☆ 元元禄年間(1688~1703)
◯『増訂武江年表』1p107(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(元禄年間・1688~1703)
〝小太夫鹿の子染物流行〟
☆ 元文年間(1736~1740)
◯『増訂武江年表』1p143(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(元文年間・1736~1740)
〝石畳の染模様はやる。市松形といふ。歌舞伎役者佐野川市松好みて着したるなり〟
☆ 延享年間(1744~1747)
◯『増訂武江年表』1p153(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(延享年間・1744~1747)
〝郡内微塵縞(ミジンシマ)衣類はやる〟
◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①238(森山孝盛著・享和二年(1802)序)
〝翁が竹馬の頃(本HP注、延享年間)は、扇屋染とて、丸く、四角、団扇、六角びしなどに形を交へ、其
中に、花鳥、唐草の類を色入にして、さま/\美しく染たり、子供の着べきものにて専ら用ひたり、多
分絹なりけり、貴賤共に、子供は大方扇屋染なり、今の板じめの類なり、又、横竪筋違に筋を立て、其
内に玉を大小いくらも交へ染たるを、歌舞妓役者の中村伝九郎が着たりとて、伝九郎染といひ、石畳は
若衆形の佐の川市松が着たりとて、市松と云ひ、うづまきは市川亀蔵が着たりとて、亀蔵小紋といふ、
横に雨ふり、是にいろ/\の筋を染たるを、嵐小六が着たりとて、小六染と云ふて、呉服屋者も多くか
の染の品を持来りて、人々の贔屓/\に、其染をとゝのへ用ひたり〟
☆ 宝暦年間(1751~1763)
◯『増訂武江年表』1p172(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(宝暦年間・1751~1763)
〝婦女の衣類、丁子(チョウジ)茶の色を好み、花簪(カンザシ)はやる。朱塗の櫛(旭の櫛といふ)象牙の笄
(コウガイ)も行はれたり〟
☆ 明和年間(1764~1771)
◯『増訂武江年表』1p186(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(明和年間・1764~1771)
〝三井親和が篆書行はれしより、親和染めとて篆字のかすれたる形を染物にする事行はる。又、婦女の衣
類表は無地にして、裏に模様を付くることはやる〟
〈「親和染(しんなぞめ)」の項参照〉
☆ 安永五年(1776)
◯『増訂武江年表』1p196(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(安永五年・1776)
〝此の夏遊冶(ユウヤ)の少年、木綿のひとへ物をはれとし好む。藍がへしといふ染なり。大丸屋にのみこ
れあり。模様剣先嘉房菊、これは本町壱丁目奈良屋の隠居が仇名なり。其の好みにて出来たる菊の小紋
なり〟
〈「遊冶の少年」とは道楽者。「はれ」は晴舞台の「晴」か。大丸専売、藍がえしの江戸小紋。模様は菊。その模様を呼
ぶに本町一丁目奈良屋(江戸町年寄の奈良屋市右衛門)の隠居の渾名を以てしたとあるが、「模様剣先嘉房菊」の意味
がはっきりしない。剣先とは襟と接する衽の最上部を云う、嘉房は渾名だろうが……〉
☆ 寛政年間(1789~1800)
◯『増訂武江年表』2p19(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(寛政年間・1789~1800)
〝堆朱染(ツイシュゾメ)衣類行はる〟
☆ 文化年間(1804~1817)
◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文化年間・1804~1817)
〝狂言袴の模様、遠州緞子の模様、又伊予染といふ染物はやる(伊予染とはいよ簾(スダレ)に比したる名
なるべし)
筠庭云ふ、文化の始めは長楽寺小紋大に行はる。其の頃横縞、其の後松葉色石畳市松ともいふ。これ
らもはやる。せいらつ格子縞は廃り果てたり。およ染は備前の産なり。縮緬に染む〟
☆ 天保五年(1834)
◯『増訂武江年表』2p89(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(天保五年・1834)
〝おつこちといふ詞行はる。染色におつこちしぼりといふもの出づ〟
☆ 天保年間(1830~1843)
◯『増訂武江年表』2p102(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(天保年間・1830~1843)
〝横縞の染物はやる〟
☆ 嘉永四年(1851)
◯『増訂武江年表』2p127(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永四年・1851)
〝海老色といふ染物はやる〟
☆ 嘉永五年(1852)
◯『増訂武江年表』2p132(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永五年・1852)
〝近年、一の字つなぎ二の字崩しといふ染物はやる。是れは町火消一番組二番組救火卒(ヒケシニンプ)の目
印なるを、それと知らで求むる人あり〟