◯『春城代酔録』(市島春城著 中央公論社 昭和八年(1933)十二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝 蹄斎北馬は『三国妖婦伝』や『自来也物語』などの挿絵で知られてゐる浮世絵師である。此人は幕府
の小吏であつたが、家を弟に譲つて北斎の門に入り、糊口の為めに北斎の助筆をした。なか/\器用な
筆の持主であつたので文晁の気に入り、文晁にも助筆を頼まれた。ある時文晁其家を訪うて見ると、北
馬は頻りに文晁から頼まれた画に細紋を書き込んでゐたが、をかしなことには左手のみ用ゐてゐるので、
何故かと不審を打つと、北馬は漸く筆を収め、妙な所がお目に留まりました。斯く露顕に及ぶ上は、包
むやうもありません。実は北斎の門に入つて号の一字を貰ひ、それで生活してゐる恩誼もあれば、それ
を棄てる訳には参らぬ。さりとて折角先生のお見出しを受けた恩誼もあれば、右の手を北斎に捧げ、左
の手を先生に捧げることにした、との答を聴き、文晁も驚き且つ義理の堅いのみ感じたが、左手の筆の
働きは自在であつたので、文晁は此助筆を珍としたと云はれてゐる。
此一小話は文晁が浮世絵師の助筆を持つてゐたことを語ると共に、北斎にも亦助筆があつたことを語
るものである。曾て見た文晁の極彩色の関羽の服装に金泥の繊細の文様があつたが、恐らくあんなこと
は北馬あたりが助筆をしたものかも知れぬ。北斎にしても、要部は自身で書いたであらうから、或る部
分を助筆せしめたからと云うても、それは無難に通つてゐるに相違ない。
浮世絵師に於て、他の一例を挙げれば、初代豊国である。あの忙しい絵師は、輻輳してゐる画を一人で
なか/\書き切れなかつたので、門人に助筆をさせた。門人の誰れに助筆をさせたかと云ふと、国虎な
が其の一人である。その確証は早稲田の演劇博物館に蔵してある一幅の文書が之れを示してゐる。尚ほ
傍証となるべきものが坪内逍遥翁の書斎に蔵されてゐる。それはいろ/\の婦人の面貌と頭髪を豊国自
身が書いたものであつて、幾十となくあるが、皆余白の無いまでの断ち剪つたものだ。これは前年翁が
豊国研究をやつた折、豊国の遺族を訪うて割愛を得たものだと云ふが、何の為めに斯様なものが書かれ
てあるかと云ふと、門人に助筆をやらせる時の用に供するもので、草稿にそれを貼りつけて、衣服その
他は門人に委(まか)するのである。云ふまでもなく美人絵に最も難しとするはその面貌と頭髪にある。
読本や草双紙などになると、同じ人物が各頁に現はれて、喜怒哀楽種々のエキスプレションが顔に現は
れねばならぬ。それを現はすことは、難きが上に難く、到底助筆の成し得る所でないから、豊国自身が
忙がしい場合に応ずる為め予じめ書いて置いたものである。乃ちこれが下職を使つたことを間接に語り、
傍証たるべきものである。
要するに画は他人の手を交へないのが本則であるけれども、事実に於ては他人の手が加つてゐるものが
いくらもある。厳格に云へば合作と云はねばならんが、要部に触れない以上敢て差支ないこととして、
許されてゐて、合作とは見做さぬ。図外れの大作だの、非常に手のこんだ繊細の図になると、助筆に委
しても大局に障りのない所が少からずある。門人もない貧弱の画師は別として、画の大工場とも見らる
べき繁栄の画家となると、下職が相当にあつたことを想像して強ち過(あやま)たないと思ふ。唯だ私の
寡聞はそれを説くのに十分の材料を有たないこと遺憾とする〟