◯ 上野戦争(慶応四年・1868)
「幕末時代の錦絵」淡島寒月著(『浮世絵』第二十一号 大正六年二月)
(『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p120)
〝私の子供の時分は、丁度御維新当時でしたから、錦絵はいずれもそれを当て込んだものが多く、彰義隊
だとか新徴組だとかいったような、当時の戦争を背景に、紅に漆を交ぜた絵の具を使って、生々しい血
糊の附いた首などを画た絵が喜ばれました。その頃の錦絵といえばまあこういった血腥いものが流行で
した。それをねらって、巧く成功したのが、彼の芳年翁などでしょう〟
〈梵雲庵淡島寒月は安政6年(1859)生まれ「維新当時(1868)」は九才〉
◯ 西南戦争(明治十年・1877)
西南戦争(錦絵・版本 画工別) 西南戦争(版本 年月順)
◯ 日清戦争(明治二十四~五年・1891-2)
日清戦争(版本)
◯ 日露戦争(明治三十七~八年・1904-5)
「読売新聞」明治三十七年(1904)六月七日記事
〝五姓田芳柳氏の戦画談 人あり、或日五姓田氏を訪ひ、談たま/\戦争画に及ぶ。問うていふ。この振
古未曾有の大戦争については画家も其の職責を遺憾なく発揮せんことを望むので、開戦以来已に数ケ月、
絵草紙屋の店頭に、雑誌の挿絵に海陸戦争画で充ちてゐるが、仔細に見ると素人にも指摘の出来る誤謬
の者のみといつてよい。海陸の当局者が見たらば何と思ふであらう。一笑に付する価値もないかも知れ
ぬ。洋画家は写実を口にするが、かういふ時は日本画と同様で、迚も満足は出来ぬ。陸軍の方はまだし
も我慢されるが、軍艦に至つては十の八九は商船か荷船で、勝手な砲を載せてゐる。東京一二の大書肆
発行の大雑誌中の名画もさうである。洋画家たる者、何故今日の時機に於て其の手腕を示さぬのか。
芳柳氏膝を正して答へていふ。いかにも貴下の言の通りだ。今其言の適中せるを証せん為画家の楽屋を
開放して告げよう。画家に軍事の素養なきは元よりなれど、書肆が際物的に肉迫して速成を喜ぶの外、
事物を調査するの余暇を与へぬのも一の原因だ。又多少素養のある者も十年前のと今日とは余程異なり、
三笠を観た人は千代田を知らぬ有様にて、止むを得ず戦闘艦の砲門を以て駆逐艦に擬して僅かに一時を
糊塗する次第だから、当らぬのも無理はない。画家自身も大に愧づべきであるが、独り画家をのみ責め
るのは、教へざる兒に向つて其の愚を嘲けると一般、笑ふ者も褒めた話ぢやない。日清戦争の際も画家
は厄介視され、北清事件の折も台湾に従軍せし画家は一二人であつた。且つ其筋所用の戦画も従軍画家
には依托せずして却つて都城に午睡を貪つてゐた者に依托する程だもの。当局者は、歌人居ながら名勝
を知るといふ訳で、画家は実地に臨まずとも戦画を画き得ると思つたのか。しかし其れは過去の事で為
方(しかた)がないが、将来は大にこの点を考へて貰ひたい。聞けば海軍側では出願者の外特に一名の
画家を派出するさうだが、希(こいねがわ)くば海陸共に出願者を今少し多く、且つ簡易に許可して貰
ひたい。元より軍用金必須の際だから相当の食料を収めるか、又は当局へ戦画の無料上納も辞せぬので
ある。平素も画家の請ひとあらば差支ない限り営内の観覧、武器の採写其他何くれと充分便宜を与へて
貰ひたい。大演習は無論のこと、実戦にも従へることにしたい。さらば戦史の挿絵も正確になり、百年
の後目睹(もくと)する如くなるであらう。物の発達は自から順序がある。今俄かに誤(あやまり)の
ない戦画を造れと強ゆるのは酷である
〈ブログ「見世物興行年表」「パノラマ 十二」より引用した〉