☆ 宝暦元年(1751)
◯『増訂武江年表』1p158(斎藤月岑著・嘉永三年刊)
〝三月十八日より、浅草寺観世音開帳(享保四年より三十三年にて、寺内神仏のこらず開帳あり、吉原玉
屋花紫といふ遊女、十二桃灯へ鶴の丸を付けて始めて奉納す。これより十二てうちんの花紫とてその名
高く、小唄にもつくりてうたひはやらしける)〟
◯『後はむかし物語』〔燕石〕①317(手柄岡持著・享和三年(1803)序)
〝前年(宝暦元年)の浅草観音の開帳に、玉やの花紫【太夫なり、我覚えては此一人にて、其後太夫とい
ふ物絶たり】提灯を十二つらねて奉納せしより、十二てうちんのうたあり、花火の十二提灯といふも、
出所はこれ(かぼちやぶし)なり、此かぼちやぶしにて(中略)
〽十二桃灯、花紫の紐付て飾し、玉屋の女郎衆が、恋の巣ごもり、紋は鶴の丸 ヨイハヨイワイナ
その名総角恋の染衣、上総やで器量はよし巻、高松に、顔も沢瀉のみんな紋所
恋の瀬川の、深い情をまつ葉やの、頼りを松風其梅に、おもひ染川、ちらと三柏
めぐる紋日の巴や巴、豊山にこがれておほ里しつほりと、二世をかたばみと契る紋所
のぼりつめたる天満や、定家小式部にお客が通路、川岡の君は中の町へ、ほんにむかふ梅
右五章は江戸町一丁目なり
(以下略)〟
☆ 寛政二年(1790)
◯『吉原二度の景物』〔未刊随筆〕①281
〝寛政二午年浅草観世音御開帳の時、吉原より提灯あまた奉納せし中に、江戸町角玉や花紫十二てうちん
に、あげまき結びさげたるが、殊に目だちける、其頃芝居見世物の人形に籠(ザル)を手に持、其中へ
いろ/\の品玉を入てそれを、ふたをあけ候へば品かわるしかけにて、お出でこでんとて流行しける、
其はやした文句さま/\なる中に、
〽十二てうちん、花紫に、紐つてかざりし玉や女郎衆は恋のすごもり、紋は鶴の丸サッサよいわいなア
〽こゝに京町大もんじやの大かぼちや、其名は市兵衛と申ます、そいはひくくてほんに猿まなこ、よい
わいな/\
其外文句あまたあり、殊に小児までうたひはやしける、折からより市兵衛の名は諸国にかくれなし、さ
はいへ此人かゝる異形の人にはあらず、尋常(ヨノツネ)十人なみの人なるを、かくいひふらされしこそ、
此人の一徳なれ、故に大もじやの大果報者なりと、人の言ひしごとく子孫繁昌せり〟