☆ 文化十二年(1815)
◯『街談文々集要』p388(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化十二年(1815)記事「千寿催酒戦」)
〝文化十二乙亥十月廿一日、千住宿中屋六右衛門なるものゝ隠宅ニおゐて、酒合戦といふ事を催す。
是ハ慶安年中にありし、地黄坊樽次、大蛇丸底深と酒戦ありし古例に随ひ、興行せしト云々。
我友、酒席の有様を書して贈らるる、其詞雅ならざれど、註せしまゝを爰に誌るす。
其日中六隠宅入口の門に聯を懸ケ、其書
不許悪客【下戸理屈】入庵門 抱一書 トしるせり
玄関に袴を着せしもの五人、来客にとの位たべ候哉と承り候上にて、切手を相渡し、休息の座敷ぇ通す、
其上ニて酒戦の座ぇ請ず。
大盃、木具合、干肴【カラスミ/花しほ/サラサ梅】、又台【海胆(ウニ)鶉焼鳥】、吸物、鯉【角小口切】
見物所ハ、青竹手摺、毛氈舗有之。
屠竜公子 鵬斎先生 文晁仙聖、其外諸君子
酌人 妓四人
(以下、酒量の記録。酒戦の戯文、亀田鵬斎の「高陽闘飲序」及び蜀山人の「御水鳥記」等を収録。略)〟
◯『藤岡屋日記 第一巻』p179(藤岡屋由蔵記)
〝文化十二乙亥年十月廿一日
千住壱丁目中屋六右衛門が家にて六十年賀酒呑くらべ有之
(中略、酒量と氏名あり)
此席に亀田鵬斎・谷写山抔招れて見物せし也、是を新酒戦水鳥記と云。大田蜀山此事を聞、狂歌有、其
の詞書に
地黄坊樽次と池上某と酒の戦ひせしは慶安二年のことになん、ことし千寿の和たり、中六ぬし六十の
賀に酒戦を催せしときゝて、
よろこびのやすきといへる年の名を本卦がゑりの酒にこそくめ〟
◯『七々集』〔南畝〕(蜀山人著・文化十二年十一月二十一日)
◇②276
〝千住にすめる中屋六右衛門六十の寿に、酒のむ人をつどへて酒合戦をなすときゝて【かの慶安二年の水
鳥記の事を思ひて】
よろこ(慶)びの安きためしのとしの名を本卦がへりの酒にこそくめ
はかりなき大盃のたゝかひはいくらのみても乱に及ばす〟
◇「後水鳥記」②279
(蜀山人はこの酒戦の様子を『後水鳥記』と題して記している。それによると、中屋六右衛門の門前に
は「不許悪客【下戸理屈】入庵門」の聯が、禅寺の「不許葷酒入山門」をもじって掲げてある由。賓
客としては、屠竜公(酒井抱一)写山楼(谷文晁)亀田鵬斎)その他名家の諸君子とある。『藤岡屋
日記』によると、千住の松勘なる者が九升一合を呑み干したとある。なお「水鳥」とは、氵(水)+酉
(鳥)で「酒」のこと)
◯『甲子夜話1』巻之十一 p189(松浦静山著・文政五年(1822)記)
〝世に不益のことの多かるも、天の異行なるべし。聞たるは忘れ易く、棄たるは得難がたし。無用のもの
のものも再視んと欲するときは由なし。過にし頃人の贈りし文あり。
文化十二年十月廿一日、千住宿壱丁目中屋六右衛門 六十賀酒戦
伊勢屋言慶 吉原町にすむ。六十二歳。三升五合余のむ
大阪屋長兵衛 馬喰町に住。四十余。四升余をのむ
市兵衛 千住掃部宿住。万寿無量杯にて三杯のむ。この杯は一升五合入
松勘 千住人。五合のいつくしま杯、七合盛の鎌倉杯、九合盛の江島杯、一升五合の万寿無量
杯、二升五合の緑毛亀、三升の丹頂鶴にてこと/\くのめり
左兵衛 下野小山人。七升五合のむ
大野屋茂兵衛 新吉原中の町大野屋熊次郎が父。小盞数杯のゝち万寿無量杯にてのむ
蔵前正太 浅草御蔵前森田屋出入左官。三升飲
石屋市兵衛 千住掃部宿の人。万寿無量杯にてのむ
大門長次 新吉原住。水一升、醤油一升、酢一升を三味線にて拍子をとらせ口鼓をうちのむ
茂三 馬喰町人屋。三十一。緑毛亀をかたぶけつくす
鮒屋与兵衛 千住掃部宿人。三十四五。小盞数杯の上、緑毛亀をつくす
天満屋五朗左衞門 千住掃部宿人。三四升のむ
をいく 酌取の女。江島、鎌倉などにて終日のむ。
をふん 同上
天満屋みよ女 天満屋五朗左衞門妻。万寿無量杯かたぶけ酔たる色なし
菊屋をすみ 千住人。緑毛亀にてのむ。
料理人太助 終日茶盌などにてのむ。はてに丹頂鶴をつくす
会津の旅人河田 江島よりはじめて、緑毛亀にいたるまで五杯を飲みつくし、丹頂鶴をのこす
鵬斎詩并序
千寿中六、今茲に六十。自ら初度の筵を啓き、大いに都下飲士に会ふ。皆一時の海竜也。各一
飲一斗、或は四五斗を傾る者有り。太平の盛事と謂つべし。古人酔人を以て太平の瑞と為す。
宜なる哉。其の座に在りて親く之を観る。時に文化十二年乙亥冬十月廿一日也。
海竜群飲珠を争ふに似たり 雙手擎来五湖を傾く、
是伯倫七賢の侶にあらずんば 定て応に李白八仙の徒なるべし
かの地黄坊樽次と池上何がしと酒のたゝかひせしは慶安二年の事になん。ことしは千寿のわた
り中六ぬし、六十の賀に酒戦をもよほせしをきゝて
よろこびのやすきといへる年の名を本卦がへりの酒にこそくめ
酒戦の日の床にかゝげし掛幅は南畝が書なり
犬居目礼古仏座礼失求之千寿野〟
〈松平定信と寛政の改革を推進した松浦静山にすれば、この酒戦は不益・無用のものだが、しかし天の奇行とでもいう
べきものであり、無視するには忍びないというのだろう〉
☆ 文化十四年(1817)
◯『藤岡屋日記 第一巻』①195(藤岡屋由蔵・文化十四年(1817)記)
〝文化十四丑年三月
両国柳橋万八楼にて、大食・大酒之興行連中稀人之分左ニ記ス。
菓子組
饅頭五十 ようかん七棹 薄皮餅三十 神田 丸屋勘右衛門 五十六才
鰻頭三十 鴬餅八十 松風煎餅三十 八丁堀 伊勢屋清兵衛 六十五才
跡ニ而沢庵香物切らず丸ニ而五本喰ひ申候
美作餅三十 煎餅弐百枚 梅干壱升 茶十七盃 丸山片町 安達屋新八
饅頭三十 小形落雁弐升程 ようかん三棹 千住百性 武八
甘酒茶椀ニ五十三盃 菜漬三把 麻布 亀屋左吉 四十一才
右菓子連、弐三十人有之候得共、格別之大食も無之候ゆへ記し不申候。
蒲焼鰻組
筋うなぎ 代金壱両三分 本郷春木町 芳賀屋幾右衛門
中筋うなぎ 代金壱両壱分弐朱 飯五盃 深川仲町 万屋吉兵衛
同うなぎ 代金壱両弐分 めし七盃 浅草七盃(ママ) 岡田千蔵
同うなぎ 代金壱両弐分 めし五盃 両国米沢町 米屋善助
右之外、代金壱両以下ハ余多有之候得共、しるし不申候。
酒組
三升入盃ニ而三盃 直ニ皆々ぇ一礼述立帰る 小田原町 堺屋忠蔵
二升入盃ニ而六盃半 其座ニ而余程之間休息致し、 芝口 鯉屋利兵衛
目を覚、茶椀ニ而水十七盃呑
五升盃ニ而壱盃半 直ニ罷帰り、 小石川春日町 大坂屋喜左衛門
聖堂前大手ニ倒、明七ツ時迄相臥
五合入盃ニ而十一盃 跡ニ而五大力を唄ひ、 本所石原 美濃屋義兵衛 五十一才
茶を十四五盃呑
三合盃ニ而廿七盃 跡ニ而飯三盃、茶九盃呑、 金杉 伊勢屋伝兵衛 四十七才
じんくをおどるなり
壱升入盃ニ而四盃半 跡ニ而東北の謡を唄ひ 山の手 御屋敷者 六十三才
何れもへ一礼述帰る
弐升入盃ニ而三盃半 跡ニ而少したふれ、 名前無之
目を覚し、砂糖湯七盃呑帰る
右之外ニ酒連三四十人有之候得共、何れも二三升の小酒故、記し不申候。
飯組
常の茶碗ニて万年味噌茶漬、香のものばかり。
飯五十四盃 唐がらし五把 浅草新堀 和泉屋吉蔵 廿三才
同四十一盃 小日向 上総屋茂兵衛 四十九才
同六十八盃 するが町 万屋伊之助 廿壱才
同五十三盃 醤油二合 三島町 三左衛門 四十七才
右之外、格別之大食も無之故、記し不申候。
蕎麦組
各ニハそば位の中平ニ而、盛ニ致し、上そば手打なり。
蕎麦五十七盃 新吉原町 桐屋惣左衛門 四十三才
同四十九盃 浅草駒形 鍵屋七助 四十五才
同六十三盃 池の端仲町 山口屋太兵衛 三十八才
同三十六盃 神田明神下 肴屋新八 廿九才
同四十三盃 下谷辺 御屋鋪もの 六十二才
同八寸の重箱ニ而九盃 外二豆腐汁三盃 小松町 吉左衛門 六十六才
以上〟