Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しょがかい 浮世絵師 書画会浮世絵事典
 ☆ 文化五年(1808)戊辰    ◯ 東南西北雲書画会 文化五年 会場不明    (『柳亭種彦日記』p115 文化五年(1808)八月八日)   〝北斎老人北雲会ふれにきたる〟    〈この会を北雲の書画会とみた。師匠の北斎自ら弟子のために声をかけてまわっているようだ。種彦が応じたかどうか     は不明〉     ☆ 文化七年(1810)庚午    ◯ 蜂房秋艃書画会 文化七年四月 浅草 巴屋   (『千紅万紫』〔南畝〕②235 文化七年四月詠)   〝浅草並木巴屋にて蜂房の画会あり     さしてゆくはちはみつ蜂みつ巴むらがれあそぶ蜂房の会〟    〈蜂房秋艃は吉見八太郎。大田南畝の次姉が嫁いだ吉見佐吉の本家の四代目である〉     (『一簾春雨』〔南畝〕⑩505 文化七年四月の蜂房の画会用に配られたチラシと思われる)   〝蜂房絵会のちらし    絵の事は素人を後にし、黒人を前にすとかいへれど、同じ硯の海に摺り流す墨田川の辺、高殿の名も巴    かきたる筆の軸とりて、諸人の心ゆくばかり絵かき花むすびの戯も、いつしか並木の青葉にかはる卯月    のころ、四方の人/\来りつどひて給はんことをねぎたいまつるになん〟    〈南畝は姉の縁者の蜂房の画会を言祝いだのである〉  ☆ 文化八年(1811)辛未    ◯ 式亭三馬書画会 文化八年三月十二日 両国 中村屋   (『式亭雑記』〔続燕石〕①67 式亭三馬記)   〝辛未三月十二日、両国ばし向尾上町中村屋平吉方にて書画会、会主三馬。晴天にて、その日は諸君籠を    枉られ、存外の盛会なりし     前日よりの世話役       中ばしまき町 歌川豊国・同居 同国満・本所五ッ目 同国貞      京橋銀座 山東京伝・中ばしまき町 同 京山       弁慶ばし(すり物師)松村辰右衛門 ・附木店  (同左)   山本長兵衛      堀江町 (うちはや)いせや孫四郎 ・浅草大代地(すりもの師)信濃や長蔵      芝 口 (さうしや)江見や庄蔵  ・馬喰町  (板木師)  小泉新八      田所町 (はんもと)鶴屋金助   ・堀江町  (同左)   いがや勘右衛門 肴札役      十軒店 (同上)  西村屋源六 男源蔵 膳札役        其他略之     当日世話役      扇面亭(馬喰町肴店に住す扇屋伝四郎が事也、会席にて、扇子、唐紙、短冊等を商ふ人)      本や勘兵衛(銀座 つる金の御舎弟也)      西宮平兵衛       源兵衛(塩川岸、せんや様御舎弟)・万蔵(浅草板木師)・金蔵(浅草愚弟)・扇面亭より雇人二      人・徳亭三孝 (小石川戸埼町 いづみや勘右衛門) ・益亭三友  (二丁目藤の丸同居)      古今亭三鳥(浅くさ田原町三丁目)  ・三川や吉兵衛(薬種屋)      三亭五蘭 (柳はし船宿の裏)    ・大六(三馬同居)      平蔵(小伝馬町山丁め 鶴金せり商人)・藤吉(同所 鶴喜せり商人)        其他あまたあり、略之      当日、上ミ下着用の世話人は       大六、三孝、三友、三鳥、五蘭、西村源蔵、〆六人也、三馬共七人     毛氈、硯の類は、扇面亭より損料にて貸す事也、至極便利にてよし、草履番人、酒番人とも、扇面亭     より雇ひ人、甚だ事馴たる者どもなり、絵の具一式、国貞子より賜物、門人二人にて、絵の具ときた     る故、事を闕ず〟    ☆ 文化十二年(1815)乙亥  ◯「引札」文化十二年三月十日開催(国立歴史民族博物館所蔵・歴史系総合誌「歴博」第190号所収)   〝鳥文斎栄之六十寿筵 書画会    来三月十日 於両国尾上町柏屋吉兵衛方 晴雨共相催候間 御光駕奉希上候     当日名家/席上揮毫  催主 栄玉/栄尚  補助 栄月/栄寿     二月〟    参考(『錦絵』第廿九号所収 大正八年八月刊)       栄之翁の書画会ありける時 桜のかた画たるに     隅田堤老木も時におくれずて いつもお若い花の顔ばせ  三馬     〈文化14年3月10日、両国柏屋において鳥文斎栄之六十寿筵の書画会あり。三馬の賛はこの時のものか〉  ☆ 文政三年(1820)庚辰  ◯ 鳥文斎栄之書画会 文政三年三月 会場未詳   (『戯作六家撰』②69(岩本活東子編・安政三年成立)   (文政三年三月上旬の記事)   〝栄之翁の書画会ありける時、隅田の桜のかた画たるに 三馬    隅田堤老木も時におくれずといつもお若い花の顔ばせ    狂歌堂真顔翁、傍におはしけるが、我も流行にはおくれじとて、文晁翁が蝶のかた画きたる扇に 真顔     今はやる人のかきたる絵扇は蝶々静に腰へさしこめ    猶おのれにも歌よめとありければ、ことばの下に 三馬     今はやる蝶々静とよまれては急に趣向もこりや又なしかい    時は文政の三とせ弥生のはじめつかたなりき 式亭書〟    〈当時「てふてふしづかにさしこめ」という囃子入りの唄が流行したという記事が、上記の前段にある。また、大田南     畝『半日閑話』巻八によれば、文政三年二月「いつも御わかひ」という詞が流行ったという。鳥文斎栄之の書画会の     席上、谷文晁、式亭三馬による流行を踏まえた即興のやりとりであった〉  ☆ 文政七年(1824)甲申  ◯ 花菱斎北雅書画会 文政七年三月二十三日 神楽坂 石新亭   (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝  和漢書画会    来三月二十三日 牛込神楽坂石新亭において 相催申候間 晴雨とも被仰合 御にき/\鋪    御来駕之程奉希候 以上     申三月        補助 五車亭連/北斎連                催主 龍鱗舎松蔭/花菱斎北雅〟  ◯ 東居(北嵩)書画会 文政七年三月廿四日 柳橋 河内屋   (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝  書画会 三月廿四日    於両国柳橋 河内屋半次郎方 相催申候 晴雨共御賁臨奉希候        会主 北嵩改 東居島光義拝    (余興)江戸半太夫浄瑠璃        間  のろま人形        当日席上において御慰に奉入御覧候〟    〈北嵩から東居への改名を披露する書画会なのであろうか。書画会とはいうものの、半太夫節の浄瑠璃とのろま人形に     よる間狂言など、ずいぶん賑やかな興行であった〉  ☆ 文政七・八年頃(1824・5)甲申・乙酉  ◯ 歌川豊広書画会 文政七・八年頃四月十一日 柳橋 大のし楼   (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝  書画会 四月十一日    於両国柳橋大のし楼上に相催申候/晴雨にかゝはらず御枉駕奉希候     当日諸先生席上揮毫                 催主 歌川豊広                 補助 歌川社中/桜川慈悲成〟  ☆ 文政八・九年頃(1825・6)乙酉・丙戌    ◯ 歌川豊国二代名弘書画会 文政八・九年頃 三月二十六日 柳橋 大のし屋   (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝各位の諸君 倍々御光祥被遊御座 奉唱南山候 陳者 来ル三月廿六日 不論晴雨     柳橋大のし富八亭ニテ 名弘書画会相催申候間 御抂賀(ママ枉駕)奉希上候              会主 二代目 歌川豊国              補助 歌川豊広/故人 豊国社中/桜川慈悲成/山東庵京山    〈「光祥」は幸せ、「南山」はお祝い、「陳者(のぶれば)」は「さて」、「御枉駕」は御来訪の意味。名弘とあるから     襲名披露である。この年の正月、養父の初代豊国が亡くなったばかり。一般に喪中の期間は養父の場合十三ヶ月とさ     れるから、この三月とは文政九年のように思うのだが、下掲、文政九年の「合巻年表」書誌・柳亭種彦の序文・曲亭     馬琴の記事などを参照すると、どうやら文政八年三月が正しいようである。補佐役として、初代とは兄弟弟子の豊広     および豊国一門とあることから、いわば歌川派総出の支援があったものと思われ、また戯作者の代表として、桜川慈     悲成・山東京山の大御所を擁していることから、当時の文芸界挙げての襲名披露とみてよいのであろう。したがって、     この引き札を見る限り、豊重の二代目豊国襲名に大きな問題があったとは思えない。ただ、それにしても喪中の襲名     披露という点に関しては、なんらかの事情があった上でのこととも思え、何か腑に落ちない思いは残る〉  ☆ 文政九年(1826)丙戌  ◯ 長谷川雪堤書画会 文政九年三月廿八日 湯島天神社内 松金屋定七亭   (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝  名発画会    三月廿八日 於湯島天神社内 松金屋定七亭 開催申候間 御来臨 偏に奉希候      諸先生/出席      長谷川雪旦男 長谷川雪堤拝〟  ◯ 蹄斎北馬書画会 文政九年四月十日 浅草並木町 巴屋   (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝四月十日     発会    蹄斎     浅草並木町巴屋山左衛門方にて相催候 諸君御枉駕奉希候〟     (馬琴注「文政九丙戌、但毎年興行」)〈蹄斎北馬は書画会を定例で開催していたようだ〉  ☆ 文政十年(1827)丁亥  ◯「浮世絵師売出しの一大難関」靄軒著(『彗星 江戸生活研究』第三年(1928)十月号)   〝(歌川孝貞名弘会引札)    諸君倍清福奉恭喜候 陳れば廿七日両国柳橋万八楼上に於て名弘会莚相催候間 不論晴雨 諸君賑敷御    光駕願候      亥三月 催主 国貞伜 歌川孝貞 補助 歌川惣社中〟    〈この亥を著者靄軒は天保十年とするが、『馬琴日記』文政十年三月二十七日の記事に「国貞忰孝貞名弘会祝儀一包、     両国万八方へもたせ遣ス」とあるから文政十年と思われる〉  ◯ 歌川孝貞名弘書画会 文政十年 三月 柳橋 万八楼   (『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」三月廿二日 ①73)   〝画工国貞来ル。右ハ、国貞忰孝貞名弘書画会、来る(ムシ二字不明)日万八にて催候よし、すり物持参。    宗伯罷出、挨拶いたし、廿七日ハ無(ムシ二字不明)ムキ有之ニ付、出席いたしがたき旨、断おく〟    〈歌川国貞の忰、孝貞の名弘書画会は文政十(1827)年3月27日、両国柳橋万八楼での開催であった。同日の日記によると、     馬琴と宗伯父子は出席せず、祝儀のみ届けている〉  ☆ 文政十一年(1828)戊子  ◯ 蓬莱山人二世襲名披露 文政十一年四月二十一日 柳橋 河内屋   (『馬琴日記』第一巻「文政十一年戊子日記」四月十二日 ①298)   〝鶴屋喜右衛門、西村与八・蓬莱山人、同道来ル。右は蓬莱山人、立川焉馬と改号、為披露、来ル廿一    日両国柳橋河半ニて書画会催候由〟    〈河半は河内屋半次郎。広重画『江戸高名会亭尽』に書画会の様子が画かれ、寺門静軒の『江戸繁昌記』初編「書画会」     にも〝多くは柳橋街の万八・河半の二楼を以てす〟とされている。この蓬莱山人は二世。いつもなら嫡子宗伯が出席     するところだが、体調不良ということもあってか、女婿の清右衛門を名代として出席させている〉  ☆ 文政十二年(1828)己丑  ◯ 歌川豊広書画会 文政十二年四月十一日 両国 大のし屋   (『馬琴日記』第二巻「文政十二年己丑日記」三月十七日 ②55)   〝芝片門前画工豊広来ル。四月十一日、両国大のしニて書画会興行のよし。右会ぶれちらし印刻、持参。    予、対面〟    〈四月十一日の日記には豊広の書画会の記事なし。あるいは三月二十一日の大火の余波でもあろうか〉  ☆ 天保元年(1830)庚寅    ◯『書画帖』一帖 年月 会場未詳   (「絵本年表」漆山天童編)    大窪詩仏序 絵師 文晁・文一・法橋雪旦・杏斎雪堤・雲峰・為一・其一・武清・蹄斎・崋山等画  ☆ 天保三年(1832)壬辰  ◯ 歌川広重書画会 天保三年二月二十三日 柳橋 大のし屋   (『馬琴日記』第三巻p36 天保三年二月十六日記)   〝画工歌川広重来ル。廿三日、両国柳橋大のし富八楼にて、書画会いたし候よしニて、右すり物一枚持参。    口上申述、帰去〟    〈二月二十三日、馬琴がこの書画会に出席した形跡はない〉  ☆ 天保七年(1836)丙辰    ◯『江戸名物詩』初編 方外道人狂詩 天保七年刊(国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)   〝扇面亭書画扇  両国横山町肴店     文晁武清米庵の筆  五山詩仏緑陰の詩    年々の仕込書画新  扇面売り初む発会時〟    〈扇面亭は文化十二年(1815)『諸家人名録』を編輯して以来、江戸の書画会を取り仕切るようになった扇面亭伝四郎。     年々の発会時に、扇面仕立ての谷文晁・喜多武清の画や市川米庵の書、菊池五山・大窪詩仏・山本緑陰の詩などを初     売りしたようである〉   〝万八書画会   浅草平右衛門町 柳橋北角    万八楼上書画の会    晴雨に拘らず御来臨    先生席上に皆毫を揮ふ  帳面頻りに付く収納の金  ☆ 天保九年(1838)戊戌  ◯ 柳川重信(二代)書画会 天保九年閏四月十九日 柳橋 河内屋    (「浮世絵師の書画会」久保田米斎著 『錦絵』第十六号所収 大正七年刊)   〝書画会小集   壬四月十九日    於両国柳橋河内屋楼上 相催候間 不論晴雨 諸君御光来奉希上候            補助 曲亭馬琴  菊地文海/横井天翁 一立斎広重               芍薬亭長根 有坂蹄斎/鈴木有年     当日書画諸名家先生出席揮毫            幹事 柳川桜麿            会主 柳川重信  再拝〟    〈壬四月は閏四月の意味。天保九年にあたる。二代重信の書画会については、山崎美成の『金杉日記』天保九年閏四月     廿六日の記事に「廿六日は、両国柳ばしなる河内屋の楼にて、柳川重信の書画会あり」(〔続燕石〕③30)ともある。     日付の相違が気になるが、同じ書画会と思われる〉  ☆ 天保十一年(1840)庚子    ◯ 魚屋北渓書画会 天保十一年五月十四日 柳橋 河内屋   (「【書画会席】寿茶番口演」北渓の還暦寿宴の引札)    〝当五月十四日、両国柳橋河内屋半次郎於楼上本卦返り寿延の会席、何かな御一笑にそなへ奉らんと、補    助並に世話人ども打より、忠臣蔵裏表幕なしにとり組相催し廉景呈、何とぞ当日御賑々敷、早朝より御    来駕偏に奉希上候 以上                  催主 葵岡北渓 大々叶 両国柳ばし 会延 河内屋〟  ◯ 書画会画帖(会名・会主 題名不明)嘉永三年~六年    この画帖の画像はベルギー在住の Mr.Guy Pepermans(ギ ペペレマンセ氏)より当館に寄せられたものです。   △参加絵師    町絵師 :麟振 洗斎 岨陵 嘯山 鶴川 抱山 三洲? 林斎 霞舫 蘭渓 他一名(落款不明)    浮世絵師:歌川豊国三代 国輝初代 貞年   △開催時期:嘉永三年(1850)三月頃~嘉永六年(1853)正月の間    この画帖には序・跋等が見あたらないので、開催時期については判然としないが、豊国の画いた七代    目市川団十郎の動向と館霞舫の死亡年から次のように類推した。        1天保十三年(1842)、七代目市川団十郎、生活豪奢の廉で江戸追放。嘉永二年(1849)末、赦免。     翌三年二月末、江戸帰還。(嘉永三年の二月末まで、団十郎は江戸不在)    2館霞舫、館柳湾の子、江戸の人。嘉永六年(1853)正月二十六日死去        以上の二点から、書画会の開催年月は嘉永三年三月頃~嘉永六年正月(1850-53)の間と推測した   △画像 ここでは歌川豊国三代・同国輝初代・同貞年、浮世絵師三人の作品のみ紹介        歌川豊国三代画 「豊国酔中画」七代目市川団十郎「暫」鎌倉権五郎役            「アゝつがもなく鶯にしばらくも芝居して聞(く)春の野遊ひ 柏園」    歌川国輝初代画 「一雄斎国輝画」芸者?    歌川貞年画   「貞年大酔画」 助六    〈嘉永三年三月、中村座二番目大切「助六廓の花見時」にて、団十郎が助六を演じている。但し、この貞年画がそれ     に取材したものか不明〉  ☆ 開催年次未詳    ◯ 歌川豊国書画会   (『浮世画人伝』p108 関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝曾て同業者歌川豊国が、両国辺の某楼に於て、書画会催しゝに、たま/\風雨烈しく、参会する者極    めて少し。独り北斎、蓑笠にわらんじはきて、葛飾の百姓が参り候ふぞと。案内いひ入れ、席に上り    て終日筆を揮ひたるとぞ〟      ☆ 明治以降(1868~)  ◯『暁斎画談』外篇 巻之下(河鍋暁斎画 植竹新出版 明治二十年(1887)   (国立国会図書館デジタルコレクション」( )は原文の読み仮名   〝暁斎氏乱酔狂筆を揮ひて捕縛せらる(門人梅亭鵞叟篇)    明治三年十月六日、東京下谷不忍弁才天の境内、割烹店林長吉(三河屋)方に於て、俳人其角堂雨雀    なる者、書画会を催したるに、暁斎氏は其飲酒連(のみなかま)なるを以て、席上の揮毫を頼まれ、朝    早くから書画の会莚に臨みしに、会主も頗(すこぶ)る乱酔の名を得し者故、未だ来客の顔も見ざる前    より、早(はや)盃を廻らし徳利の底を叩いて飲始めければ、人集り群々(むれむれ)を以て宴を開く頃    には既に三升余の酒を傾けたる故、暁斎氏は酔て泥の如くなると雖(いへど)も、氏に酒気あるは龍の    雲を得たるが如く、虎の風に遇(あへ)るに似たれば、身体(からだ)も愚弱(くにや)/\にて座に堪ら    れぬ程なれど、筆を持てば益(ます/\)活発にて奇々妙々なる物を書(かき)出(いだ)すを、人々興じ、    一扇書(かけ)ば茶碗を差し、一紙染れば丼を差し、代り/\に酒を進めて染筆を請ひければ、六升飲    (のん)だか七升飲だか、氏は鬼灯(ほうづき)提灯(てうちん)の如くになれども、筆を揮ひて屈せざり、    折りから傍らにて高声(かうせい)に噺(はな)す者あり、今日王子辺へ参りたるに、外国人一騎乗切り    にて来(きた)ると、茶屋の者出(いで)むかへ、今日は御一人なるかと問(とふ)と、馬鹿(ばか)を両人    召し連しよし答へたりと云(いふ)が耳に入り、彼等に笑(わらは)して遣(やら)んと思ひ、足長島(あ    しながじま)の人物に二人(にゝん)して沓(くつ)を履(はか)せ居(ゐ)る体を画き、又手長島(てながじ    ま)の人物が大仏の鼻毛を抜(ぬき)とる様(さま)を画きたりしに、画体(ぐわてい)高貴(かうき)の人    を嘲弄(てふろう)せしものと認(みとめ)られ、其座に於て官吏に捕えられしかば、席上の混雑騒動は    図に顕(あら)はせし如くなり、然れども此とき酔(ゑい)いよ/\甚(はなは)だ敷(しき)に至り、目は    動かせども、四辺(あたり)朦朧(もうろう)雲霧(くもきり)の中の如くにして、物の何たるを見分る事    能(あた)はず、口は開けども舌廻らざれば詞(ことば)を出(いだ)す事能はず、只(たゞ)踊りの身振り    して引かれ往き、終(つひ)に獄舎に下されたり、斯(かく)て漸く翌朝に至り酔(ゑい)醒(さめ)、その    事を聞て千悔万愧(せんくわいばんき)すれども詮業(せんすべ)なければ、只恐縮の外無かりし、同月    十五日、御呼出(おんよびいだ)しに成て、右の御糾(おんたゞ)し有たれども、何事を御尋ねあるも、    更に覚えなければ、他の御答は為(な)し難き由を述(のべ)、其日は御下(おんさげ)となり、再度(ふ    たゝび)禁錮させられたりしが、翌年正月三十日に至り、漸(やうや)く官の放免を請(うけ)て、晴天    白日を見る事を得たれば、忘れざる内にと思ひ、牢獄中の有様を図して我が二三の子弟に示し、且    (かつ)我が酒狂に乗ずるの戒めにも為さばやとて、書置たりことの物有しかば、其侭(そのまゝ)に出    して牢獄の中の苦しき様を記すに文章を以て贅せず、此二三の画図に附(つい)て見て、後世の戒めと    もならば氏が本懐ならんのみ〟  ◯『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   「第一部 浮世絵の盛衰」「五 最大隆盛期」p36   〝書画会の席などでは浮世絵師は軽蔑されたものであるが、広重は席上画に長じ頗る妙所があつたので、    文人墨客も敬意を払ひ同等の交際を結んだと云ふにも、其の人格の高かったことも知れよう。又当時浮    世絵師の中で席画を画いたは、広重と玉蘭斎貞秀のみであつたとは泉竜亭是正といふ戯作者が能く話し    てゐた〟〈泉竜亭是正は明治十年代前半の合巻作者〉