Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しばい えかんばん 芝居絵看板 江戸浮世絵事典
 ◯『金之揮(キンノザイ)』序文(近藤清春画・享保十三年(1728)刊・電子版霞亭文庫より)   〝まつた竹之丞ハ都古伝内取初めし芝居也。皆人大芝居と名付シハ尤成かな。(そのむかし)勘三郎、長    太夫、勘弥三芝居ハ追出しの芝居也。竹之丞ハ一日芝居故、物ことしづかニて、わけよく聞へし故、大    芝居と名付たり。絵かんばんまねきの人形作り物も、竹之丞芝居より初る也〟    〈宝永の頃までは、追い出し(一番ごとに観客の一部を入れ替える)芝居がおこなわれていたとされる(鳥越文藏著     「絵入狂言本研究」『元禄歌舞伎攷』所収 )〉  ◯『画証録』〔続燕石〕①52(喜多村信節著・天保十年(1839)序)   〝絵の看板、もとはなし、鳥居庄兵衛清信より始る、是は元禄より享保の人なり〟  ◯『三升屋二三治戯場書留』〔燕石〕③11(三升屋二三治著・天保末年成立)   〝鳥居看板    元祖鳥居、代々、芝居看板、番附等は、此家の流儀を以て用る。初代は清信、二代目清倍、三代目清満、    四代目清長を市兵衛といふ、新場に住、五代目鳥居清満は始清峰といふ、三代目清満の孫なり、又四代    目清長の門人にして、清満の弟子【清綱、清種、清重、亀次郎】、四代目の門人に、清忠、清元あり、    清元は近頃病死す、いまに鳥居風看板に古風ありて、江戸芝居のたのもしきといふもさらなり、役者附    此家の流儀に極る也〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (「歌川豊春」の項   〝 豊春は始め(空白)門人なり(附録に西村重長が門人と有るは非也と云々)後、流行の風俗を画き一家    をなせり。操芝居の看板画をかけり。彩色尤委し。(*中略)     按るに、土佐結城の操座の看板を画く。此人の筆にて度々評判せられし珍敷図取をかきしと云り。其     後春英も是に次て劣らず書しものなるべし。今は春徳が筆なり。春亭も一両度書し事ありし〟     ◯『【類聚】近世風俗史』(原名『守貞漫稿』)第三十二編「雑劇下」p554   (喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝絵看板も其古風を見すと雖も、必ず昔は江戸の如く鳥井流等の画風なるべし。今は極彩色にて浮世絵師    之を画く、人形大略尺計山水館舎等全く画けり。浮世絵師平日は役者肖像を専とすれども、看板には多    く肖像を画かず。稀には肖像にも画也。釣看板絵看板ともに人形惣身の中、何れになりとも一所役者の    紋を付け、誰は某に扮すと見易からしむ。絵には紋唐藍にて画く     (中略)    江戸芝居の絵看板の始めは、享保中、浮世絵師の名ある鳥井清信の門人二代目清信、始て四座の看板を    画き、其門人清長より今に至る迄、祖流を伝へたる鳥井某と云、之を画くのみ。三座の看板及び番付絵    を描き画風を変すること之無し。看板の形は中村座図に画く如く竪長にて、形亦新法を用ひず。縁など    も京坂の如く美ならず。毎時中の絵をかき改むるのみ也。鳥井風の絵、彩色も京坂の如く精美ならず。    家居草木等、必用のみを画き、或は画かず、人物のみを専とす。蓋、人物に役者定紋を描くことは前に    同じき也。又名代看板と云て、京坂一枚看板に似たる物あり。上に眼目とすべき狂言の図を画き、下に    外題を墨書す。三都ともに此看板に出るを役者の名誉規模とすることなり〟  ☆ 明治以前  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(【雑】は『雑俳語辞典』鈴木勝忠編・注は編者の注)   〝出来て来て役者のたかる絵看板〟「唐子おどり」正徳中【雑】注「芝居看板」    〈今度興行する芝居の看板が出来てきたので、役者衆が集まってその出来映えを品評しているのだろう〉  ◯「鳥居清信所画矢之根五郎絵馬(下)」木村捨三著(『集古』辛巳第二号 昭和十六年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(4/13コマ)   〝当時(元禄)の劇場表掛りを見るに、狂言外題を記した立看板が木戸口に樹立してゐるのみで、後世の如    き絵看板は未だ発達してゐない。もしあるとしても僅に一二枚の小形のものが、櫓下の庵看板と並んで    あつたことは、ボストン美術館蔵の江戸境町芝居小屏風の裏絵の中村座城戸口図と元禄七年版『役者い    かづち』の挿絵が画証として挙げられる。享保十五年十一月、「入船蛭小島」興行のときの中村座内外    を画いた屏風(川又常行画)には、その木戸口に名題看板の上部に絵をかいたものが四枚あるのが見られ、    まづ絵看板と称するものは、此頃からといってよいであらう〟