◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝汐干
汐干狩ふみにごす水のむら雲にかげをかくすは星かれいかも
ぬき足をしつゝ貝をもひらひけり鷺のすさきの汐干狩には
花の雲うきたる磯の干かたにはそれほしかれいそれ月日貝
板屋貝ひらふはづみに袖もれてかげさす月の懐中かゞみ
淵明が琴にも似たる舟の内しほ干に菊のほしかえいみゆ
磯遠くこは/\あゆむ汐干かた鮫洲の沖の妹がわに足
汐干狩むらさき貝もひらひけりさく藤棚の竹芝のうら
しほひ狩うき世はなれし家根舟は棒杭に見る松の下菴
うぐひすの月日貝をも拾ひけり古巣の名ある竹芝の浦
落葉◯く松棒杭にくま手をも持てひがたにほれるはまぐり
よむ歌に硯のうみもひるばかり汐干のながめ深川の茶屋
子安貝たつねわびけりつばくらのすさきの沖に汐干狩して
をしへねど子らはかしこし汐干狩りこしをかゞめてひらふ蛤
〈潮干狩り 洲崎 鮫洲 竹芝の浦 深川〉
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十六「春時」④184
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝三月三日
今世、今日、大坂は住吉、江戸は深川洲先(スザキ)等に潮干狩群集す〟
◯『絵本風俗往来』上編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(27/98コマ)
〝汐干狩
三月三日は例年海上大汐干潟となる故に、深川の洲先、品川の海上に汐干狩に出するもの少なからず、
蛤を拾ひ貝類をあさりし人を遙かに望めば豆人の如く、況(ま)して品川の海畔高輪通りは、参勤交代の
大名方の荷物の往返、長持歌の声面しろく、同時節のことゝて、これまた一興の風景なりし〟
◯『残されたる江戸』柴田流星 洛陽堂 明治四十四年(1911)五月
(国立国会図書館デジタルコレクション)(23/130コマ)
◇汐干狩り
〝三月桃の節句に入ての大潮を見て、大伝馬小伝馬、荷たりも出れば屋根船も出で、江戸ッ児の汐干狩は
賑やかなとも(ママ)賑やかなこと此上なく、紅白の幔幕旗幟のたぐひを迄たてゝ、船では三味線幾挺かの
連れ弾きにザヾンザ騒ぎ、微醺(びくん・ほろ酔い)の顔にほんのりと桜色を見せて、若い女の思い切り
高々に掲げた裳から、白い脛(はぎ)惜気もなくあらはにして、羞しいなぞ怖れてはゐず、江戸ッ児は女
でも洒(さっ)ぱりしたもの、時に或いはむしがれいなぞ踏まへて、驚いて飛びあがりはしても、半ばは
それを興がりてのこと、強ちに獲物の多きを欲せずして、気晴らしをこれ専らとする
(中略)
上げ汐の真近時になると、いづれの船からも陣鉦(じんがね)・法螺(ほら)の貝などを鳴らし立てゝ、互
ひに其の共伴(ともづ)れをあつめ、帰りは櫓拍子に合はせて三味線の連れ弾きも気勢ひ(ママ気負い)よく、
歌ひつ踊りつの大陽気、相伴の船夫(かこ)迄が浮かれ出して存外馬鹿にもならぬ咽喉(のど)を聞かすな
ぞ、どこまでも面白く出来ていゐる。お土産は小雑魚よりも浅蜊、蛤の類、手に手に破れ網の古糸をす
き直して拵(こさ)えたらしい提げものに一ぱいを重そうにして、これ留守居や懇意へのすそ頒(わ)け、
自分は喰べずとも綺麗洒(きれいさっ)ぱり与(や)つて了(しま)つた方が結句気安いやうで、疲れて寝る
臥床(ねどこ)の中に、其の夜の夢は一入(ひとしお)平和である〟
〈江戸の潮干狩りの賑わい、屋根船は無論のこと、大小の伝馬船・荷足船、常には荷物を運ぶ小船まで総動員、乗り込め
ば弾く三味線に歌いつ舞いつ、さらには陣鉦・法螺貝まで鳴らして、陽気にそして威勢よく浮かれたようである〉