Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ すめひめ 寿明姫浮世絵事典
 ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『増訂武江年表』2p(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (嘉永三年・1850)   〝六月二十六日より三日間鳴物停止、西丸御簾中寿姫(ママ)逝去の故なり(法号澄心院。此の君少し跛(ビ    ツコ)なり。歌川国芳筆三枚続きの錦絵女医師のもとに療治を受くる図中に、美婦の下駄と草履とを、か    た/\に履きたるを画きしは、此の君の事を諷せしものなりといふ)〟    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩159(塵哉翁著・嘉永三年(1850)記事)   〝嘉永三庚成年、右大将家祥公御簾中澄心院様御逝去、一条殿姫君寿明君、御祥日六月廿四日、御内実は    六月四日暁、御出棺七月三日、御別当春性院    去酉年九月十五日、京都御出輿、十月三日御着城、同十五日御縁組御弘被仰出、十一月廿二日、西丸御    入輿御婚礼〟    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p142(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇寿明君御逝去    〝嘉永三年六月廿四日、右大将家定公二度目御簾中寿明君御逝去之事    一条関白実通公息女、同大納言忠香卿之御妹君なり。     西丸御簾中寿明君御逝去、御年廿八日、御法号澄心院殿、東叡山葬、御別当。    (中略)    嘉永三戌年五月廿七日より、御簾中様御発病之由、六月六日之夜御逝去之由〟   〝落首 三尺の身丈けのものを壱丈(一条)とさすは姉御(姉小路)のつもりそこない〟      ◇寿明君御逝去余波 p146   〝七月三日、阿部伊勢守病気にて引込候処に、街の風説/\にて、因州養子一件に懸り合に付、切腹いた    し候共、又は西丸御簾中様御逝去一件に付、右大将様御尋に、なぜあの様成病身者を貰ひ来り候哉と被    仰しにより、伊勢守、姉ヶ小路、両人ながら引込候よし、専ら評判致し候処に、同七日朝出勤致し、八    日朝上野御法事ぇ参詣有之候。      阿べこべの悪魔がいでゝきたるとも吹払ふたる伊勢の神風〟    〈嘉永二年(1849)十一月、一条忠良の娘・寿明姫が、次期将軍・徳川家定の正室として京よりお輿入れになったが、そ     れ以前から、この寿明姫には次のような噂が流れていた〉      ◇「変名問答」(『藤岡屋日記 第三巻』p561)   〝(嘉永二年七月)変名(ヘンナ)問答    纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。    右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも    ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東    御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ    ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ    ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承    知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是    非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無    之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟    〈寿明姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていた。翌、嘉永三年(1849)の国芳画「【きたいなめい     医】難病療治」はこの噂を穿ったものとされている。それにしても、幕府・朝廷間の道具にされたうえに、酷い噂を     立てられ、結婚後一年も経たずして亡くなった薄倖の身の上には心が痛む〉
   「【きたいなめい医】難病療治」 一勇斎国芳戯画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)