◯『増訂武江年表』1p15(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(慶長十八年・1613)
〝御仕置(オシオキ)ありし処を地ごくと呼べり。糀町三丁目の裏なる地を地ごく谷と云ふ〟
◯『親子草』〔新燕石〕①59(喜田有順著・寛政九年(1797)閏七月望日序)
「中洲全盛の事」〈安永天明期、大川の中洲を埋め立てて造成した新地、三ツ股富永町の記事〉
〝水茶屋数多出来、女芸者なども入込候に付ては、隠し売女をいたし候、号て地獄といふ、素人のやうに
もてなし、殊の外流行のよし。右露顕に及び、召し捕られ候に付、夫より分てさみしく相成。其比稲荷
の初午の行燈に、
地獄とはいへど中洲に遊ぶ茶屋
といふ句あり。近来地ごくと言し初也。然る処、寛政二戌年、家作取り払い仰せ付られ、上の御入用を
以て、右埋め立て候地所、元の如くの川となり(以下略)〟
◯『藤岡屋日記 第三巻』③105(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)
〝去午年(弘化三年)夏頃より今川橋へ夜鷹五人計出で、群集致す也。此頃は新シ橋・和泉橋辺へひつぱ
りと云歳間女出で、客に逢て相談を致し、宿ぇ連行、泊る也、つとめ金弐朱也、是地獄也。
地獄とはいへ共鬼はおらずして
迷ふ男を救ふ女菩薩〟