☆ 文政十年(1827)
◯『馬琴日記』第一巻 p100(文政十年五月五日記)
〝覚重たのミの大雅堂書画真偽鑑定の為、(宗伯)文晁方へも出がけに立寄候積りニ出宅。不及其義、八
半時比帰宅〟
〈覚重とは馬琴の女婿、渥美覚重。画号赫州。馬琴宅の杉戸絵を画いたり馬琴の依頼で古書画の模写を行っている。戸
田因幡守の家臣。大雅堂の書画には贋作も多いとされる。馬琴は谷文晁の鑑定眼を高く買っているのだろう〉
☆ 文政十一年(1828)
◯『馬琴日記』第一巻 p363(文政十一年七月廿五日記)
〝日雇人足ヲ以、文晁子へかけ物品々見せに遣す。右の内、雪舟山水并に常信竹雀は贋物也。常信の方は
新井甚之介などにて、名印は後人のわざなるべきよし也。常信の枯蓮ニ鶺鴒ハ正筆、又、探幽騎馬人物
も宜候。但、一両時其筋之粉本ニて有之候を、後ニ印を押候物歟。印ハ正印のよし也。又、雪山の山水
も宜候。これも印ハ後人の押候ものゝよし、返書に申来る〟
〈谷文晁は馬琴も信頼を置く鑑定家なのであろう。新井甚之助は贋作では名を知られた存在なのだろう〉
☆ 文政十二年(1829)
◯『馬琴日記』第二巻 p48(文政十二年三月七日記)
〝覚重来ル。牛込辺の寺より払物之よしニて、探幽画潘閭の図・常信画獅子牡丹一幅・児文珠(ママ)一幅持
参、被為見之。探幽の方表装美麗ニ候へ共、真偽心元なきもの也。常信獅子牡丹ハ雪山の印有之。雪山
の画へ、後人常信の名を書入たるものか。児文珠之方ハ表具ハ用立かね候へ共、宜く見え候間、直段つ
け遣ス〟
〈馬琴の鑑定によると児文珠のみ真筆のようである。覚重とは馬琴の女婿・渥美覚重。馬琴宅の杉戸絵を画いたり古書
画の模写も行う。戸田因幡守の家臣〉
◯『馬琴日記』第二巻 p51(文政十二年三月十一日記)
〝渥美覚重持参、払物のよしニて、探幽画よこ物遠帆の図、并雪の山人物、并ニ常信図丁令威騎鶴の図等、
三幅也。いづれも印斗、尤うたがハしきもの也〟
☆ 天保二年(1831)
◯『馬琴日記』第二巻 p443(天保二年九月十七日記)
〝戸田内河合勇七郎来ル。(中略)大雅画かけ物持参、見せらる。一幅対の処、右のかた欠候ものニ可有
之旨、鑑定いたし遣ス〟
〈河合勇七郎は深川清住町戸田因幡守の家臣。勇七郎の男・孫太郎は馬琴が諸本の書写を依頼する深川住筆耕のひとり〉
☆ 嘉永三年(1850)
◯『反古のうらがき』〔鼠璞〕中83(鈴木桃野著・嘉永三年記)
(「大雅堂」の項)
〝此人の画、東都にあるはこと/\くいつはりなるよしは、みな人のしる事なれども、其門人どもが工み
に似せたるは、いかにしてもしるよしなしとぞ。京摂の間は其もてはやしも又甚しく、其門人といへど
も、あざむかれて偽物を賞翫するもあり。大雅堂歿して後、其年忌に当れる日、門人共がいゝ語らふよ
ふ、こたび打よりして追福の会を催し、おの/\師の手筆の画持寄りて、大きなる寺院の広座敷にかけ
置て、互に見もし見せもして、終日供養なしたらんは、師のよろこばしく思し玉はんとて、其日の酒飯
の料出し合て、二三十人寄り合けり。こゝに何某といへる人あり。これは大雅堂の門人なれども、師の
世にいませる頃より、師の偽筆をかきて、銭金にかゆるをもてなりはひとなしてありければ、同門の人
々賤しみ悪みて、常にも同門の数にもいれねば、此度の催しの事も告しらせざりけり。すでに其日も時
うつりて、皆酒をくみかはし、画道の物語などしていと興ありける頃に、彼の何某が麻の上下に黒小袖
着て、手に一幅の画を携へ、其席に入来れり。人々あれは如何にといふに、いや吾も師が門人なれば、
今日の列にくわへ玉へ、各が約の如く、師の画幅も持て来りぬ、寄合の酒飯料も持て来ぬとてさし出す
に、皆々かほ見合せて、如何に計らはんといふを、とし老たる門人がいふ、此人常に賤しみにくまれた
りとて、師の門人に疑ひもなく、殊に師の不興蒙りたりといふにもあらねば、師の追福の為に催せし会
に、数に加へじといふ理りなし、またかれが持て来りし師の画幅もあれば、もて帰れといふべき理りな
し、許して列にいるゝこそよからめといふにぞ、皆人々もさらばとて通しけり。何某も大によろこびて、
おのが持て来玉ふ幅ども見んとて、広座敷一ト廻り見てけり。帰り来て、元の座に付けるが、扨もよく
多く集まりてめでたし、各が師の道慕ひ玉ふ心の深きも推計られて、よろこばしく侍るなり、しかし今
見たりし中に、おのれがかきたる幅、三幅迄見ゆるといふにぞ、皆人々おどろきて、にくきかれが広言
かな、師の門人がまさしく師に授りし画なるに、彼れが筆ならんいわれなし、いづれをか自からの筆と
いふや、ことによりては其まゝに捨置がたしなど、口々にのゝしるにぞ、いや争ひは無益なり、第幾番
目の幅より、又二つ置ての幅、末より幾番目の幅、此三幅はみなおのれが筆なり、但し其持主はしらね
ども、親しく師の筆をとりて画きしをみて授りたるにはおそらくはこれあるまじ、市にて求め給ひつる
ならん、さあらんには正しき師の筆とはいゝがたし、いかにぞやと問ひたるにぞ、みな目を見合ひて辞
なし。但し市にて求るにも、一人の眼に極め兼たれば、同師の友どち助け合て見極たることゞもなれば、
今更に師自ら授け玉へるなりともいつはり兼ねて、悪しとは思へども、争ひにもならで休みけり。かゝ
れば此の何某の偽筆は、おさ/\師にもおとらざりけるが、同師の友にさへ見あやまる程ならば、他人
の見て真偽を言ひ争ふは益なきことぞと、京師より帰りたる人語りける。【◎大雅堂、文晁、応挙ナド
ノ画ハ偽シ易シ。椿山ノ画ニ至テハ、天真爛漫ニ企及スベカラズ。夫サヘ近時偽物オボタヾシクアリテ、
庸凡ハミナアザムカルヽ也。予鑑裁ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ画ニ至ツテハ、暗中模索スルモ失ハジ】〟
〈「師の世にいませる頃より、師の偽筆をかきて、銭金にかゆるをもてなりはひとなして」とある。在世中の大雅堂は
どう思っていたのであろうか。この挿話、残念ながらそれについては触れてない。この贋作造り、それで生活してい
たというのであるから相当数流通していたのではあるまいか。結局、門人達も師匠の没後、不本意ながら贋作を真筆
として追認し、結果的にこの贋作造りに荷担してしまったのである〉