝風呂に入つて夕方は夕方で入つたものである。然し風呂と云つてもホンの烏の行水で、一浴でドン    ブリ浴びると夫れで好いのであるから、今先きお湯に行つたと思ふと直ぐ帰つて来る。     やつて居る仕事を見ると全く手の歩む様で、焦燥(じれ)つたくなるが、夫れでドシ/\仕上るのであ    るから驚く、要するに当時の一人前の刷師の仕事は、無駄手と云ふものが更になかつたものである。     明治初年の事を今から考へると、何事も隔世の観があるが、刷師も今から見ると全く一変したやうに    思はれる〟  ◯「日本版画について」(淡島寒月著『振興美術』第三巻第二号 大正八年二月)   (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p401)※(かな)は原文の振り仮名   〝木版画は大体、(一)画家(二)版木師(三)刷り師    の三拍子がちゃんと揃わなくっては駄目である。ところが、昔にあっては、この三拍子の内の刷り師だ    けがきわ立って熟達していたので、唯(ただ)単に絵師が満足するだけでなく画そのものまで非常に美し    い物が出来た。当時は原画をかく画家が、簡単に、赤なら赤と書いて置けば充分であった。時には画家    自身さえ想像だにしなかった色が刷師によって出されることさえあった。要するに当時にあっては、こ    の刷師と言うものに偉大な才能と力がなければならなかったので、刷師には画家以上の心得が必要であ    った。こんな理由で万一刷り師が劣いと来たら、まるで気分を壊してしまったのである。また、この版    画の中にも、同じ絵でありながら、一枚は一枚と色のちがったのがあったが、これは金銭なぞの都合で、    刷師が各々別々であったためである〟    〈版画の出来栄えを左右するのは版木師(彫師)と刷り師(摺師)の力量にかかっている。とりわけ摺師の器量によっては     版下絵師が想像する以上のものが下絵にもたらされるという。その具体例が下掲、野崎左文の伝える芳幾画〉  ◯『春城随筆』(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十五年十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※全角カッコ( ~ )は原文の振り仮名、半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記   ◇八五 錦絵の彫師と刷師(118/284コマ)     昔の錦絵では美人画に重きを置いた、されば彫師と刷師の苦心も亦美人画にあつた。彫師の方では頭    彫りと称して、顔や頭髪を彫るのが一番六かしいとされて居た。それ故普通の彫師は衣装其の他を彫り、    老手が頭彫りを担当したもので、それが出来上ると刷師の手に廻る。刷師の方でも最も骨の折れるのは    やはり面部や髪の毛等であつた。つまり筆者が如何に巧みに画を書いても、之れを旨く彫り又良く刷ら    ねば筆意が発揮しないので、此の意味に於て錦絵は一種の総合芸術であつた。従つて彫師と刷師はピツ    タリ腹を合せ、作者の気合を十分に心得ての上で無ければ成功せぬものであるが、どういふ訳か昔から    彫師と刷師とは非常に仲が悪く、常に何かと苦情を言うたりケチを附け合うたり、全く犬猿も啻(ただ)    ならぬ有様であつた。たゞ其の上に作者が在つて双方に対し絶えず八釜しくいふ為め、どうにか物が出    来上るので、彼等のみに任せて置けば仕事の成績は全く挙らなかつたに相違ない     彫師と刷師とは単に与へられた原稿通りに彫り、それを其の侭刷れば能事終るといふ訳で無く、前に    云うたやうに其の画家の心意気をよく理解せぬと、彫りも刷りも旨く行かぬ訳であるが、それに付今日    生き残つて居る彫師で、錦絵彫刻の奥義を心得て居る者の語る所によると、美人画を彫る者は若い者で    無いといかぬ、老人の彫つてものは、普通の人には分らぬけれども、其の道の者に見せれば、何処と無    く堅くて、生気に乏しい、若い気分が刀端に現はれて来て初めて画が生きて来る、それ故昔は美人画を    彫る者は常に遊郭に出入りした、それは単に道楽者が事に託しての遊びでは無く、やはり若い女に親し    まねばさういふ気分になれぬからであるといふた。芸術制作上に気分が大切であるとすると、之れも一    理あることだ。  ◯「明治初期の新聞小説」(野崎左文著 昭和二年刊)   (『増補 私の見た明治文壇1』p80 東洋文庫 平凡社 2007年刊)   (八)新聞挿画の沿革」1   〝芳幾の作をその下絵で見るといつも貼紙をして改描(かいべう)した痕跡を存(そん)し、又線書きも肉太    で別に綺麗な絵だとの感じも起らぬが、一旦剞劂師の手を経て刷上つた処を見れば、殆ど別人の筆かと    思はれる程優美なものに出来上り、且その画面に艶気(つやけ)を含んで居るやうに見えた〟    〈芳幾の描き直しの多い線の太い版下絵も、彫師と摺師の手にかかると、まるで別人の筆かと思われるほど変貌して、     優美さと艶気がそこに生まれてくるというのである。芳幾の意を汲んだ彫師と摺師が、芳幾が望むような出来栄えを     実現する、別にいえば版下絵にはない優美・艶気を、彫師と摺師の器量が可視化するのである〉  ◯『小精廬雑筆』(市島春城著 ブツクドム社 昭和八年(1933)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(56/261コマ)    ※全角カッコ( ~ )は原文の振り仮名、半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記   ◇二四 亡びんとする木版彫刻    (彫師記事は省略。本HP「浮世絵事典」の「彫師」を参照のこと)     彫師と姉妹関係のあるのは摺師である。彫刻がいくら精良でも、摺りがよくなければ、彫の成績が決    して発揮されぬ。だから、彫師と摺師とは同心一体で、その呼吸がピツタリ合はねばならぬ。浮世絵の    ごとこ色版をいくつも重ねるものに於ては、摺り尤も大切で且つ熟練を要する。板を重ねるに就ては、    兎もすると板と板とが喰ひ違つて吻合しないこともあり勝(がち)だが決して斯かることは許されない。    美人絵の色版の内で口紅だけを点ずるに、他の紅色と異なるために一版を要するが、僅に一点だけを添    へるのであるから、少しでも位置が外れると全局のブチこはしとなる。上方では面倒がつて筆彩色でそ    れを点ずるが、江戸ではそれは版でないと云ふて取らない。流石に江戸の摺師はそこに見識がある。熟    達の摺師となると、手におのづから尺度があつて決して過つことがない。色の濃淡に就ても、刷の緩急    が大なる関係をもつ。人間の柔かい手で、うまく加減するのでそこに機械の能くし得ないフツクリした    味が出る。絵の原作に比して、幾等(いくら)優れたものが印刷されるのは、全く摺師の働きである。     摺師の武器とも云ふべきバレンと櫛形の製作を聞くに、その用ゆる材料によつて三種に分かる。第一    は竹の皮の繊維をより合せたもので、これが最も広く用ひらるゝ。第二は捻紙條(コヨリ)をより合せ    これに渋を引いたもので、アタリの軽い印刷に用ひる。第三は鉄線(ハリガネ)をより合はせたもので    金銀箔を摺る時に使ふ。材料が何であらうと、四本捻、八本捻、十二本捻、十六捻と、適当に組糸風に    より合せ、それをうづ巻線香の形に巻上げ、更にこれを竹の皮で包むのである。包み方にも呼吸がある    といふ。すべてより方は指先の破れるほど堅きを要する。八本念が一番使い頃だとしてゐる。鉄線バレ    ンはもと京都職人の秘伝であつたが、今は広く行はれてゐる。     櫛形は刷毛の一種で、墨摺りに私用する。大きさは三寸乃至(ないし)三寸五分。馬のエリ毛で拵へた    ものを、摺師の手で毛先を焼き、鯁(ママ)皮でそろ/\とおろし、天鵞絨のごとくシナヤカにして使ふ。    中本から大半紙本まで縦に四度、横に三度刷毛を使ふのが定法である。色摺用の刷毛は大小幾種か要す    るけれど、概して寸法は櫛形よりも小さい。墨摺りツケ墨は、折れ墨を漬込んでから一年位の所が最も    よい。余り古くなると、膠が薄らぎ過ぎてよくない。駄物にはドブと称する劣等墨汁を用ひる。色摺の    絵具に、姫糊を交ぜたり、奉書摺に水飴を使つたり、刷毛の代りにタンポを用ひたり、バレンの代りに    掌でこする場合などもある〟    〈櫛形はブラシのこと。鯁(ママ)皮は鮫(さめ)皮か〉  ◯『浮世絵と版画』p102(大野静方著・昭和十七年(1942)刊)   〝版画色摺の方法は十五遍の色摺なれば、一枚一色の色板十五枚即ち十五回一枚の絵に摺込むのである。    その中でも充分に色を出すため同一の色を二回重ねることあり。濃淡二色に摺重ねる場合もあるので、    指定された色数よりも増加する場合が多いのである。従って色板には各種の工作を加へたものがある、    それは左の如き種類である。     板ぼかし 普通の色ぼかしは平面な色板へ絵の具をぬり、ぼかすべき個所を布以て拭ひ取りて摺るの     であるが、之はぼかすべき個所を色板の面を削り下げて、摺れば自然にぼけるやう工夫したるもので     ある。透屋の羽織などの透し、顔面の肉隈、これは「きめ込ぼかし」と称するが、等に用ひられる。     懸け合 之は摺方をいふのであるが、例へば十色摺と制限された場合、猶一色草色を欲せば藍と黄の     色板を摺重ねて草色を出すの類である。この方法は木板色摺の一特色であつて、この懸け合せは皿で     配合して作つた色とは味ひを異にし、版画独特の色調を呈するもので、濃色の場合は殊に其効果が大     きい。されば板木の上で諸種の絵具を調合することが多い、今日の写真三色版などゝ同じやうな方法     である。     正面 正面彫研出しともいつてゐる。絵具を用ひず、絵の表面を馬楝にて磨し光沢を出すのである。     黒繻子、黒地に模様を現はす等に用ひられる。頭髪の毛筋を現はすに用ひらるゝこともある。普通板     下画の張込は裏返しであるが、この板へは表を向けて張込むゆゑに正面彫の称がある。     カラ摺 綾、綸子等の衣裳或は襖地などへ鞘模様等を現はす、白地へ絵の具なしで摺り出すものであ     る。     布目 潰しに彫りたる板面に糾(いと)を貼附し絵具なしに摺りて、布目を現はすので、これは摺工の     技巧に待つものである。   摺師の技術は絵具の配合・塗方・馬楝の使ひ方等各種あるが、毛髪の細線など一筋もモタレずに鮮明に摺   上げんとする場合、彫刻師の刀法に当を缺き居るものある時は、刷毛にかゝりて満足に墨が塗れず、完全   に摺上ぐることは不可能で、刀法が正当でないといかに優れた摺工でも美事には摺上らぬといふ。又絵具   のつけ方、馬楝の動かし方等に依つて一枚毎に多少異つた結果を生ずるわけで、摺合せの極めて調子よく   出来たものが真に価値ある版画として版画として尊重されるのである〟