☆ 明和八年(1771)
◯『明和誌』〔鼠璞〕中p195(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)
〝大川中洲埋立、町家になる。暫くの間、見せもの、水茶屋計出、だんだん/\に三つまた川手の方へ、
四季庵といへる料理見世出来、多くの女子を置、価至って高く、大に繁昌。其外近くくゐ拝(ママ)見を芸
子の類ばかりになる。夏間涼は、川づらてうちん屋のごとし。両国すゞみ中洲へ引る。賑ひ双紙に尽し
がたし〟〈明和八年六月、中洲を埋立て、三ツ俣新地、富永町と呼ぶ〉
☆ 天明三年(1783)
◯『巴人集』〔南畝〕②400(四方赤良詠・天明三年四月十日)
(馬蘭亭高彦の狂歌会)
〝中洲郭公【みつまたの四季庵にて郭公をききて】
ほとゝとぎすなくやひとふたみつ又(マタ)ときくたびごとにめづらしき庵〟
〈中州(ナカズ)を三ツ股新地とも呼んでいた。天明期全盛を誇っていた四季庵も、寛政元年から翌年にかけて中洲がもと
の水面になって雲散霧消した〉
◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「中津富永町の賑わい」(24/34コマ)
〝中津富永町のさまは 今の蘆生(おい)たる一面に 築地にて中に径街いく小路もあり 安藤河岸の方よ
り橋三ッ程懸渡して河辺皆茶屋料理やなり そのうち東南の角に四季庵といふ料理家 殊に繁昌し誘客
最もおほし 夏は軒ごとに提灯をてらし 千舟河岸を競ひ 遠望殊に美麗にて寔(まこと)に一夜千金の
一廓ともいふべき地也 されど霜枯と成つては寒気甚しくて更に遊客の足たえ 一島寂寞たる地となれ
り こゝにおひて富永町の名も空敷(むなしく)忽ち廃地となりて 又元の芳原とは成にたりと人皆いふ
冬はなき夏はなかすのすゞみかな〟