『前賢故実』全十巻二十冊 菊池容斎画 文政初年(1818年)起筆、明治元年(1868年)完成
天保十四年(1843)~明治元年(1868)刊
◯「大蘇芳年のこと」(中島誠之助談『集古』所収 昭和十七年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション『集古』壬午(2)7-8/13コマ)
〝(月岡芳年門人、当年七十五才の中島誠之助翁の談)
芳年の画室は、小庭に面した六畳の部屋で、壁ぎわにはギツシリ本が積んでありました。私が通つた頃
は、床の間には何時も、四條派系統の掛物ばかりであつたと記憶して居ります。机の傍に、きまつて置
いてあるのは、菊地容斎の『前賢故実』で、見えない時というものはありませんでしたし、事実歴史画
の場合は、必ず参考にして居りました〟
◯『こしかたの記』鏑木清方著
「年方先生に入門」p94
〝明治の初期に、芳崖、雅邦よりも一般人には高名な菊池容斎をさし措いては、明治の挿絵は語れないと
いうことを知らなければならない。私の経て来た体験について云えば、その時期での挿絵の新風は、容
斎とその門人、松本楓湖、渡辺省亭(セイテイ)の三人を、基点と云うか、源流と云うか、とにかくそこから
出ているのである。なお焦点を集注させると、そこには容斎の著、『前賢故実』がある。この挿絵は
『晩笑堂画伝』に負うところが尠くないけれども、それより気の利いた挿絵的要約が次代につづく人達
に新風を生む示唆を与えた。楓湖の『幼学綱要』や『婦女鑑』は更に桂舟や永洗に大きな影響を及ぼし、
やはり容斎門の省亭は、年方へ直結して、間接的には私にまで及んでいる。華邨の師の中島亨斎は容斎
の門人であり、半古はまた華邨に多少の関係があったと思われる。またその頃には、塾での教科用とし
て『前賢故実』を用いたところがあった。半古社中、年方社中が使ったのは知っているが、楓湖社中は
なおさらそうであったろう。その本のなかで容斎は、塩谷高貞の妻を主題に、裸婦をかいている。門人
の省亭はまたそれを粉本に、山田美妙の小説『胡蝶』に裸婦をかいて、やかましい問題になったのは、
その後の文献にもたびたび載って、珍しいことでもないが、裸婦の美しさは省亭の方にある〟
◇「口絵華やかなりし頃(一)」p182
〝 明治初年の挿絵は、前の時代からそれを専門の職にしていた芳年一派が、ほとんど独占の形になって
いたのだが、新しい時世につれて読物も追々変ってくると、その挿絵もまた新風を求めるようになるの
は自然の進化で、既成の型に縛られていないものが次第に頭を擡げて来た。若い日の武内桂舟はその中
でも先ず第一に指を折る人であった。私のいつも云うことであるが、明治の挿絵の根蔕には容斎がある。
もっと端的に云えばその著『前賢故実』があると云った方がよかろう。一流の挿絵画家で、直接あるい
は間接にその影響を受けていないものは一人もなかったとまで云えるのである。先輩がそうなのだから
二流三流の末輩がこれに倣うのはあたりまえなのであった〟