Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ したえ 下絵(こうほん 稿本・がこう 画稿・たねほん 種本)浮世絵事典
  〈以下の「下絵」は、彫り師が画工から受け取って版木に貼り付けるいわゆる「板下絵」とはちがう。合巻・読本のよう    な版本の場合、戯作者が板下絵の構図や図様を朱書きして画工に与えるもの、それを「下絵」といったようである。版    画の場合は、下掲『読売新聞』(明治29年)の高村光太郎談などを参考にすると、幕末まで、下絵は板元が用意して画工    に与えていたようである。もちろんすべての版画が版元の指示のもとで画かれたとは思えない。師宣や春信・歌麿・写    楽・北斎・広重・国芳といった名だたる浮世絵師たちはすべてではないにせよ自ら図を考案していたと思われる。しか    し彼らは別格である。多くの浮世絵師は板元や戯作者の下絵に沿って画いていたのである〉   (参考)浮世絵事典【た】種本 使用例  ◯『犬著聞傾城亀鑑』(墨川亭雪麿作 渓斎英泉画 文政十年(1827)刊)   (国書データベース)   〝(後編見返し)雪麿さく 英泉絵 雪麿下絵のまゝに彫す〟    〈板下絵を画く画工も、その板下絵を彫る彫師も、戯作者雪麿が作成した下絵に基づいて仕事をするのである〉  ◯『塩汲車輪廻仇討』合巻(恋川春町二世作 歌川国安画 文政十一年(1828)刊)〔国書DB〕   (春町自序)   〝草稿(したがき)をまづ版元にさづくる而已(のみ)〟    〈稿本を「したがき」とも呼んだ例〉  ◯『馬琴書翰集成』第五巻 天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(書翰番号-56)   〝小生稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ    御座候。北さいも筆自由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さい    ニ画がゝせ候さし画之稿本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候〟    〈天保十一年、馬琴が伊勢の殿村篠斎宛に出した書翰の一節。ここでいう「稿本」とは戯作者が画工に与える絵と朱書か     らなる下絵のことを云う。馬琴はこれに拠って画工に指示を出す。「稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ」というと     ころを見ると、画工は作者の指示に忠実であるべきだと、馬琴は考えていたようだ。お気に入りの画工は三人、北尾重     政・初代歌川豊国・歌川国貞、彼らこそプロ中のプロ、作者の意向を忠実に汲んで、作者が望むような図様に昇華でき     る名人だと高く評価している。それに対して、葛飾北斎、云うまでもなく彼ら以上に「筆の自由成」画工ではあるのだ     が、「作者ニ随ハじ」が玉に疵で、作者の指示を無視して我意を通すというのである。下絵は作者が作成すべきものと     いう、馬琴の意識は強烈である。この挿話は北斎の偏屈な性格や独創性に拘る意志の強さを示すものとして引かれるの     だが、別の観点からすると、版本の世界では、戯作者の指示は画工にとって欠くべからざるものであったことを示して     いる〉  ◯『当世書生気質』春のやおぼろ(坪内逍遥)著 晩青社 明治十八年()九月刊)        挿絵『当世書生気質』第八号 長原止水画 (国立国会図書館デジタルコレクション)     下絵 塾舎の西瓜割り『当世書生気質』第八号 坪内逍遙画 (早稲田大学 古典籍総合データベース)      〈日本近代写実小説の先駆けとされる作品だが、挿絵については、作者が自ら描いた下絵を通して画工に指示を与えると     いう旧来の方法をそのまま踏襲している〉   ◯「近世錦絵製作法(二)」石井研堂著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 画稿     版画の第一稿は、白描の粗稿である、図画の位置結構大小等を稿本上に活殺し取捨し、稿定つて然る    後に浄写して原画とするのである。明治以前の浮世絵師の稿本を見るに、多くは墨一色に限つてあるが、    明治後のものにあつては、先づ鉛筆にてあたりを付け、次に淡朱筆で其の活線だけを描き、更に墨で定    稿を作る者さへ有つた、これ技倆筆力未熟の為めに、ぶッつけに稿をつけること能はず、再三再四塗抹    修正して辛く稿を作つたからである(中略)     画稿定つて後ち、之を浄写したものが所謂版下である、即ち版下絵の略言である〟  ◯「大蘇芳年」饗庭篁村著(『錦絵』第二十二号所収 大正九年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝昔し紅葉山人が『新作十二番』といふのを出して二冊めを僕にとの注文、安受合に受けこんで『勝鬨』と    いふのを作り、偖(さて)その挿画を芳年にと云ふと 板元の春陽堂は眼を円くし、芳年先生は今なか/\    盛んで口絵を頼んでも一月や二月では出来ません、どうか他の画家へとのこと、マア頼んで見て呉れ、お    そくなる様なら外へ頼むから と無理に頼ませ下字(僕は画がかけないので下絵のかはりに下字と号して    委しく書くだけ)を持たせてやると、芳年氏見て大喜び、書くよ下絵はいけねェ 饗庭さんの下字に限ら    ァ、大急ぎなら明日中に書き上げるよ、表紙はどうする 見かへしは と上機嫌なのに春陽堂の使は吃驚    し(云々)〟    〈『新作十二番』春陽堂(明治23年4月創刊~24年12月終刊 8冊)「勝鬨」饗庭篁村著・口絵芳年画 23年4月刊。著者が     画工に対して、自らの下絵を通して、あるいは饗庭篁村のように言葉でもって、挿絵や口絵に関する指示を与えるとい     う江戸以来の習慣が、明治の二十年代に入ってもなお続いていたのである〉  ◯「稗史原稿に就いて〔附戯作写尺牘〕」(林若樹著『集古』所収 明治四十二年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』己酉(3) 8/14コマ)より収録)   ◇戯作者と画工の関係   〝昔時の稗史即(ち) 黄表紙、合巻、読本其他は現今の小説とは異り 其挿絵に重(き)を置きたるもの    殊に黄表紙の如きは画に趣向を凝らせしもの故 作者は画工に一指を染むるを許さず、且事実画工は又    夫れに改竄を加ふる如き頭脳を有せしものはあらざるが如(ごと)ければ、今原稿と版本と対照するに     殆(んど)皆注文通りにものして 画工は唯々(いゝ)として只原稿を清書したるに過ぎず 画工の名真に    空しからず(ママ)といふべし。然れども 後年豊国北斎等に至りては 絵組のことに就て作者との間に屢    (しばしば)争端を惹き起せしことも少なからず。    〈ここにいう「原稿」とは、作者が挿絵の絵組や絵柄を指定するために作成するいわゆる「下絵」と呼ばれるもので、     画工はこれをもとに「板下絵」を画くことになる〉   ◇歌川国貞・国直宛、式亭三馬の依頼     三馬の『二枚続吾妻錦絵』(文化八年稿)には「口上 当年は事多く候て 著述大延引 それ故下絵ざ    つといたし置候 よく/\かみわけて新図に図どり御たのみ申候 国貞君 三馬 わくのあんじも こ    としはおそくなり候ゆゑ 工夫いたし兼候 よく御救ひ可被下候」 又同作「清姫草紙」(文化九年稿)    「段々諸方よりおしかけられ 昼夜くるしくて/\なり不申候まゝ 下絵はいつものやうにつけ不申候    よく/\御工夫御相談可被下候 国直さま 三馬 どうでもよいからにぎやかになるやうに御たのみ     甚(だ)せつない音を出し申候」同六冊目ミカエシ「筆者さま 六冊ものにはチトむりなるすぢに候間     文句とかくこみ合申候 よろしく御うめ合せ可被下候」とあり。    〈『二枚続吾妻錦絵』(合巻 式亭三馬作・歌川国貞画 仙鶴堂板 文化十年刊)多忙のため下絵がざっとしたものに     なってしまったが、後は宜しく頼むという三馬から国貞への懇願。     『【ひたか川】清姫物語』(合巻 式亭三馬作・歌川国直画 鶴喜板 文化十年刊)こちらは国直宛てのもので、原     稿の督促に追われているので下絵なしで作画してほしいという内容。この例は、戯作者側に下絵を画くところまでが     仕事の領分だとする意識があったことを示している。なおこの解説文〝同六冊目ミカエシ「筆者さま(云々)〟の意     味がよく分からない〉   ◇正月出版の稿本を板元に渡す時期    当時は早きは三四月頃より 著作に従事し 遅くも八九月頃迄には脱稿して 書肆の手に渡さざるべか    らず 然らざれば 夫れより公(おおやけ)の改(あらた)めを得て 画工、筆工、板木師、摺師、製本等    の手を経て後 初春の売出しの間に合はざればなり。    〈作者の稿本(本文+絵)は、出来上がった段階で改(検閲)に廻され、それが通ると下絵は画工に渡る〉   ◇歌川国貞宛、山東京伝のお礼と督促    又京伝尺牘「(前略)岩戸や写本追々御したゝめ被下(くだされ) 大慶(に)奉存候 且又残り種本二冊    外々のをさし置(き) 相したゝめ全部出来仕候 さだめていろ/\御取込と奉存へ共 さしくり御し    たゝめ可被下候 売出しあまりおそくなりては ひやうばんもいかゞと案じ申候 何分御頼申上候(下    略)九月十九日 国貞様 京伝」とあり。文人画伯の懶性古今一徹といふべし。    〈作者が作成する「下絵」を「種本」と称し、画工が画く「板下絵」を「写本」と称していたようである。京伝は国貞     に、自分の稿本(下絵)を優先して板下を画いてほしいと頼んでいる〉   ◇歌川国貞宛、柳亭種彦の注文    国貞宛種彦尺牘に「然者(しからば)源氏二編目御とりかゝり被下候やう願上候 もし其前に御めにかゝ    り不申候て 口絵光氏と藤の方を色事の処 十五歳と朱がきに致し置(き)申候 それ故なでびんに致置    申候が 十六才とかきかへ候間なでびんでなくてもよろしく 其外は下書に直し候処無之候 ◯(ママ)料    理通絵の事 当年のは精進物のよし しかればげいしやよりはかげまか寺小姓か男色の方うつりよかる    べく奉存候 画のもやうもなんぞあんじつき候はゞ 又々可申上候 以上」とあり〟    〈これは『偐紫田舎源氏』二編の口絵に関する指示で、足利光氏の髪型を変更してほしいとのこと。「下書」とは種彦が     作成した下絵のこと。     『精進料理通』歌川国貞画 八百善著 泉市板 文政五年刊。種彦がこの料理本とどう関係しているのが分からない     が、精進料理に関するものだから、宴席には陰間や寺小姓など男色の方が相応しいのではないかと、図案を国貞に示     したのである。もっとも却下されたと見えて、刊本には芸者が侍っている〉  ◯「明治初期の新聞小説」野崎左文著(『早稲田文学』大正14年3月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上))   〝馬琴種彦等の草双紙の稿本を見ても、皆作者が自筆で下絵を付けて居るが、これも単に作者の物好きとい    うではなく、実際にその必要があったのだ。それは当時の画家は絵をかく事は上手にしても、何分にも時    代の研究という事が足らず、甚(はなはだ)しいのには草双紙の挿画や俳優の舞台上の着附などを唯一の粉    本として筆を把る画工もあったので、時代の風俗にとんでもない誤りが起こる事がある。そこで作者はそ    の下絵に先ず時代(天保年間とか慶応年間とか)、時節(夏の夜とか冬の朝とか)、場所、人物の身分年    齢、時によると人物の服装や背景の注文まで委しく朱書して送らねばならむ事があった。この必要上から    魯文、藍泉-藍泉氏は玄人の画家-その他の人々でも大概素人画はかけたのであった〟    〈これは明治の十年代の様子。画工は絵を上手に画くが、作品の時代や場所の風俗などには無頓着だから、放っておくと     過去の草双紙を焼き直したり、役者の舞台上の着付けをそっくりそのまま使ったりする。とても油断がならないので朱     書で注意する必要があるという。当然、仮名垣魯文も高畠藍泉も自ら下絵を画きました。藍泉の場合は、そもそも藍泉     という号が、彼が松前の藩士高橋波藍に就いて絵を学んだときの画号ですから、作画はお手の物、下絵はそれほど負担     ではなかったはずです〉   〝(小林永濯に関する記事)僕の敬服したのは他の画家中には小説記者の下絵に対し、人物の甲乙の位置を    転倒したり、あるいは全くその姿勢を変えたりして、下絵とは殆ど別物の図様にかき上げる人が多かった    のに、独り永濯氏のみはいつも僕の下絵通りに筆を着けて少しもその趣を変えなかった一事で、これは同    氏の筆力が自在であった証拠だと思われる〟    〈永濯は作者の下絵に忠実に応えるという。野崎左文はそれを永濯の「筆力が自在であった証拠」と見る。要するに作者     のどんな要求でも受け止められる力量があるというのだ。それに対して下絵を勝手に変える画工の場合は、その変更が     文の趣旨に相応しいからではなく、単に筆が意のままにならないからに過ぎないと見る。注目すべきは、左文(作者)     永濯(画工)の双方に、下絵を考案する責任は作者にあるという共通認識が見られることである〉  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『読売新聞』(明治29年3月25日)   〝彫刻の名家高村光雲氏客に語つて曰く(中略)現時の絵画を好む人は、多く古画を賞して新画に身を入    れず、注文主たる板元最も昔と相違せり、近々は三代豊国の存生せる頃までは其注文主たる各版元は、    自身下図を着け精々細かに注文して、其余を画工の意匠に委すのみなりしが、今は注文者に寸毫の考案    なく、画工に向て何か売れ相(さう)な品をと注文するが通例なり、夫ゆゑ画工も筆に任せてなぐり書き    て、理にも法にも叶はぬ画を作りて識者の笑を受くるに至る、今江戸絵の最も抱腹すべきものを挙げん    に、歌川流の正統にして三代豊国の高弟として知られたる国周翁筆、山門の五右衛門は顔さへ俳優(や    くしや)に似れば夫(それ)にて善いとしたものか、久吉と個々別々の配置をなして更に何の照応もなく、    寺子屋の松王を首桶に頬杖つきて、さながら孑々(ぼうふら)を覗くかと怪まれ、源蔵は外方(そつぽう)    向いて油揚を攫(さら)はれた鳶を恨むに似たり、正面向きの五右衛門はまた大なる所を骨とせしばかり    にて、毫も古実に適(はま)らず、思ふに近来は更に演戯を見ずして筆を執るものゝ如し、又近頃売出し    の小梅堂の五右衛門遠見に出して、久吉を大きく書いたる趣向は至極よけれ共、桜の枝は少しも分らず、    恰も五右衛門の木登(きのぼり)かと怪まる、博識の国政翁傍(かたはら)に在りながら、何故之を釣花瓶    (つりはないけ)とはなさしめざりしや、要するに小梅堂の古実に乏しきは注文人の放任(なげやり)に過    ぎたる為めとするも、国周翁の滅茶々々なるは翁自身もまた放任に過ぎたるの責(せめ)を免かれず、恁    (かゝ)る勢(いきほひ)にて推す時は、今後十年を出ずして東錦(あづまにしき)てふ江戸絵なるものは単    に玩具(おもちや)屋の附属品となり、終に美術として賞玩するの価値無きに至るべし、江戸絵の末路亦    憐むべき哉(かな)云々(しかじか)〟    〈この光雲の言は辛辣。最近の版元は売れそうな絵を画いてくれというばかりで、きちんとした「下図」(下絵・指示)     を画工に示さない。そのため、画工は故実を踏まえない「理にも法にも叶はぬ画」を平気で殴り画きすると云う。この     記事でまず興味を惹くのは、光雲もまた下絵を考案するのは版元側だと見ている点です。浮世絵を考えるとき、版元や     作者たちが用意する下絵の存在を、現在どれほど意識しているだろうか。私たちは、浮世絵を浮世絵師の個人的な営為     として捉えがちではないのか。つまり浮世絵師を画家という視点で捉えようとしているのではないか。しかしどうやら     明治の二十年代あたりまでは、浮世絵を、下絵を考案する版元側とそれに基づいて作画する画工との共同作品として見     ている人がいたのである〉  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯『こしかたの記』「横寺町の先生」鏑木清方著   〝第八章『咄嗟の遅(おくれ)を天に叫び、地に号(わめ)き』から『緑樹陰愁ひ、潺湲(せんくわん)声咽    (むせ)びて、浅瀬に繋れる宮が軀(むくろ)よ』まで、文字にして二百字あまり、試験前の学生のように、    築地川の川縁を往きつ戻りつ繰りかえしては諳んじた。何かで見たオフェリヤの水に泛ぶ潔い屍を波文の    うちに描きながら〟    〈これは明治三十五年(1902)鏑木清方が『金色夜叉』のお宮水死の場面を画くよう勧められた時を回想したもの。清方     は尾崎紅葉の文を何度も諳んじて内容を自らのものにします。そしてそのうえで作品の流れにそったイメージを思い起     こします。つまり自らの内発的なモチーフによってテキストを読み、作者の意向を勘案しながら自ら下絵を画いている     わけです。こうなるともはや浮世絵師の画工ではなく画家です〉  ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『錦絵の彫と摺』石井研堂 芸艸堂 昭和四年(1929)刊   (第四章 原画 甲、画工と版下)p19   〝原画即ち版下の第一稿は、白描の粗画である、全図の位置結構大小を、稿本上に活殺取捨し、稿定つて    後に浄写して原画(はんした)とするのである、明治以前の稿本を見るに、多くは墨一色であるが、明治    後のものにあつては、先づ鉛筆で当りを付け、次に薄朱で其活線だけを描き、更に墨筆で稿を定めるの    が多い、(中略)画稿定つて後、之を薄紙に浄写したものが、原画となるので、所謂版下である、即ち    版下画の略である〟  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   △「第二部 浮世絵師」「五 下絵の描法」p83    (下絵)   〝いざ絵を描くといふ場合には、先づ浮世絵の規則として下絵といふものを附けねばならぬ。下画とは描    き上ぐべき絵の構図であつて、人物でも景色でも其の他のものでも、考案即ち構図を作成せねばならな    い。此の構図を作るのが画工の頭脳を搾り出す最も必要で、是れに依て絵の出来栄を支配され、其の絵    に就ての毀誉褒貶を甘受しなければならぬのだから、下手は下手なり、上手は上手なりに苦心惨湾だ、    殊に未だ書習ひの一人前に達せない腕では、下画の為に呑れて了ひ、一線一画の筆すら紙上に下しかね、    頗る難産の体は側に見るも気の毒な心が出る。馴れ切つた者でも遣付仕事を平気でする者の外は、随分    細心の注意を払ふもので、捏ねくり返して出来合の仏掌薯を描くのとは些と訳が違ふ、其様ちよつくら    描きの出来るものでない〟   △「第二部 浮世絵師」「一〇 新狂言の役者絵」p106    (出版への段取り)   〝芝居の座元・狂言役者または役者との間には連鎖が附いて居るから、新狂言が極ると直ぐ画工の許へ知    らせて来る。此処に於て画工は其の狂言に依て構図を作るだが、新しく書下した狂言で無い限りは、夫    れ/\にお約束の型はあるもので、廿四孝輝虎配膳とか狐火とか云ふやうに、絵にする処は極り切て居    るから、画工は腹案を定めて下絵を作るし、書下しものゝ新狂言になると、作者より其の筋と場面を聞    き、主要の人物が仕業を尋ね、また役者が其の役々に対する工天を探り、下図を考へて一番目物、二番    目もの、中幕ものと、先づ五六番の下絵を描き弟子を地本問屋へ走らせて相談するのだ。     (中略)    地本問屋には年行司と云ふものを設け組合内の事務を執り、画工から廻る下絵の如きも年行司が先主権    を有して居るので、先づ自分の家にて出版せんとする絵柄の好きものを選定し、他を組合中へ紹介して、    例へば世界が忠臣蔵とすれば、甲の座は三(ママ)段目の腹切を取る、乙は五段目の二つ玉、丙は七段目の    茶屋場と云ふやうに絵の衝突を避けて、新狂言に対する出版が決定すると、画工はいよ/\板下絵に着    手して描き揚げるのである〟