Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しんぶんきじ 新聞記事 (大正以降)浮世絵事典
 ☆ 大正二年(1913)  ◯『読売新聞』(大正2年1月17日)   〝浮世絵複製の企 古吾妻錦絵保存会成る     世界的の価値 我が浮世絵の価値は今や世界的に認められてゐる。欧米を漫遊する我が国人が彼地の    美術館に於いて、はた個人の蒐蔵家の許に於いて、日本の古美術の沢山集められてゐる事には屡々驚か    される様(やう)であるが、浮世絵はいつも其の主要な部分を占めてゐるのである。而(そ)して我々は彼    等の熱心に感服すると共に、一面には我が古美術品の流出に戦慄せざるを得ない。     保存会の主旨 かくしてこの世界的価値ある我が浮世絵も年々海外へ流出する許(ばか)りであるが、    古吾妻錦絵保存会と云ふのは、即ちこの浮世絵の価値あるものを複製し保存せん為めに起つたのである。    広重、北斎を始めとし、春章、春信、春重、湖龍斎、歌麿、清長等、春朝等、諸家秘蔵の古錦絵名作を    集めて、木版師片岡美登氏が複製するので、其の出来栄は中々いゝ様である。     会則 毎月二枚、二回に複製し、寸法(竪九寸七分巾七寸)を一定にして画帖にも出来れば、同じ額    に入れる事も出来る様にする事。百枚を以つて一期とする事。一回分の会費卅銭 実物と引替にする事。    出版画は会員にのみ分ち 他は絶版する事。因みにこの会は去年十二月から既に始めてゐるが、猶入会    したいものは本所区相生町四の十七 片岡美登方へ申込めばよいのである(五重塔)〟  ◯『読売新聞』(大正2年7月13日)   〝浮世絵の蕉園 -明治美人伝(十八)-長谷川時雨     浮世絵の名家蕉園、池田ゆり子を花にたとへたならば、其風姿(すがた)は鹿の子百合の、風にも露に    も恥らうて、稍うなだれて打ちそむいた優しさと、匂はしさとがある。今こそ輝方画伯の新妻とよばれ、    幼き児に母とよばれてはあれど、三年ほどまへ、笹の小笹の、根岸の薮小路、鴬横町に住居のころは、    絵筆をかんでは吐息つき、愛猫(ねこ)を抱いては思ひにうなだれがちの顎(おとがい)をうずめ、牡丹の    くづれる夕べなど、仇にふけゆく春の怨みに、紅涙をかくす人であつたのである。     恋のゆり子は、今こそ思ひかなひて、皐月晴れの曇もない、すが/\しい空のやうな日をおくつてゐ    れど、さうなるまでの夫婦(ふたり)の間(なか)には、浮世絵に描残してもおけるやうな、あはれな恋物    語りがあつた。     輝方も蕉園も、同門に鏑木清方といふ名家を出した、故水野年方の秘蔵弟子であつた。夫婦は師の前    に打並び、紫よ紅(くれない)よと、色濃き絵の具をとくうちに、紫はくれなゐに、紅はむらさきに色う    つりて、言はねど語らねど、互に心を染し不言の誓ひは、状かくよりはうつろはぬ誠と誓ひあつてゐた。    戒めても/\若き心をそゞろに狂ふもの、人の目は影を追ふと知りつゝ、根岸の細道を小薮の露に袖摺    りながら、日毎、夕ぐれごとに百合の花の恥かしと、打そむく面影を眺めに男は訪れゆき、今日は此絵    巻の模様の配置(くばり)やう、翌日は田舎源氏のさし絵の苦心、さては江戸ぶり都ぶりと、互いに好む    絵のことにかこつけて、語るを楽みに、逢ふよすがとしてゐた。     それもしばし、もどかしと焦心(あせ)つて、茶屋町の酒の憂きを払ふやうになつた男の心を、さうと    は酌まぬ仲人の為に、結ばる縁も其侭(まま)となつて、男は猶更酒に浸り、うなだれがちの百合の花は、    一しほ頭(かしら)おも気(げ)に、露しげき憂き目をおくつて、心やりには一心一念に、恋人が激(はげ)    ませし絵筆を命と、其人のさゝやきを思出(おもいで)ては絹をのべ、導かれ、手をとられるやうな夢心    地に絵筆に縋り、丹青の業(わざ)に、思ひの色をこめてゐたのであつた。     其頃の百合子よ、万年娘と嘲(そし)られても、何日(いつ)も島田髷に取上げさせ、両の袂や襟さきに    枝垂れ桜の好みの染の紫羽織、麻の葉鹿の子をしぼらせた古(むかし)もやうの小袖、見るからに初々し    く、何処(どこ)までも初恋になやむ乙女のさま、見る人に、すこしは訳知るものに、その心中のいた/\    しさに涙ぐませたのであつた。さうした心のいたみと優しさが、今の代に似るものもない、美人絵を描    く一人の人につくりあげたのである。     むかし西の京に染屋の娘、浮世紺屋の名代女(もの)にて、姿にお春(しゆん)と名に立つたもの、祇園    町を日傘に顔かくして通りかゝつたを、四條の芝居の吉弥が見染めてあとをつけさせ、一丈二尺の大幅    帯、くけめのすみに鉛のしづをかけて、お春の帯の結びやうを舞台にもちひ、吉弥結びの名を残したと    いふ、姿のお春は柳のすがた、この浮世絵の蕉園、恋の百合子は心の姿のしほらしさ、顔かたちより幾    層か生れまさり、心のにほひのゆかしい女である〟  ◯『読売新聞』(大正2年8月2日)   〝鏑木照子 -明治美人伝(三十)-長谷川時雨     あのお方様の御事ならば、ほんの一ッふたつなれどおもしろきおはなしをぞんじをり候(そろ)、然し    ながら噂のうけうりゆゑ真疑はしらず、御取捨はいかやうにも御判断にまかせ候。とはまをせ わたく    し自身だけは、信実(ほんとう)のことゝ思ひて、また内々にてのお知らせ、かなりお安くなきお話しに    候。     あのお方様 お生れは山の手とはいへ立派な東京ッ子、旦那様の清方氏は御承知の通りの浮世絵の大    家、当時は此方の右にたつ人はあるまいと評判の方。明治文壇の最初の方に、やまと新聞の続きものに    筆をとつてゐられた、故條野採菊散人といふ名の残つてゐる、通人の小説家の御子息といふことに候。    その清方様の御理想にあつた方といへば、大概は御姿を見ずとも、御様子をうかゞはずとも照子様とい    ふ方がわかると存じ候。まだおかたづきにならぬうちより、むかしならば土蔵(おくら)の白壁へ、逢相    傘のかきわり、姿のかはりに両方へお名前を書かれるやうなお仲であつたとか、故紅葉先生の御門下中    になにとやらいふ会があり、其お仲間中大妬気にて、わい/\といつたものとかに候。竹内桂舟画伯の    御家にてかるた会のあつた夜、折からの雨に清方 傘をかりておかへりなされ、其翌日にかへさせる人    も人、選(よ)りによつて岡焼やかましきおてる様にもたせてやつたとか、今でも時折其おはなし引合ひ    にでるように候。御婚礼なされて後、ある時の巽画会の余興に、お二人にて「金色夜叉」の熱海の海岸    の場をお出しなされ、分(わけ)を知つた見物の肝をつぶさせ 大層あてさせられたよし、かなり罪なと    ころをお出しなされたことゝ思ひ候。何故ならば、あのお宮といふ女のお手本はほかにあるとしても、    かるた会のあたりは、ちよいとお二人様を御拝借のやうにも洩れ知る、内端同士の見物が多かつてのに    御座候。     六七年前 春陽堂の店の小僧さん仲間に お照さん党、お柳さん贔屓といふ反目があつたよし、右は    おなじ浜町の清正公様の地内にすんでゐられた山岸荷葉氏の夫人で美人の柳子さんと、好き好(ず)きか    らの頼まれもせぬ喧嘩、御当人同士は仲よく芝居見物などなせれをりしとあり候。     たしか明治座かと思ひ候。隣のうづらにお二人をお見かけいたしたことあり、お柳様は頭髪(おぐし)    のまつ黒な色の白い、鼻の高い目のすゞしい、お顔の寸のすこしつまつた中肉の小柄な方、お照様はす    らりとした撫肩の、お扮装(つくり)なり髪の結振りなり、さくりとした中にうまみのある御様子、おな    じ年若の、おなじ下町の意気すくりの中にも、どこやら昔好みの面影の深かつたのは、朱塗へまきゑの    差櫛をいてふがへしの前へさしておいでなられた、照子様の好みと忘れずに覚えをり候。     神田の金さんといふ人のまをされ候には、清方氏はお照さまをお手本にし、お照様は新派の女形(お    やま)河合武雄の舞台がお好きゆゑ、どうしても河合ばりになり、従つて清方様の絵の女が河合式にな    る。お照様がもつと自分の色をだして見せると、絵の調子もそれにつれて異つてゆき、それこそ後世に    残す、東美人絵のたいしたものが出来るに、とのことに候。     清方様御生母も、浅草第六天の神職の御娘にて、お宮のお嬢とて有名の美人、お蔵前の船頭金蔵丸の    親方に見初められ、其家の厠から逃出したといふ逸話あるよしに候へど、あまり長くなり、それに委敷    知らぬを、女の多弁は暑中殊更つゝしむことゝ、此処にはもらし候。     美人伝へ此まゝ出されてはこまるといふのを、手紙のぬしの昼寝のひまに借用。一ツ、申訳の事と詫    証文の文案をし乍(なが)ら〟  ☆ 大正三年(1814)    ◯『読売新聞』(大正3年1月10日)   〝長春の美人 △附けたり、北斎の社頭の過杉    長春の美人と云つても満州の其処にゐるのではない、宮川長春の画いた美人である。今回錦絵保存会    (深川森下五二)は第九回複製として これを原寸(丈三尺一寸巾一尺二寸)で頒つた。形も色も頗る    上品である。猶それに北斎の富嶽三十六景の内の「箱根湖水」八寸に一尺二寸が丁度権現社と杉を画い    てあるので附けてある。この方も構図と云ひ、色と云ひ中々よく出来てゐる。この二つは会員には普通    の会費で頒ち、会員外には六十歳で売り 猶長春の美人は絹に刷つて一円廿銭で頒つといふ〟  ◯『読売新聞』(大正3年11月1日)   〝清方輝方蕉園女史等の東京の人物画家が江戸趣味に、頽廃的気分に、クラシック的技巧に示されたる特    調を京阪の人物画家の作に対比して珠的に感じた目は、「昔噺」「お杉お玉」を画いた東京の画家に一    瞥を惜むまい。前者は河合英忠氏が福富草子、鼠双紙、物臭太郎双紙絵などいふお伽噺絵の流行した足    利頃の話とも思はれる桃太郎と花咲爺とを 足利以前の倭絵風で画いたもので、或意味では復興的とも    見られる。まだ浮世絵に染つた筆癖(マンネリズム)が抜けてゐない上、訥言為恭等の徳川末の倭画復興派の    技倆が具はつてゐないが、然し山村耕花氏の装飾的な「お杉お玉」が京阪の画家に見られぬ一種の情調    の声を揚げて居るのと共に注意に値する〟   〝よみうり抄    池田輝方氏 及び蕉園女史はこの程府下田端東台四七七に移転したる由〟    ☆ 大正四年(1815)  ◯『読売新聞』(大正4年7月6日)   〝五月雨日記(四)長谷川時雨     玄冶店にゐた国芳が豊国と合作で、大黒と恵比須が角力をとつてゐるところを書いてくれたが、六歳    か七年だつたので何時の間にかなくなつてしまつた。画会なぞに広重も来てゐたのを覚えてゐる。二朱    もつてゆくと御酒と御飯が出た者だつた。     国芳のうちは間口二間、奥行五間位のせまい家で、五間の奥行のうち前の方がすこしばかり庭になつ    てゐた。外から見えるところへ弟子が二三人机にむかつてゐて、国芳は表面に坐つてゐるのが癖だつた。    豊国の次ぐらゐな人だつたけれど、そんな暮しかただつた。其時分四十位の中柄の男で、勢(いせい)の    好(い)い職人はだで平日どれらを着てゐた。おかみさんが弟子のそばで裁縫(しごと)をしてゐたものだ。    武者絵の元祖といつても好い人で、よく両国の万八-亀清(かめせい)楼のあるところ-に画会があると    つれていつてくれた。〈この豊国は三代目で、いわゆる初代国貞〉     国芳の家の二三軒さきに鳥居清光が住んでゐた。     大阪町の雷師匠は、冬でも表を明つぱなし、こまよせからわざと見えるやうにしてある。上り口の板    敷のところに、いけない児童を空俵に入れたり、火のついた線香をもたせたりして、自分の傍には弓の    折を引寄せておき、がみがみ大声で怒鳴りちらしてゐる。空俵に入れるのは、これから河へ流してしま    ふといふのだ。他のおとなしい児童が顫(ふる)へながら詫(わび)をすると、それをしほに俵から出して    やる。見えすいた広告法だが、八釜(やかま)しい師匠にやらなければいけないと思つている無学な町人   の親達にはそれが大層評判がよかつた。     (中略)     三馬にあつたことがある。さうさ五十四位に見えた。猿のしるしのある家で化粧水(すゐ)を売つてゐ    たつけ。倉の二階住で、ぢんきよやみのくせに妾があつた。子供心にもいやな爺だと思ったよ〟   〈長谷川時雨は明治12年(1879)生まれ。生前の国芳や三代目豊国(国貞)とは面識がないはず。時雨の父である長谷川渓石    (天保13年・1842生)の画録(『江戸東京実見画録』)には国芳の家や鳥居清光の家や雷師匠の記事が出ているから、時雨    は父から聞いた挿話をもとにこの一文を認めたのであろう。この「三馬」は嘉永6年(1853)42才で亡くなった小三馬と    思われる。渓石は当時10才前後。父の体験とすれば、7才頃という国芳・豊国の合作や広重の挿話も、嘉永元年頃のも    のと考えられ、年代的にも辻褄が合う。鳥居清光はやはり玄冶店の二代目清満〉  ◯『読売新聞』(大正4年7月7日)  〝五月雨日記(五)長谷川時雨    歌川国輝は宅(うち)のすぐ前に居たのさ。うまや新道--油町と小伝馬町と両方の裏通り、厩屋新道と   は、小伝馬町の牢屋から引廻しの出る時の御用を勤めるといふ特別の役をもつてゐる荷馬の宿があつたか   らの名--の小伝馬町の側に住んでゐた。くさ草紙の合巻かいでは江戸で第一の人であつてけれど、貧乏   も貧乏も大貧乏で、しまひは肺病で死んだ。矢つぱり七歳位から絵をおしへてくれた。其時分三十五六だ   つたらう。豊国の弟子だつたから、豊国の描いたものや、古い絵だの古本だの沢山あつた。種彦がよこし   た下絵の草稿もどつさりあつた。私は二六時見てゐても子供だからそんなに大切にしなかつたし、おかみ   さんのおもよといふのは、竈(へツゝひ)河岸の竈屋の娘でおしゃべりでしようのなかつた女だから、国輝   が死んでからさういふものはどうなつてしまつたかわからなかつた。住居(すまゐ)は入口が格子で、すこ   しばかりの土間があつて、二間に台所だけ、家賃は三十銭位だとおぼえてゐる。それでもお酒は大好で、   たべものはてんやものばかつかりとつてゐた。貧乏でもさういふところは驕つてゐた。芝の泉市だの、若   狭屋だのといふ絵双紙屋から頼みにきても、容易なこつては描(か)いてやらなかつた。其時分定さんとい   ふ人がよく傭はれてきたものだ。国輝が絵--人物や背景を描くと、其人は、軒だとか窓だとか縁側だと   か、襖だとかいつたものゝ模様や筋をひきにくる。腕はその当時好い男だといはれてゐたのに、弁当も自   分持ちで、定木も筆も持参できて、しどい机だけかりて仕事をして、それで一日がたつた天保銭一枚(百   文)だつた。今の人が聞くと嘘のやうだらう〟   〈「日本古典籍総合目録」によると、二世種彦を自称した笠亭仙果の合巻を、国輝は十点作画している。したがって、こ    の種彦の下絵草稿が国輝の許にあったのは不自然ではない。またこの当時三十五、六歳とあるから、この国輝は天保元    年(1830)生の二代目ではなく、初代国輝である。当然長谷川時雨(明治12年(1879)生)の実体験ではなく、上掲国芳記事    と同様、時雨の父・長谷川渓石(天保13年・1842生)の話を時雨が綴ったものと思われる。渓石、七歳頃とあるから年代    は嘉永元年(1848)頃であろう〉  ◯『読売新聞』(大正4年8月22日)   〝東洲斎写楽  野口米次郎     浮世絵備考に「一に東州斎、通称斎藤十郎兵衛、一に八郎兵衛、阿州侯の能役者なりしが、俳優の似    顔絵を画き、其の真を写さむとして、却つてあらぬ様を画きしかば、世評よろしからず、一両年にて廃    せり」と、無惨にも、三四行で蹴り出された写樂は、近代欧米に数多き浮世絵蒐集者並びに評論家が共    に許して「大写樂」と呼ぶその人である。写樂が浮世画家の群を抜いて(一部の連中は彼を歌麿清長春    信の三大看板の上にさへ据ゑて居る)議論多き好奇心を一身に集めて来たのは、つい近頃のことである。    如何なる芸術でもはじめてそれを問題として、正当不正当とに係はらず、興味ある議論を提供するのは    巴里で「大写楽」も巴里(パリー)に負ふ所甚大である。フェネロサが写楽を「野卑の親玉」と呼んで東洋    美術の権威であると澄まし込んで居た時代に、巴里の浮世絵蒐集者は既に此の写楽に着眼していたので    ある。先見の明があつた報酬として少なくも写楽に関しては、その数の少い作品の大部分は彼等の掌中    に落ちてゐる。勿論立ち後れではあるし又確的な批評眼も具備して居らぬが、金力で一も二も押さうと    いふ米国の蒐集者中で、スポルディングなどは写楽の第一人者として一般から許されてゐる。一枚所謂    「出板時の状態」(出版当時に於ける画の状態)を備へてゐる絵となると千円は普通の相場、「蒐集者の    状態」(絵が転々人手に渡つて或は裏打されてゐたり或は洗はれしてはゐても絵の具の色合も左程変つ    て居らぬ状態)の絵でも、四五百円はする、如何に破損してゐても写楽の俤が分かれば三四十円の価の    ある此の大写楽は 何(ど)うして斯(か)くもその声価を上て来たのであるか。     紐育(ニューヨーク)の蒐集者ハパーが自分の蒐集を倫敦(ロンドン)の市場へ出して売却した時の表を見ると    「煙管を手にする二代目松本幸四郎」これは侠客長兵衛の図で、所謂雲母絵の一枚です。代価三百四     十円。今は英国の国会議員ハームスウオルスの所有である。其他の二枚、一は「扇子を持って居る     老人」(表では役者の誰だが又其役は何であるか不分明)と他は忠臣蔵の高師直の絵 前者は三百円     後者は百三十円で売れて居る。後者は私がサウス ケンシントン博物館で一昨年開いたハームスウ     オルス蒐集の展覧会で見た画であらうと思ひます。     私が先年の渡英で予期せぬ喜びを感じた二事件の一は、此のハームスウオルス蒐集を見たのと、他は    「私の親愛なる詩人ブレーキ」の絵画展覧会をテート画館で見たことであつた。エーツの句を用ゐると、    未来を情婦の様に愛してその呼吸を自分のものとし 長いその髪に眼を蔽はれて 自分の時代を理解す    ることが出来無かつた詩人ブレーキと我が東洲斎写楽先生。如何にも興味深い取り合わせである。私は    着英すると間も無く、ブレーキを評価する力が無いと自由に入り込むことの出来ぬ幾多の芸術家の引見    室(アロウイング・ルーム)があるのを発見しました、と同時に不用意に軽く写楽の芸術を語つて 人から笑はれ    た失敗を演じたのであつた。倫敦有数の新聞ウエストミンスター・ガゼツトから依頼されて、私はハー    ムスウオルス蒐集の拙評を試みました其の文中に、私は嘗て「写楽には力はあるが雅美が無い」と云つ    て僅々七行を与へるに止(とゞ)まつた私の友ストレージに賛成して、私には「写楽は不可解である」と    筆を滑べらしたです。するとマンチエスター市の某批評家が、「日本の詩人で写楽が分らぬとは意外で    ある。分ら無ければ僕が教へてやる」と早速手厳しい矢一本向けられた。私とても失礼ながら普通の美    術眼は備へて居るつもりであるが、「写楽不可解」の意味は写楽に正当なる価を付けるには 尚十五年    は待たねばならぬを信じたのである。今でも一昨英国に於けると等しく、今日彼が持つて居る市場の価、    延(ひ)いて評家の説は聊か変調の傾向であらうと思つて居る。少くも彼等は写楽の絵の少数といふ(そ    れは如何にも大なる動心点(アトラクション)!)事実に捕はれて居ると云ても返事は出来まいと思つて居る。     然し兎に角欧米に於ける我が浮世絵研究が最早やフエノロサやストレージの時代で無く、写樂の絵の    所謂(いはゆる)野師(やし)式(チャラタニスム)を見ずして、彼の特質を備へた芸術を 彼の描いた役者の円る    くて小い横を瞰んだ眼や太く一の字を引いた口、全く普通の欧米人が夢想だもすることの出来ぬ眼や口    の裡(うち)にも発見しようとする時代まで進んで来て居るのを私は感謝します。十一年前 私が米国か    ら帰朝せる時同じ船で初めて日本を訪問した米国の青年詩人フヰケといふ多少独逸の血統を受けた男が    あつた。此の男が近頃倫敦から出した『浮世絵の閑話(チヤト ヲン ジヤパニーズプリント)』(実際閑話どころじ    や無い四百五十頁の一廉の研究者です)の中に、非常に通がつて「大写楽」を連発して居ます。西欧で    も近頃の写楽研究者は皆五六年前 独逸はミユンヘンの書店から出版したカース博士(此の発音は間違    つて居るかも知れません 綴字はKurth)の著作『写楽』に依ります。絵も少なければ、一生の事実も    殆ど知れて居らぬ写楽のことですから、誰の筆でも述説を事実の上に基(もとづ)かせること不可能であ    る結果、能役者であつた事実を彼の絵と心理的に連結せしめざるを得無いのです。フヰケもカース博士    の著者から其点を理論付けた箇所を英訳して引用して居る。博士の文は殆んど所謂美文の域に入つたも    のであると云へばその述説が想像に近いものであるのは推度されませう。その節にこう書いてある。    「奇怪な力が能面の皺や歪み面の裡に潜んで居る、如何にも奇異ではあるが、一種表象的な苦しい表     現を持て居る。彼写楽は能なる悲劇の舞台から普通の俳優、有名な春信が呼んだ如く、何処から来     たかを知らぬ陋劣漢、自分等の如く荘厳な錦襴を纏ふ堂々たる芸術家でなく 唯舞台を気取つて歩     むで その劣性を無智な観客に誇らうとする下等の俳優を見下したのである。彼が彼等と見てたゞ     軽蔑して居るばかりで無く、人民の権さへ奪はれた賤民と成し、或は赤ら顔に彩色したり、或は女     に扮しては死人の如く蒼白に白粉を塗つたりして、賤しい虚栄心の満足や無智な賞賛を渇望する一     階級と取扱つた。所で如何に此の写楽が俳優の画家として終に無慈悲な諷刺家となつたかを理解す     るであらう」(原文の抄訳)        欧米で正当と見られて居る写楽観は、その諷刺的な皮肉という点を重大視して居るが、果たして写楽は   左ういふ積りで役者絵を描いたであらうか。或は或る一部の評論家の固執する如く 彼の全部の作を以て   写実をとする方が遙かに正当に写楽を見るものと云へるかも知れぬ。我々日本人で在来のお芝居の舞台美   --写実と理想を握手せしめた中性的な模様美を了解して居るものには、写楽必ずしも諷刺的眼光を以て   絵を描いたとも思はれぬ。私は彼は諷刺家たるより寧ろ写実家たるに近いと思ふ。よし彼を諷刺家として   見ても、彼の無意識な諷刺は一種の座興程度たるに過ぎぬ。フヰケは「近代の諷刺画の最も残忍なるもの   でも写楽に比較すると、その崩壊せしめずんば止まぬ解析と 描かんとする人物に与へる悪魔的色彩の点   に於て、殆ど児戯に近いのを思はしむる」と極言して居るが、我々少くも、私には左うは見えません。唯   私は一寸驚かされ又瞞着でもされる位の感じを得るのみで、私の写楽を喜ぶ点は、彼の作が近代的解釈を   許す点に於けるよりは、寧ろ彼が現代と没交渉で、我々に不思議な奇怪な自由な無責任な余裕のある一境   地を与へる点にある。全く彼はフヰケの評する如く写実家としても清長以上でない。フヰケは書いて居る。   「彼は眼前に美と恐怖の原質たる可きものをみて、それを模様画に象どり整斉した。結果は御伽噺の春    信の如く、空想的画心の真実なる理想的創造である」       私はその言葉には非常に賛成します。然しフヰケがある所で宛(あたか)もポー評論し 或はボードレー   ルを評論するが如き 悪魔観やら所謂現代観を説述するに於ては 聊か色眼鏡で見る西洋人たるのみと云   いたいと思ひます。又写楽の絵が西洋人の色眼鏡で見ると、絵そのものに含まれて居らぬ一種の意義と色   彩を与へるに至るといふ不思議な作品たるには相違が無い。その点で写楽は近来めき/\欧米の数寄者   (すきしや)の尊重を増して来たのである。生前画家としては不幸であった彼が 一躍群を抜いて「大写楽」   と云はれに至つては、彼自身は彼の役者の似顔の如く、果たして笑つて居るやら又泣いて居るやら分りま   すまい。    私の英国で見た写楽の絵は 彼をして今日の名声有らしめた二十四枚ものゝ忠臣蔵の絵の一部である。   写楽時代の役者の似顔を描いた画家で 多少なりとも勝川春章の影響を受けて居らぬは稀であるが、写楽   の忠臣蔵に至つては 春章を想起せしめるよりは寧ろ春英(磯田氏通称久次郎九徳斎と号す 明和五年新   和泉町新道に生る 春章の門弟と成り似顔絵を描く)に近い所があると 一部の人は云つて居る。詰(つ   ま)りもつと適切に云へば 写楽は春英の止(や)めた所から出発して、春英の芸術に或る大なる写楽自身   を加へたのである。春英には詳細は有つても写楽の劇的の力が無い。春英には穏健はあるが 写楽の如く   大胆自由が無い。ある評者に云はせると、写楽の忠臣蔵二十四枚はさることながら、彼の彼たる所は所謂   細絵に彼が表現した芸術を見ねばならぬさうであるが、私は不運にしてその一枚たりとも見たことが無い。   細絵の写楽は半身の役者の以前だといふものもあれば 又後だといふ論者もあるが、何にせよカース博士   の断定に依ると 彼は千七百八十七年から千七百九十五年より彼の時代は長くないといふことであれば、   十年、然し浮世絵備考の「一両年」に比すれば殆ど十倍になるが 如何(どう)見ても余り長い年限ではな   いから、前期両者の前後問題は措いて問ふ必要はあるまい。細絵の中に嵐龍三(?)と瀬川菊三郞(後者   は青と紫の衣服を付けて手に扇子を持つて居る)の二枚が最も卓越してるさうだ。それ等の後では誇張し   た諷刺的皮肉は第二としたものであるさうだ。    或る西欧の評者は云つた。   「清長には神を見る。写楽には神と戦ふ所のものを見る。数千枚もある日本浮世絵中より 最後の破壊    を免かれしめん為め一枚を選(えら)めと 命ぜられたならば、余は何を選択するであらうか。春信の    欠点のない「笛吹き」か或は清長の「海辺の二階家」か、或は又カース博士や Musée des Arts déco    ratifs展覧の目録に挿絵として入れられた写楽の恐ろしき木版画 中山富三郞の黄色の衣物(きもの)    来た姿が、人の肉を跳(おど)らしめる熱情をたゝへて忍び寄る画で、美と恐怖の両極点を握る線と色    と感情の震動を現して居るものを撰ぶか、殆どその選択に苦しむ」    写楽も大変な芸術問題になつたものだ〟  ◯『読売新聞』(大正4年11月4日)   〝浮世絵の大家危篤     浮世絵の大家小林清親翁は昨年来間接リウマチス病にて信州に療養中の処 昨今冷気の為 関節疼痛    甚敷(はなはだしく)且つ発熱し 目下滝の川中里百八十一番地に移住せるが 頗る危篤に瀕しつゝあり    といふ〟  ☆ 大正五年(1816)  ◯『読売新聞』(大正5年1月5日)   〝歌川若菜女史帰る    五ヶ年間を欧米に送つた女画家 到る処に彩管を揮つて喝采さる    四日新春の喜びを湛へた小波を分けて東洋汽船会社の地洋丸が旭日の出る頃横浜港へ入りました。五年    間一管の彩筆を友として欧米諸国を歴遊し 到る処日本の女画家と称讃され 無事故国に錦を飾られた    歌川若菜女史を 白ペンキ鮮やかに塗りかへられし船室に迎へますと、白い帽子いベールを被り毛皮の    外套にくるまつて 女史は微笑を泛(うか)べ乍(なが)ら語られました。    「妾(わたし)は千九百十年横浜を発ちまして 最初英京倫敦(ロンドン)へ参りました 其後は仏蘭西、独     逸、伊太利、瑞西(スイツル)、露西亜、ポンペイ等の各地を歴遊したのでしたが 最初の千九百十一年の     三月より四月迄 倫敦で自作の展覧会を開きました。     丁度百枚許(ばかり)出品しました処 大変な評判で身分不相応の歓迎をされました。夫れ等の評判で     種々の新聞や雑誌の依頼を受けまして 挿絵や表紙を画きましたが 殊にレビュー オブ デコレシ     ヨンと申す雑誌には 日本の風俗や物語的の絵を画いて居りました。     千九百十一年の暮に仏国の巴里へ渡りまして 展覧会をする事になりましたが 妾が行くと云ふ事が     知れまして 着車が夜の十一時頃でしたのに 写真班や新聞記者団に見舞はれまして 大変嬉しい心     強さを異郷に感じたのでした。巴里では英国のシフカラスと申す婦人を召使つて居られました程結構     に生活して居りました。     千九百〇(ママ)二年一月後 ロンドンへ帰りまして チープストリーと云ふ子供の雑誌に揮毫して居ま     したが 再び巴里へ参り 巾六尺長さ九尺の浮世絵を二枚富豪から注文されまして描きました。其時     丁度先帝陛下の喪に遇ひましたが 巴里のライ ラフトラソ雑誌が日本の御大葬模様を描けとの事で     したが 何分未だ御大葬に接した事のない妾でしたから ほと/\困却し 漸く行李の中より後醍醐     帝御大葬の模写を見出し 夫を参酌して描きました処が 後程写真が到着して比較しますと 可成り     符合して居りましたので好評を得ました。其の為め二千法(フラン)の賞金を送られましたのみでなく各     新聞が転載する程の光栄に浴しました。     其後ポートランドの貴族未亡人マーセツト夫人の請託で彼地へ参り 物質的成功を収めました。追々     各地を歴遊したくなりまして各国を経 仏国里昂(リヲン)を見舞ひ 最後にロンドンに帰り 紐育(ニュウ     ヨーク)に一ヶ年住ひまして 千九百十五年夏より シカゴ、ボストンを経て 無事帰国が出来ました」    と久し振りに故国に接した喜びを現はし 更に語を継ぎ    「彼地に五ヶ年居ました間 妾の最も驚きましたのは 芸術家の勢力主義なのでした。一枚の画を十年     二十年もかゝつて描く事は珍しくなしさうです。其の芸術的良心とでも申す事は 我々の学ぶべき点     ではないかと思ひます。各地では日本の婦人と云へば 家庭に燻ぶつて隠れて居るとのみ思はれて      余り日本を理解して居ない様でしたが 妾が各所で展覧会をやつたり 出張したりなどするものです     から 驚異の眼を睜(みは)り 日本の新しい婦人と常に呼ばれて居りました 其為めか同情を得て      斯く満足に帰国が出来た事と存じます」〟  ◯『読売新聞』(大正5年9月8日)   〝広重忌    去る六日は恰も広重の五十八年後の祥月命日に当るを以て、有志の追善忌が、その菩提所浅草北松山町    の東岳寺で営まれたのは予報の如くである。そこの集つた好事家の中には広重研究家として有名なハツ    パー氏などもあり、各得意の品を持寄つたが、就中、元安藤家に保存されて居(を)つたといふ、広重十    歳の時になる琉球人来貢の図が一巻出品されて、今は林若樹氏の手に渡つて居る事が知れ、広瀬氏の浮    世絵師画会の摺物等を貼つた掛物で、広重は既に十六七頃画会をやつた事がわかつたりした。    また中村辰次郎氏の持つて来た木曾街道三種は皆それ/\違つたもので、美泉(ひせんママ)広重の合作で    伊勢利と竹内保永堂との共板の分もあり、その一種は矢張出席して居た某氏が広重から直接頒けて貰つ    たものとかで、「殊(こと)に遇ふやうな気がする」とその人は懐かしさうに飽かず眺めて居た。    コレラで死んだ広重がコレラ流行の年に盛んな供養をされるのも不思議な運命である。なほ来年は広重    の大展覧会を催す筈であるさうだ〟  ◯『読売新聞』(大正5年11月20日)   〝小林氏珍蔵入札    浮世絵所蔵家として有名なる小林文七氏は 今春 上野芸術協会に古美術品を出陳して 此方面にも多    くの珍品を有せる事を示して好事家を驚嘆せしめたが、今回、中村、川部、両伊藤氏等を札元として、    日本橋倶楽部に於て二十、廿一両日下見 廿二日◎◎に於て入札に附することゝなつた。其数すべて廿    五種 悉く逸品ならざるはないが、就中 藤原時代黒地蒔絵様箱 牧渓筆蘆雁図 宅磨為氏筆釈迦文身    (もんじゆ)普賢図 鳥羽僧正筆鳥獣戯画 啓書記筆松鷹図、相阿弥筆柳鷺図、雪舟筆楼閣山水図 叭々    烏(ママはゝがらす)図、元信筆渓流双鶴図 永徳筆人物花卉翎毛図、蕭白筆山水図等は稀観の秀傑なるも    のである〟  ☆ 大正六年(1817)  ◯『読売新聞』(大正6年9月11日)   〝広重の関して(上) 野口米次郎     広重は同一の題材を幾十回となく取り扱つて居るが決して繰返したのでない 実際(先週此紙上で書    したトウロウも同じ仕事を繰越すのを耻辱とした)を顧みて、此処(ここ)僕も六日 高島屋で遣つた講    演と同問題に関係するのだが、問題の主人公のした仕事と同様に、僕は僕の講演で語つたことを繰返さ    ない積(つもり)である。僕の講演に洩れて居る広重に対するの僕の感想や 異見の数箇条を此処で書く     聊(いささ)か個人的に渡るけれども 僕はかういふことを考へる--僕が英語の詩を書き初めてから    今日に至る二十年間に何程の仕事をしたか。数の点からいふと僅か百篇以上は無い(トウロウに肖(あ    やか)つて仕事の僅少を誇るので無い、実際これ以上に出来なかつたのである)然るに広重の数へ切れ    ない程なる風景がを思ふと、仮令(たとへ)彼の時代が多作を許したにもせよ、彼は滾々(こん/\)と尽    る所を知らぬ泉水のやうな、如何に鮮新な生気に満ちて居たかを驚かざるを得ない。実に彼の芸術的努    力(時には彼が自分の力を適当に制限したならば 彼は更に異大な画家であり得たろうと思ふけれども)    の旺盛さは 彼が芸術上の浪費を何んとも思はなかつた点からも知ることが出来る。僕自身でいへば同    一な題材は取扱ひたくない、一度書けば之が最初で又最後である。然るに広重は同場所を幾回も皆な夫    れ/\に異つた新しい興味と目的で描いて居る--慥に其処(そこ)が広重が画家として偉い所だ。僕が    広重の心を推察すると、彼は胸にこみ上げて来る抒情的芸術品を吐出して仕舞ふのが先決問題で、場所    其物は彼に対しては第二のものであつたに相違ない。云ひ替へると彼が芸術的感興に動かされた場合に    は、同一の場所が彼の眼には全然異つたものと映したに相違ない。彼は同一の場所を漫然と構図したの    でなく、異つた抒情的気分を同一の場所を借りて発散し尽したのであらう。故に彼の風景画には種々様    々な変化があつて言葉で説明出来ぬ詩的な空気が漲つて居る。我々は彼の絵で彼のパーソナリチーに接    触する。して我々は彼から場所の写真を見やうとするもので無い。特に西洋人には、絵の一枚/\の下    に夫れ/\名前が書いてあつてそれが同一の場所としるされて居ても、必(きつ)と異つた風景画として    受取られるであらう。又板画であるから、摺師の手加減一つで絵の具に深浅がある 又時の拍子で出来    具合に善悪があつて、同一の画でもまた非常な相違がある。それで同じ広重の東海道五十三次や江戸名    所を所有して居るとても、皆な銘々異つた--善悪の区別は別問題として--絵を握つて居ると云はね    ばならぬ。此処の点が日本の世界に有名な『浮世絵』の面白い所で、或人に持つて居る絵が一枚百円し    て、同一の絵であるからとて他の人が持つて居るものに同一の価値が有るとは云へぬ。浮世絵は肉筆と    異つて数が多いからとて、その価値を軽減しやうとするのは一種の俗論以上でない。特に広重の風景画    --出版者の乱暴な所行から随分粗末なものが世に出て居るので--は皆な異つたもので、同一の絵が    百枚あつても、唯一枚だけとして見るのを至当とせねばならぬ。此点を良く飲込むと浮世絵が珍重され    て来る〟  ◯『読売新聞』(大正6年9月19日)   〝歌麿の碑を建てる ことし百十二回忌 -来月三十一日の記念- 橋口五葉画伯語る    あした、九月二十日、それを陰暦にした来月の三十一日は浮世絵の大家と断る迄もない喜多川歌麿の百    十二回忌に当たるので、橋口五葉、高橋太華、武田信賢、星野日子四郎、鏑木清方、市原一郎、ハツパ    ーの諸氏発起となり、当日    その菩提寺なる浅草区松山町専光寺に建碑式を行ひ、また歌麿の遺作展覧会を開くことになつた。右に    就き 橋口五葉氏は語る    「歌麿の墓が何所にあるか、余り人が知らなかつたが、高橋太華氏が明治卅五年墓所一覧の続編を見て     浅草の専光寺に在ることを知り、わざ/\同寺へ出かけて在職と共に 墓所方角帳を調べると、成程     在つた 然し無縁であるから只台石があるばかりで、墓石が無くなつて居た。そこでこれが歌麿の墓     だといふ標(しるし)だけをしておいた     その後明治四十年 史学編纂所の武田信賢氏が歌麿の墓所を研究して、雑誌考古界に発表され、かう     して歌麿の墓は世間に知らることになつたのであるが、本年の七月 同寺の墓所の一部を下谷警察署     へ貸すことになつたので、歌麿の墓も取払はねばならぬことになつたので、私は星野日子四郎氏と共     に専光寺に行つて 歌麿の墓から骨(こつ)を取り出し、之を骨壺に納めて一先づ同寺の骨堂に預けて     置いたが、そのまゝにして置く訳に行かぬから 私共が発起人になつて 故人に縁故のある人達の寄     付金を集め、同寺へ新たに歌麿の墓碑を建てることにしたのである。     もし忌日までに墓碑が建てられなかつたら、同日は歌麿祭を行ひ故人の絵画を陳列して一般に見せる     だけにする      歌麿は一生独身で暮した人で、妻子のなかつたことは馬琴の『後のための記』に書いてあるが 何年     頃に生れたか、どうも分らぬ、歌麿の描いた絵が世の中に出たのは安永五六年頃で、死んだのが文化     三年九月二十日であるから、その間が約三十二年になる 二十才の時から絵を描いたとしても五十二     三歳になるから 五十歳以上で亡くなつたことだけは確かである     日本には浮世絵の大家も◎いに、歌麿一人が名高くなつて、師匠の鳥山石燕よりも偉くなつたのは如     何(どう)いふ訳か、それは歌麿が知的の発達の鈍い徳川時代の女性の特徴を捉へることに余程苦心を     して、独特の線で他人の企てることの出来ない女性美を発揮することに成功したからである。     ルノアー氏は色彩をその特徴として居るが、歌麿は線をその特徴として居る、歌麿の中年は女の写生     時代で、此の時代の作品が最も潤ひがある。歌麿の絵は頗る尠(すくな)いので、よく出来た絵なら版     画のもので、一枚千円が相場である。それでも良いものはなか/\手に入らぬ」云々〟  ◯『読売新聞』(大正6年12月2日)   〝蕉園女史 宿痾の肺患できのふ逝去す    昨年十二月、ふと感冒にかゝられたのが原因となり、肋膜より肺患を併発して、府下瀧の川田端四七九    のお宅に、夫君輝方画伯の手篤き看護を受け専ら静養中であられた閨秀画家池田蕉園女史は、この十一    月半より病勢とみに進み、昨今は危篤を伝へられて居ましたところ、時雨わびしう降りまさる昨一日午    前十一時遂に眠るが如く逝かれました。女史は本名を百合子と呼ばれ 榊原浩逸氏の長女として、神田    区錦町に生れ、富士見小学校卒業ののち女子学院に学ばれ、越えて十六の時、故水野年方画伯の門に入    り 次いで川合玉堂画伯に師事し 夙に天才の誉高く、文部省天覧会には第一回より出品していつも入    選されぬことなく、特選一回三等賞五回を得、その他東京勧業博覧会美術及び工芸展覧会大正博覧館等    にて賞牌をうけられたことは殆んど数知れず、京都の上村松園女史と共に閨秀画家中の双璧と称せられ、    お心ばえも又温順に非常に愛情に富んで居られた方でありました。    輝方氏に嫁せられたのは明治四十四年七月、輝之(六つ)と呼ぶ可愛いお子さんもあられますのに春秋に    富む三十三歳を一期として逝かれたのは惜しみても猶余りあることであります。因みに女史の葬儀は四    日午後一時、途中葬列を廃して谷中斎場に於て仏式を以て営まれるとのことです〟   〝風俗美人画が最もお得意  大野静方氏談    女史及び女史の夫君輝方氏と同じく年方画伯の門にが学ばれたる大野静方氏は愁はしげに語られるやう    「女史は家庭的の極(ごく)優しい方でしたが、矢張りどんな時でも絵筆は放された事のない位に熱心で     した。出世作としては第二回技術展覧会に出品した「宴の暇」最後の作は去年の文展に出品した「去     年(こぞ)のけふ」で、風俗美人画を最も得意とされ昨冬は 皇后陛下御前揮毫の栄をさへ荷はれまし     たが それ以来病気のため筆を執られませんでした、女史の趣味は演芸で、夫君輝方君が左団次と寿     美蔵を贔屓にされるところから、左団次のかゝる度(たび)毎(ごと)に三度も四度も夫君と同伴で行か     れた位で 病中も輝方に芝居を見て来てそのお話をして下さいと度々云はれたほどでした。昏睡状態     に陥られる前、輝方君に洩らされた女史の感想は、手篤き夫君の介抱を心から感謝して何も思ひ残す     ことはないと満足して語られ 淋しい笑(ゑみ)をさへ洩らされたとのことです。輝方君は実際よく看     護され 殆んど夜もまんじりと眠られぬ位でした、今死(なく)なられたのは真に惜しいことですが、     名と恋とを遂げて逝(ゆ)かれたことはせめてもの心やりでありませう、女史の門下には男女合せて六     十名余あります」云々〟  ☆ 大正七年(1818)  ◯『読売新聞』(大正7年2月5日)   〝(日本橋・白木屋において、巖谷小波・市川三升・山村耕花・淡島寒月等製作の玩具絵展覧会開催)    同時に版画おもちや絵が陳列されてゐますが、広瀬辰五郎、権田保之助、橋田素山、巖谷小波氏所蔵の    もので 歌麿、広重、清広、豊信、豊国、清信、政信、春信筆などの画いた、玩具絵の貼込、凧合絵、    けものづくし、張子づくし、地口双六、目かづら、広重灯籠絵、千代紙、双六、その他慶長、宝暦、天    明、元禄、享保頃のもの数百種で、洒脱、逸興、風流、無邪気が渾然とした世界を作つてゐました〟  ☆ 大正十年(1821)  ◯『読売新聞』(大正10年5月7日)   〝池田輝方画伯 昨夜大磯の病院で逝く    【大磯電話】兼ねて病気の為め 大磯の佐々木病院で療養中であつた麹町下六番地十番地 池田輝方画    伯は長らく肺病の為 同病院副院長なる進藤医師の療養を受けて居たが 六日七時廿分 遂に薬石効な    く死去した 享年卅九歳 遺骸は七日荼毘に附し遺骨は八日東京に送附して葬儀を営むと〟   〝大作を好んだ放胆な男でした 川合玉堂氏談    池田氏の訃報を旧師川合玉堂氏に齎す 河合氏は「ハハアたうとうなくなりましたか 実は今(六日)危    篤との電報があつたのですが!」と大に驚愕し「池田君は実に芸術味に富んだ美術家でした。若い時分    から負けん気の思つたことは飽迄もうやり通す気性でした。そして日常の行動は放謄磊落の方でした。    いつも大作を好んでやつた、「木挽町の今昔』とか「夕立」と云つたものが逸作です、実に惜しいこと    をしました〟