参考資料 新聞挿絵画工一覧(明治年間)(未定稿) 新聞小説挿絵年表(明治年間)(未定稿)
☆ 明治十年代(1877~)
◯「明治初期の新聞小説」野崎左文著『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』上147)
〝新聞挿画の沿革
小新聞の挿画を書き始めたのが『絵入新聞』の落合芳幾氏であった事は前に述べたが、引続いて筆を把
ったのが歌川国松、新井年雪(ヨシユキ)(後芳宗(ヨシムネ)と改む)等であった。芳幾氏の作をその下絵で見る
といっも貼紙をして改描した痕跡を存し、また線書きも粗ッぽく別に締麗な絵だとの感じも起らぬが、
一旦剞劂師の手を経て刷上った処を見れば、殆ど別人の筆かと思われるほど優美なものに出来上り、か
つその画面に一種の艶気を含んでいたように見えた。元来「絵入新聞」の続き物には男女の恋愛関係の
物語が多く、後年高畠藍泉、前田夏繁両氏が退社し、二世為永春水氏がこれに代って専ら続き物を書く
ようになてからは一層人情本的の文体となったので、その生(ナマ)めいた文章と相俟って、芳幾氏の挿画
は益々艶を増したように思われた。唯私(ヒソ)かにこの大家に不似合だと思ったのは、故人の粉本ならば
まだしも、現存者たる芳年永濯両氏等の描いた人物の姿勢などをそつくりそのまま模写して憚らなかっ
た一事であったが……しかし一たび芳幾氏の手にかかると原図の拮屈なる筆勢も忽ち軟化して、如何に
も優艶な風に変ったのは不思議であった。されば新聞の挿画といえば芳幾氏に限るように持て離され、
その頃発行された『絵入人情雑誌』『芳譚雑誌』の絵も皆この人の筆であった。
惺々暁斎(キヨウサイ)氏は「仮名読」の魯文翁とは年来の旧知己で、翁の戯作本のさし絵は大概暁斎氏が書
いて居る。それらの関係から「仮名読」紙上や「魯文珍報」等へ暁斎の狂画が出るようになったが、一
種奇抜な筆致ゆえ続き物のさし画には不向で、書く物は調刺的の漫画のみであったが、これらが恐らく
今のパックふう狂画の嚆矢であったかも知れぬ。或時同氏が仮名読社へ来て編輯局の白壁へ戯れに酔筆
を揮った巨猫の図が新聞廃刊後数年間保存されていた事もあった。さてこれは新聞挿画とは関係のない
余談ではあれど、同氏の逸話の一つとして僕が現在見たままを話すのだが、或日暁斎氏が魯文翁の仏骨
庵を訪うた時氏は名うての酒豪ゆえ魯翁も先ず酒肴を出して持(モ)て成(ナ)して居る処丁度僕も行合せた。
其処へまた信州辺の製糸家だとかいう人が尋ねて来て携帯した立派な画帖を取出し、これへは東京有名
な文人の揮毫を請いたいのであるが、その手始めに先ず先生の一筆が願いたいと魯翁の前へ差出した。
翁はこれを見てそれは幸い茲に暁斎先生がおられるから願ったらよかろうと勧めたが、その人はまだ暁
斎の名も知らずかつ一見した処で頗る風采の上らぬ大坊主であるからその技倆を危ぶんでか聊か躊躇気
味に見えたのを、微醺を帯びた暁斎氏はひったくるようにその画帖を手元へ引寄せ、横さまに長く展
(ノ)べて、傍らの手習筆を盃洗の水で洗い、復た墨を含ませたかと見る間に画帖の七、八葉分へ蜒々た
る横線を黒々と引いて仕舞った。その時の依頼者の迷惑そうな顔色は今も眼前に見るようだが、暁斎先
生はそんな事には委細構わず、サアこれからだ見ていなさいと、今度は小さな水筆に持替え、ウネ/\
した黒線の上へ数疋の蛙が種々の姿で歩いて居る処を画き、最後に黒線の前後に頭と尻尾とを書き添え
るとこれが長蛇の形となった。つまり背中の上で蛙が行列して居るのを蛇が見返って居る図と成った。
茲に至て依頼主も始めてその腕前に敬服し、数回に渉って数名の人に頼むよりは図らず一時によい物が
出来たとて大に歓び、後にはこれを額に仕立てて愛蔵していたという事である。
芳宗、国松等に次いで新聞の絵を書いたのは芳年門人の山崎年信である(仙斎と号す通称信次郎)。こ
の人は同門中非凡の筆才があった人で、また画道の研究にも頗る熱心であった。同氏の机の抽斗(ヒキダ
シ)や文庫中には新古絵画の粉本または写生帖などが一ぱい詰つていた外に、硝子撮影の写真が百枚も二
百枚も貯えてあったが、これは自身が度々浅草公園内の写真屋に赴き、シヤツ一枚となって種々の姿勢
を写させたもので、下絵に取掛る時は必ずこの写真を取出し注文に適する姿のものを写生するのが例で
あった。それ故にやいつも同氏の描く人物には肥満なのがなくて、皆自身同様痩躯の人ばかりであった。
惜しい事には酒のためにしばしば身を誤り、また芳年氏の許諾を得ずして或る粉本を持去ったとかいう
罪で、師匠から破門せられて大坂の『此花新聞』を経て土佐に赴き、一年ばかり高知の『土陽新聞』の
挿画を担当していたが、田舎では絵画の研究が出来ぬとあって都恋しくなり、また東京へ帰って来たが
その時の道中は大坂へ着した時懐中剰す所僅かに五十銭、それから汽車を横目で見ながら東海道をテク
/\と歩いての上京中途中で帽子を売り帯単衣を売り或夜は辻堂に寝たりしてヤッと東京に着した時身
に纏うて居るものはシヤツとズボン下だけであった。殊に一番困った事はと本人自身の話したのは静岡
県下へ入った時或る川の出水後仮橋が架っていて橋銭壱銭というのだがその持合せがないために一、二
里ほどブラ/\と元来し途へ立戻り、夜更けて橋番の寝込んだ頃を見すましてそっとその僑を渡ったと
いう事である。こんなに貧苦に迫りながら少しでも金が手に入ると直にそれで絵画上の参考書を買込む
という風で、その後僕と下宿屋に同棲のころ、僕が地方新聞社から送って来た続き物潤筆料の郵便為替
を同氏の外出のついでに受取って来てくれよと頼んだ事があるが、やがて十冊ばかりの書物を携え帰り
これは誰の風俗画これは誰の花鳥画譜、みんなで八円とは余り安いから買って来たというに、シテその
金はと問返せば、イヤ待ち給えオオそれは君の潤筆料を暫時借用したのであったと平気な処などは頗る
仙人風を帯びていて、突飛な挙動があったにかかわらず少しも憎気のない人であった。また同じ頃僕が
数年前から製図の参考として持っていた西洋の遠近法を、その原書について図解の説明をした時は非常
に歓んで、とう/\原書中の図を悉く写し取り、それから後は家体または背景などを描く時は、この遠
近法の書き方に従い下絵を朱線だらけにして苦んでいた事もあった。そして在京中は魯文翁の高野長英
の続き物の挿画を書いた事もあるが、中頃京都の『日之出新聞』へ転じてから師宣とか春章とかいう古
い処の筆意を学び、画風は一変したもののかえって自家の本領を失い、計判前日の如くならずして十九
年頃同地で没したが、その門人にはかって『万朝報』の画家であった藤原信一氏や二世田口年信氏など
がある。
年信氏に次で『いろは新聞』の絵をかいたのは同じ芳年門下の稲野年恒氏(名は孝之加賀の人、『浮世
絵備考』に稲野孝之を年恒門人としたのは二者同一人の間違いである)で、この人は後に『大坂朝日』
から『大坂毎日』に転じ絵画研究として洋行した事もあって関西の画壇を賑わせた一人であったが明治
四十年五月二十七日五十歳で病没した。
また月岡芳年氏の絵を載せ始めたのも『いろは新聞』であったように記憶するが、それはただ臨時もの
としてほんの数回載せたのに過ぎなかった。而して芳年氏の本舞台はその翌年ごろ星亨(トオル)氏主宰の
下に三十間堀?で発行した『自由燈』であって、芳年氏はおれの絵で一番この新聞を売って見せるとい
うはどの意気込みであっただけに凡(スベ)てが絵画本位で、その小説はむしろ挿画の添え物でもあるか
のように感じられた。故にその版木の寸法にも制限がなく、折には三段抜き以上の極めて大きな絵を出
す事もあり、人物を下段に顕わしこれと対照すべき月だの遠山などを別に離して上段へ掲げたり、また
附け立ての背景を廃して思うさま余白を残し、ことさらに余韻を生ぜしむるように工夫したものもあっ
て、画面に変化が多く随って著しく人目を引いて評判も俄(ニワ)かに高くなった。そしてこれまでは一段
か一段半の長方形に限られていた他の新聞挿画も追々芳年風にかぶれて、版木が一体に大きくなりかつ
その絵組にも奇抜なものが顕わるるようになった。とにかく芳年氏が出て新聞挿画が一変したというの
は事実である。
しかし今からち思うと、有名な芳年氏もまだ当時は全く生硬の域を脱し兼ていたよう見えた。例の強い
筆癖で人物はあたかも木彫人形の如く、その衣紋は紙衣(カミコ)か糊ごわい洗濯物でも着て居るようで、
少しも嫋(タオヤ)かな処がなく、また写生を専らにしたにもかかわらず人物の姿勢にも、随分無理な点が
あったのを往々見受ける事があった。さればその頃滑稽堂から発行された『月百姿』の錦絵にも、この
欠点は顕われていたが、要するに同じ国芳の門下でも芳年氏は剛猛な武者絵風のものに長じ、芳幾氏は
優艶な美人画が得意であった。そしてその頃この勢いよき芳年氏の筆癖を最も能く伝えたのが『絵入自
由』の新井芳宗氏である。
芳年氏と相並んで一方の旗頭と仰がれたのは鮮斎永濯(エイタク)氏である。氏は通称小林秀次郎、名は徳宣
(トクセン)、幼時狩野永悳(エイトク)の門に人り弱冠にして大老井伊家のお抱え画師となった事もあるが、それ
より後名家の筆法を学んで一機軸を出すに至ったのである。同氏が始めて新聞続き物の挿画に筆を取っ
たのは、僕も創業に与(アズカ)っていた『絵入朝野』で、その発刊の準備中挿画は誰に頼もうかとの問題
が起った時に、一つは歌川国松氏に、今一つは是非とも永濯氏の筆を煩わしたいという社中の希望であ
った。その折この使に当ったのが、小梅の宅を訪い懇々と依頼した処が、こちらの指名する剞劂師に彫
らせるならば書いて見ようとの承諾を得て、その後下絵を携えてしばしば永濯氏を訪問した事があつた
が、その都度取次に出たのが今の小林永興氏であった事を、十数年後に至て永興氏から聞いて、アアそ
うであったかと坐(ソゾ)ろに昔懐かしく思った事もあった。茲でまた銭問題を持出すのは話が卑しくな
るようだが、その頃の挿画の画料が芳年永濯の第一流どころで壱枚壱円、第二流以下になると三、四拾
銭で五拾銭というのが最高の相場であった。この一月の末京都から上京し久しぶりに拙宅を訪われた歌
川国松氏の直話によると、同氏が明治十三年頃『有喜世新聞』の挿画を一日二個ずつ画いていた時の報
酬が月給制度で一月拾円か拾弐円であったとの事だ。また同氏の話にやはり『有喜世新聞』の表紙画と
して、地球図の中に諾冊二尊(本HP注、イザナキ・イザナミ)が立って居るところの絵を永濯氏に頼む事と
なり、その使を命ぜられたのが国松氏であったが、社主がこれでよかろうと包んで出した目録が五拾銭、
それは余り安かろうと再三押問答をしても社主が聞入れぬので、とうとう国松氏が自腹を切り壱円にし
て持って往ったとの事である。
永濯氏の筆は本画から出ただけあって、品もよくかつ叮嚀で、人物の容貌などは如何にもその人らしく、
殊に背景の樹木山水等は浮世絵派の及ばぬ処があって、一点も投やりに描いた処がなかったし、腕はた
しかに一段上であったにかかわらず、唯芳年氏の如き奇抜な風なくまた芳幾氏の如く艶麗な趣に乏しか
ったためか、俗受けを専らとする新聞の挿画としては気の毒ながら評判に上らず、やや芳年氏のために
圧倒せられた気味があった。しかし僕の敬服したのは他の画家中には小説記者の下絵に対し、人物の甲
乙の位置を転倒したり、あるいは全くその姿勢を変えたりして、下絵とは殆ど別物の図様にかき上げる
人が多かったのに、独り永濯氏のみはいつも僕の下絵通りに筆を着けて少しもその趣を変えなかった一
事で、これは同氏の筆力が自在であった証拠だと思われる。ただ一度僕が性来左利きのためツイ間違え
て左の手で楊枝を遣って居る人物をかいた時「これは左利きになって居るゆえ楊枝を右の手に持換えさ
せました」との断り書を添えてその絵を送られた事があった。
尾形月耕氏(通称田井正之助)が新聞の絵をかき始めたのもまた同じ『絵入朝野』の紙上であった。同
氏は師に就かず自流でやり上げた人で、最初は菊池容斎の『前顕故実』ぐらいか手本であったが後には
諸家の流を取入れて一家を成した人である。明治十四、五年頃は京橋弥左衛門町に住居し、重に陶器を
描いていたのを、風外氏と僕とが見ての筆の凡ならぬのに感じ、終に勧めて『絵入朝野』の絵をかいて
もらう事になったが、同時にその頃翻刻物の八犬伝とか新作物の読切り本とかへ追々筆を取るようにな
り、傍には美術界の大家とまでなったのだ。
されば明治初期の新聞挿画の画家といえば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳
宗、歌川国松、稲野年恒、橋本周延、筒井年峰、歌川国峰、後藤芳景の諸氏に止まり、後年名を揚げた
右田年英、水野年方、富岡永洗、武内桂舟、梶田半古の諸氏は挿画の沿革からいえば第二期に属すべき
人で、久保田米庵氏が『国民新聞』を画きはじめたのもまたこの後期の時代である。
◯「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』上83)
〝『絵入自由新聞』の一松斎芳宗、『絵入朝野新聞』の香蝶楼豊宣、それにかかわらず一流を立てていた
のに『絵入新聞』の落合芳幾、『開花新聞』の歌川国松がある。尾形月耕は何新聞であったか思い出せ
ないが異彩を放っていた。東京式合巻は主として新聞画家から賑わされたといって宜しからろう〟
☆ 明治十六年(1883)
◯『絵入朝野新聞』創刊 絵入朝野新聞社 明治16年1月22日
(国文学研究資料館「近代書誌・近代画像データベース」)
(上記データベース所蔵の1号~12号(明治16/1/22~2/10)までの画工は以下の通り)
松斎芳宗 1号 年参 2・3・5-8・12号(季参)9・11号 ※4・10号は署名なし
☆ 明治十七年(1884)
◯『私の見た明治文壇』「今日新聞と浪華新聞」野崎左文著 春陽堂 昭和二年刊
〝(明治十七年九月二十五日、夕刊紙「今日新聞」創刊。主筆・仮名垣魯文、助役・野崎左文)
絵は尾形月耕、落合芳行くの両氏(芳幾氏は東京絵入の外他の新聞へは筆を取らぬのを魯文交誼上無落
款で描く事を承諾されたが後には歌川国峰氏が之に代つた)〟
☆ 明治十九年(1886)
◯「今日新聞」三八〇号付録(明治19年1月2日)
(「ふりかな新聞画工之部」)
〝東京 大蘇芳年 同 落合芳幾 同 小林清親 同 尾形月耕
同 稲野年恒 同 新井芳宗 同 生田芳春 同 歌川豊宣
京都 歌川国峰 大阪 歌川国松 同左 後藤芳峰 高知 藤原信一
〈この付録は当時の新聞を顔見世番付の趣向で紹介したもの。「ふりかな新聞」とはいわゆる「小新聞」を指す〉
☆ 明治二十九年(1896)
◯『早稲田文学』第8号p288-290「彙報」(明治29(1896)年4月15日刊)
〝新聞の風俗画
所謂小新聞の続き物を挿む事は以前より行はれて、こも一種の風俗画たるに相違なしと雖も、其の画工
は皆浮世絵師と称する一派に属し十中八九はたゞ歌川風の余睡を舐るに過ぎざりき、故芳年出でゝ西洋
の写生を折衷してより、現に其の高弟たる年方は『やまと』に健筆を揮ひ、同じき年英は『朝日』に従
事し、故永濯の衣鉢を襲げる永洗また『都』に筆を揮へり、此等は地歩を歌川以外に逸して、明治の新
風俗を描くに拙なからずと雖も、其の画すでに続き物の賓たり、画題は本文に依りて択ばざるべからず、
小説家の図案に支吾せざる限りに於て意匠を設けざるべからず
続き物が御家物なれば挿画も上下を着けたる人物ならざるべからず、本文が時代物なれば、其の図も兵
馬甲兵のさまならざるべからず、よし其の続き物が世話物なるにもせよ、作者の立案必ずしも今の風俗
と矛盾することなからんや、而も画工は此の矛盾に盲従して筆を執らざるべからず。されば続き物も挿
画は画手をして文章と独立して、現代の風俗を現はすこと能はざらしむ
加之、只管粉本に齷齪して現代の風俗などには殆ど重きを置かざる浮世絵師の多数には、如何に画題と
意匠との自由を与ふるも、今日の風俗画として見るに足るべきを製出するの手腕を欠けり。
見よ、浮世画師の最も得意とする錦絵に於ても斬髪物を描けるは戦争絵もしくは如何はしき名所絵の外
殆ど皆無にして、大奥の女中にあらざれば則ち役者の似顔、歌麿が美人絵の模写にあらざれば、則ち容
斎が武者絵の剽窃のみ〈容斎は菊池容斎〉
たゞ近日所謂中新聞若しくは大新聞に、続き物の挿画にあらざる純粋の風俗画を載することゝなれるは
めでたし、其の画風も小新聞の浮世絵とは別にして、純粋の西洋風もしくは西洋風を折衷せる略画の多
きは、浮世画の風俗画に適せざればならん、素より花やかなること、婀娜なることに於ては在来の浮世
絵に劣り、又往往写生又はをかしみを主として気韻も筆力も殊に版のよからぬため乏しけれど、観風察
俗の料として屡々取るべきの価あり
戦争の当時は『日々』『日本』等まで此種の画(特に戦争に関するものを挟みたりしが、近来は見当ら
ず、たゞ『国民』は例に依て米僊一派の筆に成れる都鄙の景色、地方の風俗などを掲げ、「露店素見」
と題して府下の露店のさまを続け出せる、面白し、『時事』には往々時弊を諷せる戯画を出だし、『毎
日』は重に景色絵を掲げ、『読売』の「意外千万」は社会下層の時事とを対偶し、例へば古下駄が歯磨
き箱になる所と雨宮某が獄中にて論語を合せたる如き面白し、『報知』の「嘘の世の中」「裏と表」な
ども矢張これと似寄りたる趣向なり、尚同紙は広告欄の輪郭に風俗画を加へて、日々新しきものと挿し
替ふるは工風也〈米僊は久保田米僊〉
されど今日の風俗画は尚幼稚なり、其の運筆上の技倆は措きても、観察の浅き、滑稽の露なる、見るに
足るもの尠し、洋画家某氏慨然として曰く
今の風俗は実に奇態なり、西洋の事物が多く輸入されたる傍、一方に於ては旧時代の事物存す、例へ
ば洋服に下駄を穿くといふが如き不調法は今の風俗のいづれの部分にも見る所にして、而かも此の不
調和は追々に消え行くべきものなり、されば今日に当りて仔細に此様を描がゝずんば終に駟も及ばず
の憾みあるべし。悲しいかな、浮世絵師には此緊急なる好画題あることを自覚せるものなく、洋画家
はた日本の風俗画に熟せず、現に余の如き数々之を試みると雖も、髷の形、衣服の着こなしなど、ト
テも浮世絵に及ばす、さりとて東西画風の折衷を待つまでには、今の風俗は跡方もなくなるべし、云
々
ポンチ画の如きも西洋に比べて其の諷諧の浅薄なること殆ど同日に論じ難し、日本にても昔しは鳥羽
僧正の如き名手ありたり、之を思へば御同前に今の画家ほど腑甲斐なきものはあるまじ云々
蓋し此の嘆を発するもの、他にも尚多かるべし〟
〈「支吾」は抵抗。「駟も及ばず」は追いつけないの意味。当世風俗を写しだすことこそ新聞の挿絵の使命、それを担う画工
の殆どは浮世絵師だが、芳年とその門弟および永濯門弟の永洗がなんとかその使命に応えているものの、その他は歌川派の
遺産を粉本視して泥むばかり、現代の風俗などには無頓着だというのである。それに応じて、洋画家某はいう、文明開化以
降、和洋の風俗が混在するという世にも稀な当世なのに、肝心の浮世絵師がそのことに無自覚で活写しようとしない、ある
いは活写するに足る描法を追求しようとしない。では洋画家にそれが可能かというと、これが残念ながら浮世絵にも及びつ
かない、しかし世相はめまぐるしい、手を拱いているうちに今の風俗は跡形もなくなってしまうだろうと〉
☆ 大正十四年(1925)
◯『明治奇聞』宮武外骨著・半狂堂・大正十四年刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇三編「新聞小説の挿絵」七月刊(19/28コマ)
〝明治初年の新聞紙にも絵を入れたのはあるが、絵を入れる事が主題になつて居なかつたので、絵のない
時もあつた。明治八年四月に『平仮名絵入新聞』といふのが出来、それが後に『東京絵入新聞』と解題
して俗衆に歓迎されたので、絵を入れる事を主とする新聞が多く出来、題号にも
大阪絵入新聞 明治十年 五月創刊
岩手絵入新聞 同十一年十二月創刊
西京絵入新聞 同十三年 四月創刊
愛知絵入新聞 同十三年 六月創刊
仙台絵入新聞 同十四年 七月創刊
絵入自由新聞 同十五年 九月創刊
絵入朝野新聞 同十五年十一月創刊
絵入朝野新聞 同十六年 一月創刊(同題号)
京都絵入新聞 同十六年 二月創刊
名古屋絵入新聞 同十六年 創刊
新潟絵入新聞 同十八年 六月創刊
日本絵入新聞 同十八年 十月創刊
絵入扶桑新聞 同十九年 一月『愛知日報』改題
絵入黄金新聞 同十九年 三月創刊(名古屋)
などいふのがあつた、そして是等の新聞紙中、初期のものは時事の報道に絵を入れて居たが、後には続
物語や小説にのみ絵を入れる事に成つた、明治十七八年後は東京の各社、上掲外に絵入の『改進新聞』、
『自由燈』後に『燈新聞』『今日新聞』『やまと新聞』等があつて、競争的に著名な画工に描かせた密
画を精巧な彫刻にして出す事になつた。
当時東京には野口圓活だの江川某などいふ彫刻師の親方があつて、新聞小説の挿絵を彫刻して居たが、
東京一は京橋区南鍋町にあつに(ママた?)悌興堂(山本信司)であつて、毎日弟子共が二十人ほどで盛ん
に彫刻したものである。
此新聞小説の彫刻に就て、「ハギ」といふ事の行はれた話を述べる、当日の時事問題などを絵にしたも
のならば、急いで彫らねばらなぬが、作り事の小説に入れる絵などは、急いで彫らねばならぬが、作り
事の小説に入れる絵などは、五日でも十日でも前から彫りにかゝれる筈であるに、小説家といふ連中は
いづれもズボラ者で、差し迫らねば筆を執らぬのが多くあり、明日の紙上に載せべきものを、今日の午
前にやつと書き上げ、それを見て画工が絵を描き、午後の二時三時頃に彫刻師の方へ廻し、「サーこれ
を五時までに彫つて呉れぬと印刷のまに合はないのだ」とセキ立てるので、彫刻師の方では「ハイよろ
しい」とばかりで、其版下を桜の板に貼つて火で乾し、これを二時内に彫り上げるには、三人役でよい
とか、五人役でよいとか定めて、其板を鉈で三つなり五つなりに割り、その一片を三人五人が分担して
彫り上げ、それを合せて膠で継ぐのである。後には「ハギ板」といふのを予備的に様々拵へて置き、絵
を貼つた後、其継目を放して分担する事も行はれた、こゝに示す二面の絵は其の「ハギ」で彫刻したも
ので、下の絵は六人分担、縦の一線は予備板の継目、それを各三個に割つて彫刻したのである。
古い新聞の小説挿絵に継目が多くあるのを見れば、其小説の作者はヅボラ者であつたと断定してよろし
い〟
☆ 大正元年(1912)
◯ 大正元年時点の新聞挿絵画家
(高橋晴子著「近代日本の新聞連載小説挿絵」NII-Electronic Library Service)
大阪毎日 山本英春、阪田耕雪、多田北嶺
東京朝日 右田年英、名取春仙
大阪朝日 右田年英、幡恒春、野田九浦
読売 梶田半古、石井滴水
都 井川洗崖
国民 川端龍子、平福百穂
報知 鏑木清方
時事 渡部審也
やまと 武内桂舟