Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しょうぞうが 肖像画(浮世絵師・戯作者)浮世絵事典
 ☆ 寛政頃(1789-1800)  ◯「山東京伝肖像」錦絵 鳥橋斎栄里画 寛政頃    江戸花京橋名取 栄里画(メトロポリタン美術館)  ◯「永寿堂日比野(西村屋与八)像」錦絵 歌川豊国画 寛政九-十年    永寿堂日比野 豊国画(江戸東京博物館)  ☆ 文政八年(1825)  ◯「歌川豊国死絵」五渡貞国貞画   〝文政八年 正月  実彩麗毫信士 三田聖坂功雲寺    俗名 一陽斎 歌川豊国 行年五十七才    この月七日、師たる人と長きわかれとはなりぬ。然るに喪にこもりしあさ、なみだとともに        すゝらばや粥の七種の仏の座  五渡亭国貞
   歌川豊国死絵 五渡亭国貞画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)  ◯『縁結文定紋』(合巻 国貞画 馬琴作 文政八年刊)   〝(後編見返し)這(この)冊子の画工ハ孰(いづれ)五百羅漢の祈児(まうしご)国貞画けり〟    〈五百体の羅漢像を収める栄螺堂が有名な本所五つ目の五百羅漢寺、国貞をその申し子としたのは、役者の似顔のみな     らず多くの人々の肖像を画き分ける国貞の才能を高く評価していたからにほかならない〉  ☆ 文政九年(1826)  ◯『尾上松緑百物語』(尾上梅幸作(花笠文京代作) 二世歌川豊国画 鶴喜板 文政九年刊)   (口絵 肖像画)〈豊国筆最後の合巻作品と思われる〉        肖像画 役者・狂言作者 前の豊国画(国書データベース)    (肖像 花笠魯助(文京)・故尾上松緑(初代)・岩井半四郎(五代)・尾上菊五郎(三代)・市川団十郎(七代)  ☆ 文政十二年(1829)  ◯『忠臣合鏡』西来居未仏作 蓬莱山人校 歌川国兼画 西来居未仏作 蓬莱山人校〔国書DB〕   (巻末 肖像画 国直筆)    肖像画 作者 西来居小像 友人国直写(国書データベース)  ☆ 天保七年(1836)  ◯『狂歌十符(とふ)の菅薦(すがごも)』緑樹園序・山川白酒跋 梅多楼蔵板 天保七年四月刊   (六樹園七回忌・塵外楼三回忌 追善)   (口絵)   「六樹園石川雅望肖像 香蝶楼国貞画」「塵外楼石川清澄肖像 後素園国直画」   (挿絵)   「蹄斎〔北馬〕印」「朝桜楼国芳画」「柳川重信(二世)」「文晁」「行年六十一翁可庵武清」   「葵岡北渓〔拱斎〕印」    狂歌十符の菅薦 香蝶楼国貞画 後素園国直画(国書データベース)  ☆ 天保十二年(1841)  ◯『著作堂雑記』九月十六日記事 曲亭馬琴記(『曲亭遺稿』所収)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(243/275コマ)   〝辛丑秋九月十六日、丁子屋平兵衛同道にて、画工国貞亀井戸より来る、我肖像を写さん為なり、この挙    は我本意にあらず、丁平が薦めによれり、終日酒飯のもてなしあり、写し得て帰去、其後八犬伝第九輯五    十三の巻下のさし画に、我肖像を載せたるに、他人は似たりといへども、我家の内の者どもは、さばかり    似ずといへり、我左眼病衰して、かすかに見ることを得ざれば、似たるや似ざるや未だしらず、然れども    肖像は、其当人をかたへに置て見くらべては、似ざる事自然の理なり、却て肖像の似たりといふは、只其    趣あるのみ、写真は得がたきものなるべし、是にて肖像の真ならぬを悟るべし〟    〈『南総里見八犬伝』の最終回に馬琴の肖像を載せるため、板元の丁子屋は、当時肖像画に評判の高かった国貞を起用し     た。しかし馬琴は肖像画に対して一家言をもっていた。「昔年豊国が京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是ハ日     々面会之熟友なれバ也」(天保十二年十一月付、殿村篠斎宛)、つまり一陽斎豊国と山東京伝のように、日々面談する     ような仲でなければ写真とでもいうべき肖像画は無理だというのである。それに比して国貞とはこれまで一二度ちらっ     と会ったことがあるだけ、むろん長時間対面するようなことは一度もなかった。内心気が進まなかったのは当然であっ     た。しかし不満を鬱屈させながらも要求を受け入れてしまうのが馬琴の常で、やはり丁子屋の薦めに従った。だがこの     国貞に対する違和感というか、馴染めない距離感のようなものが、馬琴の心中あったことは間違いあるまい。果たして     この肖像画に対する周囲の受け止め方はそれぞれ別であった。丁字屋など他人は似ているという、しかし家族のものは     似てないという。では本人の馬琴はというと、これが既に失明していて見ることが叶わない。おそらく国貞は馬琴に漂     う弱さと頑なさが同居するような窮屈な感じを写し取っているのだと思う。丁子屋が似ているとしたのは肖像画にその     おもむきが現れていると感じたからではあるまいか。一方家族のものたちは四六時中生活を共にしているから、他人が     感じる雰囲気は既に自然化してしまって殆ど感じず、関心は専ら容姿の形似の方に向かったのかもしれない。以下、国     貞の馬琴肖像画と、天保七年(1736)馬琴の古稀を記念して画かれた長谷川雪旦画の肖像画をあげておく〉
   香蝶楼国貞画「曲亭馬琴肖像」    (早稲田大学「古典籍総合データベース」『南総里見八犬伝』第9輯巻53下)
   巌岳斎雪旦画「滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠」    (早稲田大学「古典籍総合データベース」)  ☆ 安政三年(1856) ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②92(岩本活東子編・安政三年成立)    国貞画「山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴・十返舎一九・柳亭種彦・烏亭焉馬」戯作者の肖像       「北斎・豊国・国貞」画工の肖像    戯作者・画工肖像 香蝶楼国貞画(国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 文久元年(1861)  ◯「一勇斎国芳死絵」一恵斎芳幾画   〝一勇斎国芳、俗姓井草孫三郎、号朝桜楼、法号深修院法山国芳信士    文久元辛酉年三月五日没、寿六十五、浅草八軒寺町大仙寺葬     (肖像) 一惠斎芳幾謹画     楼号も手向くによし朝さくら    有人     すり合す袖にも霜の別れかな    魯文      摘ためた袖にしほるゝ土筆かな   玄魚〟
   一勇斎国芳死絵 一恵斎芳幾画 (大英博物館所蔵)  ☆ 文久三年(1863)  ◯「七十八翁 一陽斎豊国肖像」「一鴬斎国周真写」平のや板 改〔亥四改〕(文久三年四月)   「当世見立 三十六花撰」総目にあり    一陽斎豊国肖像 一鴬斎国周画 (国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 元治元年(1864)  ◯「二代目歌川豊国翁略伝」一鴬斎国周画 仮名垣魯文著   (出典「早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム」画像 作品番号114-0361、0362)    三代歌川豊国死絵(左) 一鴬斎国周画    (早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム 作品番号:114-0361)  ◯「香蝶楼豊国肖像」署名「孝子国貞写」(二代目国貞)    香蝶楼豊国肖像 歌川国貞二世画    (早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム 作品番号:114-0359)  ◯「豊国院貞匠画僊居士」(豊国三代肖像)国周画    一陽斎豊国(三代)死絵 国周画  ☆ 慶応三年(1867)  ◯『くまなき影』(波月亭花雪の三回忌追善集)皎々舎梅崕編 広岡屋幸助板 慶応三年刊   (花雪ゆかりの興画会メンバーの小伝と肖像影絵を配した画集)(国書データベース)    くまなき影 芳幾画 口絵 柴田是真画 方阿弥陀仏(細木)香以序 山々亭有人序 仮名垣魯文跋  ☆ 刊年未詳  ◯『眞寫月花之姿繪』朝霞楼芳幾画・写 広岡幸輔/丸屋徳造板 刊年未詳   (歌舞伎役者三十六名の詠に似顔絵・影絵を配した錦絵)    眞寫月花之姿繪 朝霞楼芳幾画・写 広岡幸輔/丸屋徳造板 (国書データベース)  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「大蘇芳年像」大錦 金木年景画 秋山武右エ門版 明治二十五年六月刊    大蘇芳年像 年景謹写(東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ)  ☆ 制作年未詳  ◯「ヒロの紋ある豊広の肖像」〈肉筆か版画か不明 画工名記載せず〉    ヒロの紋ある豊広の肖像 落款不記載 (国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯「集古会」第三十九回 明治三十五年九月 於福田屋(『集古会記事』明治35年11月刊)   ◇課題 肖像    清水晴風(出品者)     大田蜀山肖像 柳川重信筆 一幅     歌川豊広肖像 二世広重筆 一幅     名家肖像下書 初代一立斎広重筆 一帖    大槻如電(出品者)司馬江漢自画像模本 原図大垣江馬氏所蔵 一枚     鹿田静七(出品者)兼葭堂肖像 松川半山下画