Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しにえ 死絵浮世絵事典
   死絵年表(未定稿)(本HP編)  ☆ 天明四年(1774)  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 ざら銭の中へしに絵はむぐりこみ「柳多留19-4」 天明4【川柳】注「余りにうれて」   2 庚辰で死絵を書いたことがしれ 「柳多留19-17」天明4【川柳】     〈庚辰講だろうが、役者の死絵との関係は未詳〉  ☆ 文化二年(1805)    ◯『街談文々集要 二』p53(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「松本米三死絵」)   〝文化二乙丑年六月十一日、松本よね三死去〔添え書き「実子松本八十八」〕【俳名文車、家名松鶴屋、    松本小次郎養子、実ハ四代目吉沢あや子】    法号 浄誉取妙文車居士【行年廿八才、深川本誓寺乗性院】    一陽主人の画庵を訪ふに、文車の追善の為にとて、この肖像を写す、予そのかたハらにありて、そが辞    世の発句をかいつくる事になん。      まハりあいがけふは無常の風車      文車    或人の需に応じて            曲亭馬琴〟    〈「一陽主人」とは歌川豊国初代か。その豊国画く初代松本米三の肖像を見ながら、曲亭馬琴が文車に替わって辞世を     詠じ「死絵」を制作したのであろう〉    ☆ 文化四年(1807)  ◯『街談文々集要 四』p94(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「大谷徳治死絵」)   〝戯子大谷徳治、俳名馬十、道化方の名人なり、当七月十七日、上方ニおゐて死去す、戒名     徽徳俊芸信士【文化四丁卯年七月十七日】(紋所あり)     辞世 やまひにも身代りほしき切子哉     (贔屓連中が配った摺物にある追善句・過去の評判記記事あり、略)        (大谷徳次の肖像の模写あり、その中に「国政画」の落款。式亭三馬の画賛あり)     腹筋をよる/\度のしのび寐るにうき名は高くあらハれてポイ  式亭三馬〟  ☆ 文化九年(1812)  ◯『街談文々集要 十』p268(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「瀬川路考死絵」)   〝文化九年壬申十一月廿九日、四代目瀬川路考死去、生年卅一才、法号、循定院環誉光阿禅昇居士    【初中村千之助ト云、桐座若太夫、後瀬川菊之助、後ニ路之助、夫より路考】    同十二月八日、四代目沢村訥子死去、生年二十九才、法号、善覚院達誉了玄居士    【初メ沢村源之助三代目訥子実子】    路考、寺ハ本所押上大雲寺、宗十郎ハ浅草誓願寺にて、両人葬礼の見物大群集、僅ニ十日の日隔て、西    方極楽浄土に赴く、追善の錦絵一枚摺・二枚続、江戸諸名家の書入【狂文狂歌】数多出板す、当時娘・    女中連ひゐき多き両人の事故、大にしきを求めんと絵屋の前押号/\、市の如し、其外三芝居惣役者、    手向追善の発句を売歩行、往還ニかまびすし、亦宗十郎・路孝の辞世の句      寒ぎくに一霜つらきあした哉  路考      雪道や跡へ引るゝ逆わらじ   訥子     (追善の戯作として式亭三馬作『地獄極楽道中記』の序を引く。略)〟
 ☆ 天保三年(1832)     ◯『馬琴書翰集成』天保三年(1832)正月廿日   ◇篠斎宛、七月朔付書翰(二巻・書翰番号-38)②165   〝俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。この肖面の追善にしき画、旧冬大晦日    より早春、以外流行いたし、処々ニて追々出板、正月夷講前迄ニ八十番余出板いたし、毎日二三万づゝ    うれ捌ケ、凡惣板ニて三十六万枚うれ候。みな武家のおく向よりとりニ参り、如此ニ流行のよし、山口    屋藤兵衛のはなしニ御座候。前未聞の事ニ御座候。このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六    等、一向うれず候よし。ヶ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候板元ハ、末に至り、    二万三万づゝうれ遣り候ニ付、多く(門+坐)ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大    問屋にてハ、ヶ様之にしき絵ハほり不申、うけうりいたし候共、末ニ至り、いづれも二三百づゝ残り候    を、反故同様に田舎得意へうり候よしニ御座候。かゝる錦絵をめでたがる婦人ニ御座候。これニて、合    巻類ハほねを折るは無益といふ処を、御賢察可被下候。正月二日より白小袖ニて、腰に葬草(シキミのルビ)    をさし候亡者のにしき画、いまハしきものゝかくまでにうれ申とハ、実に意外之事ニて、呆れ候事ニ御    座候。ヶ様之事を聞候ニ付ても、弥合巻ハかく気がなくなり候也〟      〝右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日比までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし〟      ◇桂窓宛、七月朔付書翰(第二巻・書翰番号-40)②172    〝当早春、「俳優三津五郎・菊之丞追善のにしき画」、大流行いたし、八十余番出板いたし、凡三十五六    万枚うれ候ニ付、並合巻・道中双六などハ、それにおされ候て、例より捌ケあしく、小まへの板元ハ本    残り、困り候よし。死人の錦絵、正月二日比より同廿日比迄、三四十枚もうれ候とは、意外之事ニ御座    候。多くハ右役者白むくニて、えりに数珠をかけ、腰にしきミ抔さし候、いまハしき図之処、早春かく    のごとくうれ候事、世上の婦女子の浮気なる事、是にて御さつし可被成候〟    〈記事は同年七月朔日のもの。正月二日頃から正月二十日頃にかけて、坂東三津五郎と瀬川菊之丞の死絵が婦女子、特     に武家の奥向きを中心に三十六万枚も売れたというのであるが、その余波が、購買層を同じくする合巻や道中双六に     及んだという、馬琴の見立てである。坂東三津五郎は天保二年十二月二十七日没、享年五十七才。瀬川菊之丞は天保     三年一月六日没、享年三十一才。二人の死絵は国貞・国安・国芳等が画いている。馬琴が見たものは、白無垢、襟に     数珠、腰に樒を差した図柄というが、誰の死絵であろうか。ここでは一勇斎国芳と国安の死絵をあげておく〉
    「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」 一勇斎国芳画 山口屋板(東京都立図書館)
    「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」 歌川国安画  尾伝板 (東京都立図書館)    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』(嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】)   ◇尾上菊五郎逝去 ③491   〝閏四月廿四日    尾上菊五郎事、大川橋蔵義、先達て上坂致し居候処に、今度病気に付、江戸表なつかしく、何卒出府仕    り度存じ立、病中ながら大坂出立仕候処に、旅中にて病ひ重りて、遠州掛川宿の旅宿に於て今日死去致    し候、行年六十六歳、珍らしき銘人也、然るに、一生涯覚へ得たる処の怪談蝦蟇の妖術にてのたり出し、    雲を起して江戸へ一飛に致す事もならずや、さぞかし一念がこはだ小平次の幽霊となつて、どろ/\ど    ろにて下りつらん。     法号 正定衆釈菊芳梅観信士   江戸山谷一向宗東派 妙徳山広楽寺    但し、掛川宿にて火葬に致し、白骨は江戸表へ持来る也。     辞世 水勢を留んとすれば流れけり    大川橋蔵     大海を渡りし術も尽はてゝ大井川さへ渡られもせず   遅道〟
    「尾上菊之丞」(死絵)(豊国三代)画(東京都立図書館)    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(珍説 嘉永四辛亥年)   ◇市川団十郎逝去 ④398   〝五月廿三日、八代目市川団十郎死去之由にて、追善発句を売る也    是は五月五日初日にて、市村坐にて市川団十郎、鳴神上人、其外曽我・八百屋お七にて五役相勤候所に、    此間より持病の疝癪差発りて打伏居候に付、父海老蔵・九蔵両人にて代り相勤候処に、今日昼頃、右病    差発り、二時計の間気絶致し居り候に付、海老蔵は舞台より狂言之儘にて欠付候由、惣役者共見舞にて    大群集致し候よし、娘子供はなきわめくも有之候よし、右に付、廿四日廿五日まて(ママ)売歩行(ママ)也。     当月廿三日、八代目市川団十郎無常の風にさそはれ、惣役者より追善手向の発句、寺は芝増上寺地中     常照院、葬礼は廿五日九ッ半時之よしにて、市中を売歩行也。       ほんとうに死にもさんしやく其内に響はたかき鳴神の芸     右追善手向之発句、四板出来也、何れも先年出板之古板を相用ひ候なり、右板本四軒は       深川八名川町 叶屋源吉    八丁堀七軒町 松坂屋菊次郎       霊岸島川口町 田中鉄弥    下谷山崎町  才治     〆四板也〟          〝八代目市川団十郎病死致し候処に、成田不動尊の御利益に依て蘇生致し右口上の番附売来る也、右番付    は半紙一枚摺にて、八代目風団之上に起返りて不動尊拝し居り候図を書〟    〈口上及び図略〉    〈病死したはずの団十郎、信仰篤い成田不動尊の御利益によって蘇生したという狂言。幕外に一芝居して、興行をもり     立てようという趣向である。次項、尾上松助逝去の記事に〝八代目、死にもせぬに追善にて大騒ぎ致し、死たる松助     は一向に沙汰も無之候故、死にもせぬ追善見ます大騒ぎこれは真事に音羽やもなし〟とある。八代目は嘉永七年(18     54)八月六日、大坂にて自殺、享年三十二歳〉
    「鳴神上人・市川団十郎」 一勇斎国芳戯画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇市村竹之丞逝去 ④456   〝八月十九日     市村竹之丞死去、行年四十一歳、法名、現童院香誉家橘信士、本所押上浄土宗、長行山大雲寺葬。      常なき風に誘れし花橘狩野之助の昔しを思ひて             極楽の蓮の坐元のたち花や歌舞の卉の仲間入して      桃栗山人        呼とめむかいもなぎさの熊が谷を帰らぬ旅の名残にぞしつ  梅の屋      (中略)    右竹之丞墓処へ尾州の奥女中参詣致也、竹筒・生花壱対上ゲ候よし、右花に短冊を付る、追善の句に、      千代経べき名に有ながら照月の雪に折たる竹ぞはかなき    市村竹之丞、生年三十九歳共云、法名、位牌には祥運院賢誉竹栄居士と有之由、辞世の発句等はなし〟
   「市村竹之丞 死絵」 国麿画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ 嘉永五年(1852)    ◯『藤岡屋日記 第五巻』(嘉永五壬子年 珍説集【正二三四】)   ◇中村歌右衛門逝去 ⑤46   〝嘉永五壬子年二月十七日      四代目中村歌右衛門死去。     【大極上上吉/給金千両】中村哥右衛門、俳名翫雀。     江戸長谷川町産ニて、藤間勘十郎忰也、幼名吉太郎と云、其後亀三郎と改、森田坐ぇ振付ニ出ル也、    十七歳之時、三代目加賀屋哥右衛門の門弟となり大坂へ上り、中村藤太郎と改メ、又鶴助と改、其後芝    翫となり、文政十亥年江戸中村坐へ下り、其後中村哥右衛門と改名也、然ル処ニ、嘉永二酉年八月、於    市村坐名残狂言致し、師匠中村玉助十三回忌ニ付、上坂致し候処ニ評判宜敷、夫成ニ大坂道頓堀中に芝    居へ出勤致し、当春ハ狂言四海波平清盛と申名題ニて、青砥の善吉を加へ、大切所作事六哥仙、何レも    古めかしき乍事、御蔭を以大入大繁昌仕候、然ル処、二月十三日之頃より腮の下へいささかの腫物出来    候得共、押て罷在候処に、清盛・黒主抔の冠の紐を結び候ニ邪魔ニ成候故、医師ニ相談致し候得ば、腫    物ニ致候へバ出勤も成兼可申と申候ニ付、大入之芝居一日も難相休候間、無是非ちらし薬相用候処、障    り候哉、十五日於芝居、俄ニ病気差重り、療養手当致し候得共不相叶、十七日八ッ時、無常の風ニ誘わ    れて終ニはかなくなりニけり。     俗名中村哥右衛門、法名哥成院翫雀日龍信士、行年[(空白)]、浪花中寺町浄円寺葬。          辞世       如月の空を名残や飛ぶ雀              世の中の芝居を於て二の替り        哥舞のぼさつの樂やせん      〈「死絵」には〝世の中の芝居をすて二の替り歌舞のほさつの乗こみやせん〟とある〉       わざおぎの神とも人のあおぎしを         仏の数に入りてはかなし                         加茂の屋       武蔵野をしきりニ恋しきじの声          川柳       御病死の御入りと極楽へ哥右衛門       哥右衛門回向だんはな三ッ具足       金主ハ往生哥右衛門に入れ仏事        中村哥右衛門葬送     葬送行列先ぇ、寺七ヶ寺行列、挟箱徒四人、侍四人宛也、役者六十人計上下ニて二行、棺は乗物也、    左右へ弟子十五六人、乗物之先ぇ、位牌三尺計、忰福助持也、乗物之跡ぇ、弟子三四十人立也。       中村哥右衛門翫雀死去ニ付、     御当地御名残之節は天日坊ニ涙を残し、其節の入は皆様御存じと見て、       天日無藤石橋が一六六三十六       哥せん引れんからば(ママ)い       清盛し七八五十六死す          菅原の哥       浪波津に其名も高きうら梅も        時吹風に散りて哀ぞ     一 右、大海屋より出板之涅槃像の絵ハ中彩色三篇摺ニて、前ニ名倉弥次兵衛・野田平・国芳・藤間       勘兵衛、其外役者大勢なひ(泣い)て居ル処の絵也、二枚絵ニて、鶴林袋入配り、壱部ニて壱匁五       分売、大評判也。       抑去年江戸で死したる江戸ッ子の尾上菊五郎の忰松助死去の節ニは、追善の絵一枚も不出、然ル処ニ    今度大坂ニて死去の哥右衛門追善の絵いでる、共/\凡出板六十三番、外ニ写本彫懸共、都合八十二番、    板元三十三軒也。     右之内ニて馬喰町三丁目江崎屋板にて清盛大入道の画、当り也、又和泉橋いせや平吉板の浪花土産と    云、極楽よりの手紙の文言ニて、竹之丞と哥右衛門両人ニて口上の画、梅の屋作ニて面白く、外ハ残ら    ずはづれニて損金也。     右ニ付、川柳、丸鉄の作、       追善の跡の始末は天徳寺     右は追善の絵余り多分出候とて、絵双紙懸り名主福嶋三郎右衛門より手入ニて、二月廿七日板行取上    ゲ之上、御奉行所ぇ伺ひニ相成候、右之内堀江町三丁目大梅屋久太郎板ニて、釈迦の涅槃の処彫懸ニて、    板上ル也。       大海も呑勢ひで懸りしが         寐釈迦となりてみんな損金     又北八丁堀品川屋久助ニて、鞘当・清盛・狐忠信道行、三番出来、残らず上ル也       静ニて清く盛んニ売積り         鞘当違ひミんな香奠〟
   「中村歌右衛門」死絵 無款(東京都立図書館)
   「中村歌右衛門」死絵 酔放散人画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)
   「中村歌右衛門」死絵 酔放散人画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『藤岡屋日記 第五巻』(【嘉永六年癸丑年/十月より極月迄】日記)   ◇助高屋高助死絵 ⑤452   〝(十二月廿二日、二代目助高屋高助の葬送記事あり、略)     右高助義、霜月三日ニ名古屋ニ而病気発し、去十五日ニ病死致候処、三日病気付候節、江戸へ知らせ    来り候ニ付、其日より追善売歩行候よし、右追善ニは、       磐正院高賀俳翁信士【助高屋高助/行年五十三】     名残り狂言、忠臣蔵ニて、大星由良之助之役。         辞世        如月や西へ/\へと行千鳥     右追善絵、板元湯嶋円満寺前板木屋太吉、三番出候、外ニ由良之助切腹之処出候得共、是ハ板元知れ    ず。     右追善絵、残らず霜月十九日ニ配り、同廿一日ニ懸り名主鈴木市郎右衛門取上ル也。     右追善絵取上ゲニ相成候ニ付、古き狂言ニて改書候絵を三番出す也、刈萱道心高野山之段二番、川津    三郎赤沢山之段一番出ル也、是ハ構ひなし〟     ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)    ◯『芝居秘伝集』(三升屋二三治著・岩波文庫『舞曲扇林・戯財録』所収)   〝四十七 八代目自殺    嘉永七寅年八月六目、大阪表にて八代目三升自殺す。委しき訳は述べがたけれども、元祖才牛も変死し、    今、八代にして此の災あり。如何なる因縁にや。    此のとき江戸中大評判にて、何処へ行きても此の話計りなりしが、果して町々の錦絵店、三升の死絵の    みにて他の画なし。吉今稀なる人気と驚きたりし〟        ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十四「雑劇」④47   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝嘉永七年、右八代目団十郎、大坂に往き自害す。父の妾お為と云ふ者の所為によるなり。贔屓多き若者    故、死後までも肖像画三、四十品、絵店に売る。古来、役者の死画は二、三種に限れり。八代目のみか    くのごとくなり。また存生(ゾンシヨウ)の時より、八代目と云ふを異名のごとくになれり〟    ☆ 安政二年(1855)  ◯『藤岡屋日記 第六巻』(安政二年(1855)記事)   ◇板東秀佳逝去 ⑥447   〝安政二乙卯年三月六日 板東秀佳卒、四十三 増上寺中 月界院葬 秀誉実山信士 辞世    右は二月晦日迄、新狂言稽古致し居候処、鼻の左りへ疔出来、痛み候故、朔日より引込候処、養生不叶、    今六日朝五ッ時病死致し候、三月九日朝五ッ時葬送出候也、猿若町より新シ橋渡り、柳原土手通り、須    田町二丁目、三絃や横丁ぇ出る也、是は二月頭(ママ)五郎は志うかと親類故通る也、夫より日本橋大通り    を増上寺大門より入る也。     大上々吉九百五拾両 猿若町壱丁目大和屋  若女形 板東志うか〟   〝右板東秀佳追善絵一件    三月七日より出板致し候処、追々仰山に出板致し、都合九十番出、板元十八軒也、右に付、絵双紙名主、    二十五日に手入有之、通り三丁目寿にて板を削也、此外にも十四五番出板致し候得共、是は見落としに    相成、構なし、中にて八代目鏡に向ひ居候処へ、志うか駕篭に乗り来候駕舁、鬼にて嵐音八也、是計大    当りにて、跡は残らずはづれ也〟
   「板東しうか・市川団十郎・嵐音八」死絵 三代目歌川豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇八代目市川団十郎追善川施餓鬼修行 ⑥568   〝八月二日(市川団十郎一周忌の追善供養の世話人、留守居書役・井田幾蔵(俳名亀成)、医師・武内俊    宅、船宿・佐倉屋三右衛門、逮捕される。米五合入の仏餉袋を三万五千枚配って施餓鬼を行う予定であ    ったが、差し止められる)   〝画師豊国も世話人ニ頼れ候ニ付、右袋百枚、赤坂絵双紙屋伊勢兼へ頼ミ遣し候処ニ、伊勢兼ニて、豊国    より頼れ候由之断書を、袋之裏へ書付、所々へ配り候ニ付、右両人とも懸り合ニて、御呼出しニ相成候〟    〈奉行所に呼びだされて、その後どうなったものか、未詳〉  ◯『藤岡屋日記 第九巻』(万延元年(1860)記事)   ◇尾上菊五郎逝去 ⑨316   〝万延元申年六月廿八日     尾上菊五郎病死之事      釈菊憧梅碩(健カ)信士  猿若町二町目 四代目 尾上菊五郎 俳名、紅芹舎梅婦 五十三        辞世       数珠をおくおふぎも夏の名残哉      釈妙蝶貞現信女     同人妻  てう 四十九    菊五郎、摂州浪花の産にして、中村歌六の門弟にて、初名中村辰蔵と言、又中村歌蝶と改め、天保二卯    年九月、三代目尾上菊五郎養子と成、尾上栄三郎と改め、家号音羽屋、俳名栄枝、同年十一月市村座に    て出勤す、是江戸初舞台なり、弘化三年正月、尾上梅幸と改め、安政三卯年九月、尾上菊五郎と改名し、    大坂より下り、同六未年養子中村延雀へ梅幸を譲り、梅婦と改るなり、然処、当万延申六月大暑之時候    に当り伏る処に、妻てう義、平常睦じく看病致し居り候処、今廿八日暮六ツ時、菊五郎息引取候に付、    てう義愁傷致し、水にて口をしめし、自分も漱ひ致し、湯呑にて水一盃のみて、其儘打伏し候に付、側    に附居候女ども、是は看病のつかれ可成と介抱致し候処に、睡るが如く息たへ死し候よし。右に付、    両人を浅草にて火葬に致し、一ツ棺に入れ、白浅黄の無垢二枚かけて、今戸一向宗広楽寺へ一所に葬な    り〟
   「尾上菊五郎」死絵 三代目歌川豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)