☆ 文政五年(1822)
◯『瑠璃紫江戸朝顔』合巻 市川三升(七代目団十郎)作 歌川国貞画 山口屋板
(巻末、作者三升の口上)
〝当春御披露仕候 南伝馬町三丁目稲荷新道 美艶仙女香 追日繁昌仕 難有仕合奉存候〟
〈「仙女香」の宣伝広告が合巻の巻末や新刊目録に登場するのはこの年からか。主要な版元が悉く載せているから、販売
する坂本氏(町名主・和田源七)と地本問屋との間で何らかの交渉があったものと思われる〉
(巻末広告文)
〝御かほの妙薬 美艶仙女香(びゑんせんぢよかう)一包 四拾八文
此御くすりは享保十一年廿一番の舩主伊孚九と云へる清朝人 長崎偶居の時 丸山中の近江屋の遊女菊
野に授けたる顔の薬の奇方なり 伝へていふ清朝【今のから(唐)】にて宮中の婦人常に 此薬を用ひて
粧(けはひ)をかざるとぞ 右の伝方故(ゆゑ)有つて 予が家に伝へたるを 此度世に弘むるものなり
今世上に顔の薬と称するものあまたありて 色はいづれも初霜のおきまどはせる菊なれども 家方の妙
薬は別種の奇剤なれば 世上の顔のくすりと一列に下着(みなし)給ふことなかれ
功能左にしるす
△常に用ひていろを白くし きめをこまやかにす △はたけそばかすによし △できものゝあとを
はやく治す △いもがほに用ひてしぜんといもを治す △にきびかほのできものに妙なり △はだ
をうるほす薬ゆゑ 常に用ゆれば歳たけても かほにしはのよる事なし △惣身一切のできものに
よし △ひゞあかぎれあせもに妙なり 股(もゝ)のすれには すれる所へすり付てよし
調合売弘所 江戸 南てんま町三丁目いなり新道 いなりの東どなりにて 坂本氏
口上
右の御くすり十包以上御もとめ被下候はゝ 当時三芝居立者立役女形 正めい自筆の御扇子けいぶ
つとして差上申候間 十包以上御求め被遊候節は 御好みの役者名前の御しるし御こし可被下候
其品差上候
用ひやう 水にてとき 御つけて被成候〟
(巻末に上掲の広告文が載る作品)
◇合巻
『弘智法印嵓阪廼松』墨川亭雪麿作 歌川国直画 山本板
『月宵吉阿玉之池』 曲亭馬琴作 歌川豊国画 鶴喜板
『浜真砂黒白論』 志満山人作 歌川国信画 森治板
『昔語成田開帳』 山東京山作 歌川国貞画 山口屋板
『由良湊入船日記』 東西庵南北作 勝川春好画 泉市板
◇読本
『遠の白浪』十返舎一九画・作 鶴屋金助他板
(巻末に「御かほの妙やく 美艶仙女香 一包 四十八文」の広告のある作品)
『小女郎狐手引仇討』月光亭笑寿作 勝川春好画 山本板
『小柳縞阿娜帯止』 墨川亭雪麿作 歌川国安画 丸文板
『北里花雪白無垢』 渓斎英泉画 山東京山作 岩戸屋板
『忠孝両岸一覧』 歌川国直画 柳亭種彦作 西与板
『魁武功之花』 勝川春亭画 十返舎一九作 伊藤板
〈以上、この年から合巻の中にこれらの広告が一斉に載ることになった、以降天保十三年の正月ま続く〉
☆ 文政六年(1823)
◯『四季物語郭寄生』合巻(古今亭三鳥作・歌川美丸画・文政六年刊)
〝美艶仙女香 一包 四十八銅〟
◯『南総里見八犬伝』読本 五輯(柳川重信・渓斎英泉画 曲亭馬琴作 文政六年刊)
〝御かほの妙やく 美艶仙女香 一包四十八銅
(広告文あり 文政五年の「美艶仙女香」と同文 略)
調合売弘所 江戸 京ばし南てんま町三丁め いなり新道 いなりのとなりにて
坂本氏〟
☆ 文政七年(1824)
◯『江戸買物独案内』(中川芳山堂撰・文政七年刊)
「御かほの妙薬 美艶仙如香(能書あり・略)京橋南伝馬町三丁目 いなり新道いなり社
東となり 本家坂本氏製」
☆ 文政十年(1827)
◯『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」七月七日 ①151
〝和田源七来ル。美玄香とやら売薬、弘メ候由ニて、合巻ニ書入被下候得と之頼也〟
〈和田源七は京橋鈴木町の名主で、この当時は、絵草紙(草双紙)の改(あらため)掛(かかり)すなわち検閲を行う立場で
あった。他方、源七は坂本氏製の名目で「しらがそめ薬」の美玄香と、美顔の「仙女香」の化粧品を販売していた。「仙
女香」の方は同年正月刊の馬琴作合巻『牽牛織女願糸竹』(国貞画・西与板)にも載っているから、今度は加えて「美玄
香」のお願いである。源七がすべての戯作者に名弘めを依頼して廻ったとも思えないが、大立者の馬琴の了解はとっ
ておこというのであろうか。翌11年正月刊山東京山作合巻『鹿子紋娘道成辞』(国貞画・丸甚板)には両方載っている。
馬琴作では同13年刊『代夜待白女辻占』(国貞画・西与板)からか〉
☆ 天保七年(1836)
◯『江戸名物詩』初編 方外道人狂詩 天保七年刊(国書データベース)
「坂本氏仙女香 南伝馬町三丁目
新板読み来る草紙の傍(カタハラ) 此の家の口上両三章
京橋の北春風の夕 町内吹き薫ず仙女香」
☆ 天保十三年(1842)
◯「合巻」上の広告「仙女香」
〈文政5年(1822)以来、合巻の巻末や本文中に表示されてきた「仙女香」の広告もこの天保13年の正月刊をもって途絶える〉
(具体例)
『犬神太郎暴悪譚』蔦吉板 『児雷也豪傑譚』四編 泉市板 『偐紫田舍源氏』三十八編 西与板
『勝軍源氏乃高名』森治板 『松竹梅春着染色』 丸清板 『忠孝誉石碑』藤彦板
◯『藤岡屋日記 第二巻』p292(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)
◇和田源七処罰
〝十月十日、鈴木町名主和田源七、私に庇を取らせ候に付、糺之上押込、相済候て隠居致し候、勤役五十
四年之内、年は七十余歳也。仙女香の見世を出し置、絵双紙懸也〟
〈仙女香は南伝馬町三丁目の坂本氏製造の美顔化粧品「美艶仙女香」。合巻の広告に必ずといってよいほど登場してい
た。この坂本氏が実は鈴木町名主の和田源七、しかも絵草紙の改(あらため)掛(かかり)という立場でもあった。折か
ら天保の改革の最中、検閲の際ひそかに手心を加えたという廉で押し込め(軟禁)の処分に遭った〉
☆ 天保十四年(1843)
◯正月刊「合巻」上の広告「仙女香」
広告あり『孝信開運日記』(国直画 春水作 森治板)
広告なし『由良湊長者噺』(貞秀画 王蘭斎訳 山本板)
〈絵双紙改め掛り名主の和田源七が罰せられたのが前年十月。天保14年正月出版の合巻に「仙女香」の広告が載るのは、そ
れ以前に検閲済み作品なのであろう。この年をもって、文政5年から続いてきた合巻巻末における各版元の一斉広告は
姿を消す〉
☆ 弘化二年(1845)
未見
☆ 弘化三年(1846)
◯『朧月猫草紙』四編 合巻 歌川国芳画 山東京山作 山本平吉板
本文にも巻末新刊目録にも見当たらず
☆ 弘化四年(1847)
◯『朧月猫草紙』五編 合巻 歌川国芳画 山東京山作 山本平吉板
(巻末新刊目録)
〝せけんむるい御かほの薬おしろい 美艶仙女香
御しらがそめ薬 黒油美玄香 坂本氏製〟
〈この年、合巻の新刊目録に仙女香の広告が載るのは山本平吉板だけのようだ〉
☆ 嘉永元年(1848)
◯『春の文かしくの草紙』初編 歌川豊国画 山東京山作 山本平吉板
(弘化五年戊申春新版稗史目録)
〝御かほの薬おしろい 美艶仙女香/しらがそめくすり 黒油美玄香
一包四十八銅ッッ 京橋南伝馬町三丁目 坂本氏製〟
☆ 嘉永二年(1848)
◯『菊寿童霞盃』十編 一陽斎豊国画 山東庵京山作 山本平吉板
(嘉永二年己酉春新版稗史目録)
〝御かほの薬おしろい 美艶仙女香/しらがそめくすり 黒油美玄香
一包四十八銅ッッ 京橋南伝馬町三丁目 坂本氏製〟
☆ 嘉永三年(1849)
◯『堀川唄真實録』初編 一勇斎国芳画 笠亭仙果作 山本平吉板
(嘉永三年庚戌春新版稗史目録)
〝御かほの薬おしろい 美艶仙女香/しらがそめくすり 黒油美玄香
一包四十八銅ッッ 京橋南伝馬町三丁目 坂本氏製〟
☆ 嘉永四年(1850)
◯『春の文かしくの草紙』五編 一陽斎豊国画 山東庵京山 山本平吉板
(嘉永四年辛亥春新版稗史目録)
〝御かほの薬おしろい 美艶仙女香/しらがそめくすり 黒油美玄香
一包四十八銅ッッ 京橋南伝馬町三丁目 坂本氏製〟
☆ 嘉永頃
◯『桃太郎一代記』一勇斎国芳画 楽亭西馬作 泉市板 嘉永頃刊(国書データベース)
(巻末 泉市板出版目録)
〝金太郎一代記 /桃太郎誉家土産 /花咲爺誉さきがけ /仮名手本忠臣蔵 /音聞狸腹づゞみ
菅原伝受手習鑑 /義経一代記 /舌切雀宿のさかえ /十二月子供あそび /きつねのよめ入
(数字不明)御おしろい 美艶仙女香/(数字不明)黒あぶら 美玄香 京ばし南◎壱丁目角 坂本氏〟
〈刊年は〔国書DB〕の書誌による〉
〈以下、すべて山本平吉板 嘉永五・六年~安政元・二・三・四年迄確認。以降確認中〉
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
1 合巻の辻/\にある仙女香「柳樽97」文政10【続雑】
〈美艶仙女香。南伝馬町三丁目、坂本氏の美顔化粧品。合巻に付き物の広告〉
2 大詰に仙女も出づる草双紙「柳多留116-26」天保3
合巻の巻末に坂本氏製の「美艶仙女香」の広告〉
3 絵草紙へ引札を書く仙女香「柳多留116-26」天保5
〈引き札は広告〉
4 なんにでもよくつらを出す仙女香「柳多留154-32」【柳多留】