◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩216(塵哉翁著・嘉永六年(1853)記事)
〝新相撲
丈同さ六尺八寸 飛騨国出生 白真弓肥太右衛門 丑年二十歳
貫目 四十貫五百目
今年勧進冬相撲より出る、力量七八人に対するとや、丈高く肉合よく、稽古よく整はゞ、大関たらんと風
評あり、弘化の末年平戸の産のよし、生月鯨太左衛門と言て、其頃十八歳とか、嘉永元酉(ママ)年冬、勧進
に出て土俵入計、丈は六尺五六寸、脊(セイ)高き計肉少く、階子(ハシゴ)を押立たる如くにて、稽古あれども
取組ならずして、始終土俵入計にて子年の末没せり、彼とは事変りて、白真弓(シラマユミ)はよき力士ぞと評
判あるによりて、贅して後の幕入を待、
かゝる札のありとは誰も白真弓生れし国の名も肥太右衛門
白真弓ひくや贔屓のちから弦(ツル)その給(タマ)ものはたしか関脇
戯文堂狂
(略)
街々にひさぐ姿絵には、飛騨の国大野郡木谷村の産にして、力量五十人力余としるせり、浦風門人といふ〟
◯『増訂武江年表』2p133(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永六年・1853)
〝〈十一月〉浦風門人白真弓(シラマユミ)肥太右衛門といふ角觝人(スモウトリ)出る。二十一歳、身の丈六尺八寸余、
目方四十貫五百目、飛騨国木谷村の産といふ〟