☆ 明和~安永年間(1764~~1788)
◯『明和誌』〔鼠璞〕中p195(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)
〝明和までは、縮緬に板じめといへる染なし。緋、もも色の類なり。其頃深川にすむ三井親和といふ書家、
篆書をよくす。右の書を色々に染、親和染とて流行す。是板じめのはじめなり〟
◯『増訂武江年表』1p186(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(明和年間・1764~1771)
〝三井親和が篆書行はれしより、親和染めとて篆字のかすれたる形を染物にする事行はる。又、婦女の衣
類表は無地にして、裏に模様を付くることはやる〟
◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①238(森山孝盛著・享和二年(1802)序)
〝唐様書の三井孫兵衛 与力 が筆跡をうつして、からやうをちらし、篆書などを交へて、親和染【親和は
実名、其子親孝】とて殊の候流行たり、安永、明和の頃なるべし〟
◯『甲子夜話1』巻之十六 p270(松浦静山著・文政五年(1822)記)
〝蕉堂の物語に、幼少の頃書家に三井親和〔孫兵衛〕、殊の外世にもてはやされ、王侯大人の邸宅に招か
れざる所もなく、其名一時に高くして、余り流行(ハヤ)るまゝに、酒店妓楼の聯額、神仏の幟の字も、皆
三井の書と云ほどに成り、其果は篆草などを端匹に染出し、衣帯までに用ゆる時世様となれり。その勢
ゆゑ貴家の紋服悉く集り、紺屋にて某家の紋本と云ときは、三井が家に到りて諸家より賜はる所の紋服
を借りて写せしと云。左程のことなれば家貲は富充せしに、何づ方への書通にも全紙を用ゆることなく、
諸方より往来書翰の空白の所を、大小と無く截(キ)り合せ、張り立て、つゞれの如にしたる巻紙を手筒
の常用とせり。(以下、略)〟
〈蕉堂は昌平坂学問所の学頭・林述斎。明和五年(1768)生まれだから、幼少期は安永の頃(1772~1781)にあたる。三
井親和は天明二年(1782)の歿。林述斎はその晩年の親和から書を学んでいる〉
◯『甲子夜話4』巻之六十一 p242(松浦静山著・文政八年(1825)記)
〝親和、三井孫兵衛と称す。庶士なり。又弓術を能くす。深川に住せり。世に深川親和と呼ぶ〟