Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しどうけん ふかい 深井 志道軒浮世絵事典
 ☆ 享保年間(1716~1735)    ◯『嬉遊笑覧』巻九下「言語」下p437(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   〝享保の頃より、江戸浅草観音堂の脇に葭簾を張て、深井志道軒と云もの出て取しまりもなき咄をし、法    師きらひて罵れり〔無一草〕と表題したる自作の半紙七八枚ばかりなる摺本を売れり。其世に名高はそ    れが肖像を小児の手遊人形にまで作る【象牙にて彫たるもの今に残れり】数十年ありて、明和の初身ま    かりぬ〟    ☆ 寛延年間(1748~1750    ◯『賤のをだまき』〔燕石〕①255(森山孝盛著・享和二年(1802)序)   〝其頃(寛延年間)志道軒とて、辻講釈をして世を渡る坊主あり、古今の名人にて、人物もはや老人にて、    惣て垢のぬけたるきれい者にて、人をへちまとも思はず、記録物を講釈するに、初め少しの内実の事を    云て、夫よりおどけ立とわる口をいひ、様々に狂じて人を笑はすること希代の者なり、【俗説に、長崎    にて十八年禅学をしたりと云】八九寸の木にて男根を拵へ、夫を手に持て拍子を取、【トントントント    扣ク】面白きわる口、おどけをいふ、皆頤を解て聞居るなり、しかも豆蔵の如きのわざとをかしみをい    ふにあらず、下卑ず、上品の事計をいふ、毎日浅草へ出たり、【観音堂のわき】日々聞者群集したり、    常人ならざる証拠には、しかる業にてわたる者は、誰に限らず、聞人の多きを歓ぶものなるに、志道軒    は女と出家が嫌ひにて、婦人、出家の内、来りて聞人に交り居れば、だん/\と当て口をいひ出して、    後は居たゝまれぬやうになる故、彼が辻には、婦人、坊主は来らず、至極面白きものなり、大名、貴人    の、招かれて、客の饗応などに講釈するに、辻にて仕る通り狂談を申すべきよし望ければ、其通りわら    はせたりといへり、晩年には己が像を板行にして売りたりしが、諸人我も/\と求て見るほどの事なり〟    ☆ 明和二年(1765)    ◯『増訂武江年表』1p176(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (明和二年・1765)   〝三月七日、講釈師深井志道軒終ふ。名栄山、号無一堂と云ふ。もとは知足院の僧也。衒艶郎(カゲマ)に    惑溺して財を失ひ、後、浅草花川戸長屋といふ所に住み、浅草寺境内に於いて軍書を講ず。其の問に戯    言を交へ、聞く人をして絶倒せしむ。一座に僧と女あれば、必ず譏(ソシ)る事甚だし。日々多くの銭を    得るといへども、すべて酒にかへて翌日の貯へをなさず。在世の日、自ら肖像を画きて梓に上(ノボ)    せ、戯言を書きつ打て人に与ふ。「元なし草」と云ふ草紙一冊を著す。今年八十四歳にして終れり。浅    草寺中金剛院に葬す。一男一女あり。男を三之介といふ。諢名(アダナ)を志道軒三之助と称しけるとな    ん。志道軒が歌とて聞へしは、辞世      思ふ事亭あるもうれしき我身さへ心のこまの世につながれて。      東よりぬつと生れた月日さへ西へとん/\我もとん/\〟    ☆ 没後資料    ◯『瀬田問答』〔南畝〕⑰381(大田南畝問・瀬名貞雄答・天明五年~寛政二年(1785~90))   〝(問)今の講釈師を、むかしは太平記読と申候て、太平記古戦物がたりをのみ講釈致し候処、享保の頃、    端竜軒、志道軒など願ひ麁て、今の三河御風土記などよみ候事始り候由承候。左様に候哉    (答)被仰下候趣に可有御座候。端竜軒は相願ひ候儀は被存共、志道軒は願ひ候儀には有之間敷候。子    細は浅草馬道大長屋と申スに住宅申候。其頃あの辺に拙者(本HP注、瀬名)懇意成もの御座候て承り候    処、店主より書上にて、志道軒と申ス気違イ坊一人と書上有之由、咄承り候。右之趣は講釈致し候内に    も種々雑言など申候事抔、かの坊家のもの故、咎め抔有之節如何と存、気違ひと書出し候由の物語承り    候。右志道軒墓は浅草勢至観音堂金剛院に有之、墓の写も致し置候と覚へ申候。     (墓の図あり)        明和二乙酉三月七日  (右側面)妙通信女 正徳二年五月廿六日      梵 一無堂栄山大徳          妙光信女       (左側面)須光信士 延享五戊辰四月三日〟                       ※(『燕石十種』①351は「順光信士」とあり)    ◯『塵塚談』〔燕石〕①289(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)   〝深井志道軒といふ講釈師、浅草観音脇三社権現の宮前に、葭洲張をしつらひ、数年出居て糊口せし也、    無一草とて、半紙六七枚計り自分述作の書を、立寄し人に売たり、一奇物にして、小児の手遊にも、か    れが机にかゝり講釈の形を、近頃迄売ける、此者が講釈は、終日、おかしく取しまりも無き事のみをし    やべりけり、いかゞの訳やら、僧を嫌ひ、出家が目の前に踟蹰すれば、雑言をいふてそしりけれども、    彳む出家に壱人も咎る者も無りし也、元来禅僧にて、達識也と評判せり、明和二年乙酉三月七日死す、    号は無一堂、墓は観音境内金剛院に在り、すべて高名の者の跡は継者有者なるに、一世にて絶たり〟    ◯『十方庵遊歴雑記』二編(釈敬順著・文化十一年(1814)記)   〝舌耕者志道軒が墳墓    浅草観音境内勢至堂金剛院 天台 は矢大臣門前馬町の角東側に有て、姥が家に隣る、当時に志道軒の    墓あり。此坊主は享保年間より明和二年までの間の講釈司(コウシヤクシ)にして、即ち観音仁王門の脇ぬれ仏    の前に、葭簀囲ひし定店に軍書を講ぜり、その頃までは古戦ものがたり、源平盛衰記太平記曾我ものが    たり等と舌耕す、よつて世人太平記よみと称しけり。是は此時分当世の如く講釈司、江戸に沢山あるに    はあらず、元文寛保の頃、瑞龍軒志道軒の徒、公辺へ願ひて今の三河風土記を読むことはなりしとなん、    その頃は世挙て此志道軒を江戸の名物と取はやせり、是江戸にその頃軍儀講談するもの少なきが故なり、    此坊主浅草馬道大長といふ処に住居し、広く大小名へ立入て舌耕す、但し此志道軒おかしき僻ありて、    わ定居の講席へ出家と侍入来れば、必その人の穴をいひ当劘(アテコス)ることを常とし、取分日蓮の徒の穴    をいひて匃訇(ノノシル)こと平生也、又婦人入来ることあれば、拍子おふぎの代りに頭は樫の木、外は節の    込てくびれたる竹にて作り男根を振を(*ママ)振廻し、又はトン/\と扣き女の赤面するを興とせり、そ    の趣、彼が辞世にも見えたり、猶その外高貴の人をも横平に匃訇る事常なれども、彼が例わる口とゆる    して諸客気にも留ざりし、今も志道軒が名を継ぎ舌耕するもの三代におよぶといへども、中々名も発せ    ず、初代とは格外劣れり、文化十一甲戌年にいたりて最早五十年におよぶ、伝えいふ志道軒が肉縁の孫    たるもの、今浅草仲町に住宅し仕立屋して渡世すとなん、辞世及び墳墓左のごとし      わがものとおもふやおかし殿根房いくさのなかに笑ひ声あり      穴を出てあなに入まで世の中にとらん貪着せずにたのしめ      東からぬつと生れて月日さへにしへとん/\われもとん/\     明和二乙酉年三月七日 一無堂栄山大徳〟  ◯『畸人百人一首』緑亭川柳著・嘉永五年刊〔目録DB 同志社〕61/67コマ   〝深井志道軒は心学やうの講師にて 浅草観世音境内に数(す)十年出て講ず「無一草(むいつさう)」とて    半紙六七枚の自分述作の本を種とし 木で彫し陽物の形せし物持て机を◎き 終日(ひねもす)可笑(お    かしく)取しまり なきことを申せども自然道理に叶ふことある故にや 人群集して是を聞く されど    もいかなる故にや 僧をきらひ出家が目の前に来る時は ことの外雑言をいひて譏る 然れどもたゝす    む出家は一人も◎(とが)むるものなし 元来律僧にていみじき智識也と評判せり 其の名世界に聞えて    一枚画小児の手遊びの人形にも売りひさぐ 一奇物にして名誉の者なりしが 明和九年酉三月七日死去    す 無一堂と号す その墓は観世音境内金剛院にあり      遠近の人をたづねに呼子鳥 覚束なくも過ぐるとし月  志道軒〟    り