◯『藤岡屋日記 第五巻』(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)
◇アメリカ船浦賀来航 p464
「海防全書 上」
〝(アメリカ合衆国・ワシントンの軍船四艘、浦賀に来航)
日本浦賀ぇ六月三日八ッ時に渡来、アメリカ王より日本大王ぇ使節之趣、是迄漂流船と違ひ、船ぇ役人
方は勿論、夫役船抔更に寄せ付不申、九日御奉行様、四家様拝謁申上候に付、書翰御受取に相成、其節
上陸人四百人計御坐候間、調練仕候処、一同目を驚し候よし。
毛唐人は抔と茶にして上喜撰 夜はうかされてねむられもせず
阿部川は評判程にうまくなし 上喜せんにはわるひ御茶うけ
日本を茶にして来たる上喜撰 安部川餅へみそをつけたり
異国船伊豆の軍と皆岩見 浦賀しつたる事にてはなし
江戸の町女唐人出来た故 浦賀の沖へアメリカが来る
唐人は早く帰つてよかつたねへ又来る迄は御間ダもあり〟
〈「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」の上喜撰は、高級宇治茶の銘柄。阿部川は当時の老中・
阿部伊勢守正弘。岩見は浦賀奉行・井戸岩見守弘道〉
◯『藤岡屋日記 第八巻』(藤岡屋由蔵・安政五年(1858)記)
◇蒸気船 p261
〝七月十七日、英吉利献上の蒸気船は、明十八日夕受取に相成候処、此節大樹公御不例に付、祝炮之義も
遠慮致し、少々空炮を放し候よし〟
〈「大樹公御不例」、第十二代将軍徳川家定はこの七日に亡くなっていたが、表向きは「不例(病気)」
としていた〉